24㎏になった私は川下りをして甦った
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記事:うらん(ライティング・ゼミ)
「美女はビジョビジョに、そうでない人もそれなりに濡れますので……」
船頭さんのダジャレに、皆がどっと笑っている。
私にはそれが、耳のどこか遠いところで聞こえていた。
8月下旬のある日曜日のことだ。
私は保津川下りの舟の上にいた。
前日まで居座った台風が、もう去ってしまったのか、まだ尾を引いているのか、どちらとも判断のつかない中途半端な空模様の朝だった。
私は、前日に京都での用事を済ませ、その日は朝の新幹線で東京に帰るつもりでいた。
それが、ふと、まっすぐ帰るのは勿体ないなという気持ちになったのだ。
それで、思い立って保津川下りに来てみたのだった。
船頭さんが、舟を操りながら、景色の説明をしている。
私にはそれも上の空だ。
私は考え事をしていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
考えても仕方のないことだけれど、考えずにはいられない。
私は、その数か月前まで入院していたのだった。体重が24㎏になってしまったから。
特に身体に悪いところがあったわけではない。ただ24㎏まで減ってしまったので、それで入院と相成った。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
事の始まりを考えていた。
ある頃から、私は自分が思っているほど仕事ができないんじゃないか、そう思い始めた。
そう思うと、何をやっても「できた」と思えなくなる。「あそこがダメだった」、「ここができなかった」と、できなかったことばかりを探すようになる。
こんなはずじゃない。私はもっと仕事ができるんじゃなかったのか。
そう思えば思うほど、自分が無能にみえてくる。
何だ。何を勘違いしていたのだ。私はこんなにダメじゃないか。
周りは私のことを使えないヤツだと思っているに違いない。
そのうえ私はブスだ。せめて見目麗しければ、存在価値があるものを。
なんて価値のない人間なんだろう、私って。
冷静に考えれば、どれもこれも歪んだ思い込みだろう。でも、当時は本気でそう思っていた。
そのころの私に唯一とりえがあるとしたら、それは痩せていることだった。
とりえ? それはとりえ?
痩せているということに、どういう強みがあるのか、どこに優位性があるのか、お得な点は何なのか。 今考えると全然わからない。でも、当時はそう信じていたのだ。
それで痩せていったのだと、今は想像している。自分の存在価値は痩せていることでしかない。痩せてさえいれば、少しは自信をもっていられる。だから、痩せていよう。もっともっと痩せていよう。そんなふうに思っていたのかもしれない。
でも、それは後になって理由づけしたことだ。当時はそう思っていたわけではない。
体重がある程度戻ったところで、私は退院した。
私がこんなことで足踏みしている間に、いや、そのずっとずっと前からなのだけれど、同期の仲間はみな立派になっていた。第一線で活躍している。堂々としている。華がある。仕事を退いた友たちも、それぞれの居場所で充実した日々を送っている。みなパワフルで美しい。
私だけが取り残されているように思えた。
私の人生は、この先、どう頑張ったところで鳴かず飛ばずなんだろうな。そんなふうにも思っていた。
「きゃーっ!」
「うおおお!」
悲鳴とも歓声ともつかぬ声とともに、舟が大きく揺れた。冷たい水しぶきがかかる。
「ひょえー!」
私も思わず声をもらす。
ああ驚いた。舟が早瀬に滑りこんだのだ。
目の前に、岩と岩との間が狭まったところが見える。勢いを増した流れにのって、舟はあっという間にその間をすり抜けた。
「うひゃー」
また声をあげてしまう。
舟は、傾いたり平らになったりしながら、前へ前へと進んでいく。
何だか面白くなってきた。考え事なんてしている場合じゃない。
おう。行け、行け。もっと行け。
三連発の大波を乗り越えて、舟は緩やかな流れにのった。
保津川下りは、丹波亀山から京都の嵐山までの約16㎞の渓流を下る舟下りだ。
