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反対を押し切って上京した3カ月後、父の胃がんは発覚した


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土田さん

 

記事:土田 ひとみさま(ライティング・ゼミ)

私の父は、ひねくれ者の短気おやじ。
どれくらいひねくれているかと言うと、まず愛する娘を絶対に「かわいい」と言わない。成人式で着飾った時も「馬子にも衣裳だな!」と言うのが精いっぱい。そのくせ、娘である私のことを常に気にかけて心配をしているから、「かわいい」と思っていることは周りにはバレバレ。陰では「親ばか」と言われていた。

そして、母が作った料理に対して、最高の褒め言葉が「まずまずだな」だ。
特に大好物の卵焼きを食べたときに「まずまずだな」と言いながら完食する。私も一切れ食べたかったのに。

それから短気もすさまじい。
自動車整備士である父は、40代までディーラーに勤めていた。父がまだぺーぺーの頃、その店舗で一番偉い所長さんに対し、灰皿を投げつけたらしい。「しょうもないことで会議が長引いていたから」という理由で。後輩に対しても、技術を教えるのに熱くなりすぎて、工具を投げつけたことがあるらしい。

「利光さんは短気だったなあ……」

父の仏壇に線香をあげながら、昔からの知り合いは懐かしそうに思い出話を語ってくれた。

父は、私が上京した3カ月後に胃がんが発覚し、その1年後にあっという間に死んだ。
本当にあっという間だった。
今からあれもこれも、楽しいことがあるはずだったのに、気が短い父は62歳でさっさとあの世に行ってしまったのだ。

私は父が病気と闘っているとき、傍にいなかった。自分勝手に上京し、父のいる山形から遠く離れていた。
そんな私は、最高に親孝行な娘だった。いや、親孝行な娘だ。今も、現在進行形。

私は、山形生まれ山形育ち。29歳まで、高い山に囲まれたこの地域から出たことがなかった。
しかし、ある日突然「私の人生、このままでいいのだろうか」と考え始めたのだ。
なぜ、そんなことを考え始めたかと言うと、幼い頃、父がくれた言葉がずっと引っかかっていたからだ。

「国語も算数も全部できなくていい。でも、これだけは誰にも負けないという『たった一つの道』を見つけなさい」

父は普段、真面目なことを言わない。教養もないし、偉そうなことも言わない。いつもテレビで野球中継を見ては、まるで監督のように大声をあげてみたり、バラエティ番組を見ては、ゲラゲラと笑っていた。
そんな父だったからこそ、小学生になったばかりの私に言った言葉は、衝撃的だった。いつもの「お父さん」と違って、立派に見えたから。

小学生のときには「『たった一つの道』を見つけなさい」と言っていた父だったが、やはり愛する娘が苦労したり傷ついたりするのは見たくなかったのだろう。いざ進路を決めるときになると、安全な道を歩ませたがった。
自分の学力で、まあ行けそうな進学校をすすめたり、公務員の道をすすめたり、できるだけ親元の近くに置こうとしたり……、「たった一つの道」とはかけ離れた道をすすめているようだった。その道に私の個性はなく、ただ親が安心する道のようだった。

しかし、私自身も29歳まではその道でいいと思っていた。
親から敷かれたレールに強制されていた気もないし、自分で好んで安全な道を歩んでいた。
なぜ、急に小学生のときに言われた父の言葉が気になりだしたのかは分からない。でも、もう誰にも止められないくらい、私は私だけの『たった一つの道』を歩みたくなったのだ。

父は、もしかしたらあの言葉を、「俺の娘なんだからそんなに頭は良くないだろう。でもまあ、ひとつくらい得意な科目が見つかるといいな」くらいの気持ちで言ったのかもしれない。
でも、自動車整備士として一本の道を歩み、40代で独立し、苦労しながらも楽しそうに仕事をする父の背中を見て育った私は、何としてでも『たった一つの道』を見つけたいと思わずにはいられなくなったのだ。

悩みに悩んだ末、私は『たった一つの道』を見つけるために、「東京に行かなくてはならない」という結論に至った。どうしても、今、このタイミングで、猛烈に東京に行きたくなったのだ。今まで歩んできた安全な道を捨ててでも、行かなければならなくなったのだ。

両親にこの気持ちを打ち明けたが、もちろん猛反対。
安全ではない道を歩こうとする娘を、全力で阻止した。
しかし、私も負けない。
29年間感じたことのないほどの衝動に駆られていたのだ。
両親を説得するのは後回しにして、勝手に転職活動を始めた。

両親を無視した転職活動を始めて半年後、第一志望のところから二次面接の知らせが来た。恐らくこれで私の就職は決まる。やった!

