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あとがきの人生を生きるということ


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記事:青子(ライティングゼミ)

「今の私は、人生のあとがきを生きてるから」

じとっと汗ばんで、火照った身体を冷やすために頼んだビールが運ばれてくるのを横目で見ながら、私は目の前の友人に何気なく言った。

まだアルコールも入っていないのに、なんだか、とんだことを口走ってしまった。
私はすぐに後悔した。
別に深い話を切り出そうとしたわけではないし、友人を困らせようとしたわけでもない。不用意に、思わず口から洩れてしまったのだ。

友人は、観音様のような優しい顔をして、私の目をしっかりと見ながら
「あなたがそう思うなら、そうなんだろうね」とだけ言って追及しようとしなかった。

頭ごなしの否定か、もしくは叱咤激励を受けるかと思ったが、ただ受け止めてくれたのが嬉しかった。

そして、私たちは、キンキンに冷えたビールで乾杯した。
別に乾杯するような特別な名目もなかったけれど、また今日もこうして会えたから。

うん、ビールだって美味しい。
友人と語らうのも楽しい。
いま、私は素晴らしい時間を過ごしている。

それでも、私はこう感じているのだ。

「今、私はあとがきの部分を生きている」と。

「本編はもう終わってしまったのだ」と。

この感覚は、息子が天国に行ってからずっと続いている。
もうすぐ4年になる。
先天性の病気を持って生まれ、手術や治療を繰り返していたが、一方でとても元気に走り回り、ゲラゲラと笑っていた、強く逞しく、短い人生を生き抜いた自慢の息子だ。

この子との歩みが終わってしまったと同時に、私は別のステージに行くことを強いられた。

私の人生の本編は、「子どもと出逢い、母の愛というものを経験すること」だったようだ。

もちろん今でもあの子の母親だ。
でも、もう肉体はないから、ご飯を作ることもないし、健康を案じることもないし、成績に目くじらを立てることもない。(できることなら、1回くらい目くじらというものを立ててみたかったと思う)
養育する役割を一切失ってしまった。
成人を迎えるまで、この手でしっかりと育てていきたかったから無念が残ったし、自分自身の未来も一緒に、何者かに連れ去られてしまったような気持ちでいっぱいだった。

でも、葬儀の時に、父が私に言ってくれた。
「時間じゃない。すごい結びつきの親子だ。立派に育てあげたと誇りに思いなさい」と。
どんな言葉よりも、私に前を向く力をくれた。

「あとがきの人生を生きている」なんて言ったら、心配する人は多いだろう。

まだ、悲嘆の強い悲しみが癒えずに苦しくて前を向けないのだろう。
悲観的になって、人生を諦めてしまったのかもしれない。
かわいそうに自暴自棄になっているのね。

そんな風に思われるかもしれない。

でも、そういうことでもないのだ。
もっと建設的で、もっと感謝に満ちている感覚だ。

あとがきというのは、ご存じの通り、本篇が終わり、最後の締めにあたる部分の文章だ。
私は物書きではないので、あとがきに何を書くべきかというようなプロのルールは全く知らない。
でも、一般的に、本編に対する背景や思い、そして協力してくれた人への感謝を述べることが多いように思う。

今の私もまさにそうなのだ。
感謝に溢れている。

母親になった私と、それ以前の私はまるで別人のように感じている。
この人生で自分よりも大切なもの、何にかけても守りたいと思えるものに出会えるとは思ってもみなかった。
自分の中に、無限の愛する気持ちが存在していたなんて信じられなかった。
そして、我が子からこんなにも愛をもらえるとも思っていなかった。
夫の父親として発揮した子供を慈しむパワーも信じられないほどだった。
息子と歩んだ親子の時間のことを言語化するのは難しいが、純粋で美しい日々だったと思う。
それは、息子が来てくれなかったら、たどり着けなかったであろう境地だ。

その経験に、心から感謝している。

だからといって、悲しみを乗り越えたわけではない。
大切な存在を失った悲しみを乗り越えることなんて、果たしてできるのだろうか。

乗り越えようと思えば思うほど、そう声をかけられればかけられるほど、体は鉛のように重くなり、前にも後ろにも進めなくなる。

ある時、こう思ったのだ。

「悲しみが終わらないということは、愛も終わっていない」

悲しみと背中合わせのようにして、感謝があり、愛があるのなら、このままでいいや。
悲しみを乗り越える必要はない。
折り合いをつければいいんだ。
そう思ったら、少し楽になった。

私は悲しみという名の感情をポケットに忍ばせながら、折り合いを付けて生きていく。

こうして、私はあとがきの人生に入った。

このステージは、なんとなく気が楽だ。
ストーリーをやり終えた安堵感というのだろうか。
もう未来を案じることもなくなった。
当時は、どうか元気になってほしい、そのことしか頭になかった。
必死だった。
狂人だった。
どうすることもできない自分に無力感が募るばかりだった。
あれほどまでに神様に強く願うことは、この先もうないだろう。

今、願っていることは、天国にいる息子が幸せでいることだ。

ある時、尊敬する女性に、天国にいる息子のことを話し、彼が幸せでいるために、私はこの先どう生きていけばいいかと尋ねたことがある。

すると、その女性は、こう教えてくれた。
「肉体をもって生きる私たちが優しく生きると、そこから生まれるバイブレーションが、天国の愛する人に届きますよ。優しく生きることは天国にいる大切な人を抱きしめていることと同じです」

優しく生きる。
それは簡単なようで、考えれば考えるほど奥深く、難しい。
たぶん、これから一生をかけて、私なりの「優しく生きること」を学び続けるだろう。

でも、ひとつ確信をもって言えるのは、喪失体験は人を成長させ、優しくさせるということだ。

大切な存在を失うことは、自分の一部を失ったことと同じだ。
耐え難い辛さや悲しみを伴う。
できれば味わいたくないし、周りの人にも味わってほしくないと願う。
でも、その経験からしか生まれない精神的な成長があるように思う。
誰かの痛みに寄り添い、分かちあって生きていく態度を備えるために、私たちの人生に喪失というからくりが用意されているのかもしれない。

そう思うと、結局は、私は息子から気付かせてもらった恩恵で今を生きている。
そして、観音様のような慈悲の眼差しで話を聞いてくれる友人もいる。
一緒に気持ちを分かちあえるパートナーもいる。

大きな優しさに包まれているのは私なのだった。

だから、その優しさを力に変えて、あとがきの人生を、精一杯生きて、生きて、生きまくるしかない。私も優しくなれるように。

あとがきだからって、臆することも、遠慮することもないのだ。
本編と匹敵するくらい面白く、読み応えのある内容にだってできる。
感動巨編にすることだってできる。

そうやって人生を楽しむことを、きっと息子も喜んでくれると信じている。

***
この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、店主三浦のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。

 

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2016-08-19 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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