1月の山形は毎日が大雪。東京用のパンプスで外を歩くなんてことは、不可能だ。私は仕方なく、父に駅まで車で送ってくれないかとお願いした。父は、特に詳しいことも聞かずに、いいよと言った。

転職活動をしてから、両親とは気まずい関係になっていた。以前のように、親子で出かけることもなくなったし、同じ屋根の下にいても極端に会話は減った。今までは、ご飯を食べながらバラエティ番組を見て、一緒にゲラゲラ笑っていたのに。そんなことも、この半年間なくなっていた。

そんな関係の父と娘が車の中で二人きりになったのだ。車の中は、地元のラジオとワイパーの音だけが響いた。その音しかなかった。
雪がフロントガラスに落ちては溶ける。それをワイパーがかき分ける。そんなのを見ていた。二人とも。

駅に到着し、私は小さな声で「ありがとう」と言った。父の顔を見ようともせず、助手席のドアを閉めようとすると、父がぽつりと言った。

「落ちるように祈ってるからな」

はっとして、父の方を見たけれど、父は相変わらずワイパーを見ていた。いや、もっと遠くの方を見ていたのかもしれない。
私は何も言えず、苦笑いをして助手席のドアを閉めた。急いで改札を通り、手袋もマフラーも取らずに、東京行きの山形新幹線に乗り込んだ。

4月、私は東京で働いていた。しかも、表参道だ。カッコイイだろう。
新しい環境で、新しいことにチャレンジし、新しい自分を発見した。今まで経験したことのないようなことだらけで、何もかもが刺激的だった。

銀座には、好きなお洋服屋さんを見つけた。代官山には、お気に入りのカフェを見つけた。池袋には、他にはない面白い本屋さんを見つけた。
辛いこともあったけれど、とても充実していて、心底「ああ、東京に出てきて良かった」と思っていた。

あっという間に3カ月が経った、7月。
仕事終わりに母からのメールに気付く。電話をくれとの内容だったため、職場を出てすぐの路地裏で、山形に電話をかけた。

父が胃がんになった。

今まで大きな病気をしたことがなかったから、その驚きはとても大きかった。2月くらいから胃の調子が悪かったらしい。胃薬を飲んで様子を見ていたが、良くならないので胃カメラをしたところ、胃がんが見つかったそうだ。

2月と言ったら、私がまだ山形にいた頃だ。父は調子が悪いことを言えずにいた。上京するだのほざいている娘がいたから、ストレスでやられたのかもしれない。
とにかく、私のせいだ。
私のせいで父が胃がんになった。
きらびやかな表参道の交差点の前で、私は立ち尽くした。

山形に帰ろうか。
こんな大事なときに、両親の傍にいないなんて親不孝者だ。
実際、やんわりとそのようなことを言う人もいた。「何もこんなタイミングで東京に出て行かなくてもよかったんじゃない?」と。
私だって、ただ浮かれた気持ちだけで上京してきたわけじゃない。何も知らない人にそんなことを言われて、私は悔しかった。そして、それ以上に自分を責めた。

しばらくは、毎日泣いた。毎日、自分を責めた。毎日、自分のことを「親不孝者」と罵った。
山形に帰ろうか。
今まで大事に育ててくれた両親に、何も恩返しできていない。父と暮らせる時間が限られているのなら、精いっぱいの親孝行がしたい。

自分を「親不孝者」と罵り続けて約2週間後、父は胃がんの手術をした。手術の付き添いのため、私は山形に帰ってきていた。
「このまま、東京には戻らずに山形で暮らそうか」
そんなことを思いながら、東京発の山形新幹線に乗っていた。

父の手術は長かった。実際に長かったのか、長く感じたのかは覚えていない。とにかく、手術が終わるのを待っている間、何日も経ったかのように長く感じた。
時間を持て余した私は、色んなことを思った。
小さい頃父と遊んでもらったこと、叱られたこと、嬉しかったこと、寂しかったこと、父の表情、そして言葉……。

「国語も算数も全部できなくていい。でも、これだけは誰にも負けないという『たった一つの道』を見つけなさい」

あ……。

そうか。

私は、『たった一つの道』を見つけるために上京したんだった。
それは、父が私に望んでいることじゃないか。

気持ちがすっとした。

父は、心配しながらも、いつも私のことを応援してくれていた。初めは上京に反対していたけれど、実際に就職先が決まると、前向きに色々とアドバイスをくれた。東京に行ってからも、時々「東京はどうだ?」とメールをくれた。「楽しくやっているよ」と返信すると、ニコニコマークとピースマークの絵文字をくれた。
そして、父が若い頃、東京に住んでいたときの話(実際は神奈川県だけど、父にとっては東京も神奈川も同じだ)を楽しそうにしてくれた。やんちゃもしたけれど、いい思い出だと言っていた。

手術が終わる頃には、「山形に帰ろうか」と言う思いは消えていた。

手術の翌日、私は東京に戻った。
きらびやかなこの街でチャレンジし続けて、いつかきっと『たった一つの道』を見つけてやる! と誓った。
ただ物理的に親の近くにいることだけが親孝行じゃない。
自分らしく、ありのままで、誰にも負けない『たった一つの道』を歩むことが、最高の親孝行だ。

それから約1年後、父は他界した。
亡くなる直前、イキイキと楽しそうに暮らしている私を見て、父は「東京さ出して良がった」と言った。

私は親孝行な娘だ。
父の教えの通り、誰にも負けない『たった一つの道』を歩んでいるのだから。

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
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2016-08-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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