船頭さんは三人いる。舳先の人は長い竿を持つ。この竿で岩や川底を突いて、舟を進める。真ん中の人は櫂を漕ぐ。そして、後ろの人は舵取りだ。
途中に、こぶし大の穴のある岩があった。数百年の間に、何千何万の船頭さんたちが、ここを突いた。それで穿たれてできた穴だ。
舳先の船頭さんが、この穴に竿をさしてみせるという。
すると、船頭さんは孫悟空のように両腕をあげ竿を横に持ち、ここぞというタイミングでピタリとその穴に竿をはめた。
気持ちがいい。
川を下っている間、私は興奮して何度も声をあげた。
うひょひょー。ほぇー。おっとっとーっ。
声をあげるって、スカッとする。
船頭さんのダジャレに、はじめはクスッと笑った。そのうちケラケラと笑った。最後にはバカみたいに笑っていた。
ああ。笑うって、何て気持ちがいいのだろう。
空が明るく晴れてきた。日差しが眩しい。台風はすっかり去ってしまったようだ。
蝉が鳴きはじめた。ああよかった。夏はまだ終わっていない。
川の流れをよく見ていると、どうやらそれはひとつではないことがわかる。
小さな流れが、合わさったり、複雑に絡み合ったりして、大きな流れを作っている。
速い流れもあれば、ゆったりした流れもある。岩にぶつかって、流れが乱れているところもある。
そうした無数の流れが影響しあって、大きな流れを作っている。
船頭さんは、景色の説明をしたり、妙なダジャレを言ったりしながらも、目はしっかりと流れを見ている。流れをよんで舟を操っている。
流れをよむって、どういう能力だろう。
船頭さんしか持っていないものなのだろうか。
特別に訓練を受けた人だけが身に付けられる技なのだろうか。
いや、違うと思う。誰もが持っている能力だと思う。ただ、それをうまく使っているか、あまり使っていないかの違いがあるだけだ。
私たちには五感がある。その五感の他に、「よむ」という感覚もあるのではないかと思っている。
「場の空気よめよ」などという。「女心はよめないねぇ」などと使う。
私たちは、見ることのできないものについて、当たり前のように「よむ」という言葉を使っている。
人生は川の流れに似ているかもしれない。
人生を川の流れに例えるなんて、全く陳腐で恥ずかしいのだけれど。
でも、陳腐ということは、まんざら大ハズレでもないということではないかな。
船頭さんが川の流れをよむのと同じく、人生も、流れをよむことが大切なのではないだろうか。
川の流れに似て、人生もひとつの大きな流れでできているわけではない。いくつもの小さな流れが、合わさったり、ぶつかりあったりして、大きな流れを作っている。
その小さな流れも、実は激しかったり、深いところでは大きな流れだったりするかもしれない。
小さな流れだと思って甘く見ていると、それが他の小さな流れと絡み合って、やがては大きな流れをも変えてしまうことだって有り得る。
船頭さんは、常に小さな流れに気を配っている。そのうえで、大きな流れを感じ取っている。そうやって、流れに乗せて舟を進めているのだ。
流れをうまくよめなければ、舟はオーバーランしてしまうかもしれない。よみ誤れば、危険なことにもなってしまう。
私も、考えようによっては、人生の川を進む舟の船頭だ。どうせなら、上手くこの舟を進めたい。
わざわざ竿で操作したり櫂で漕いだりしなくても、じっと座って川の流れに任せていれば、いずれ船着場にたどり着くだろう。途中、流れに翻弄されることはあるかもしれない。でも、何とか最終地点には行きつくに違いない。
私は、もうそれなりの年齢になっている。人生の折り返し地点は、とうに過ぎた。
今さら頑張ったところで知れてるな。残りの人生は、このまま適当に流していこうかな。そう思うことが時々ある。
それに、私は不細工だもの。どうあがいたって、この先お得なことはひとつもなさそうだ。そう思うこともたびたびある。
でも、私は決めた。そうやって、流れに任せたまま、この舟を進ませたりはしない。
私は、あえて自分の舟の舵を取ろうと思う。竿を立てようと思う。櫂を漕ごうと思う。一人三役の船頭になろうと思う。
流れに任せきりにしないで、わざわざ舟を操ろうと思う。
いま私がいる川は、どんな流れをしているのか。そのなかに小さい流れが潜んでいないか。速いのか、遅いのか。よみとらなければいけないことは沢山ある。
よみとるだけでは足りない。それをどう捉えて、どう対応するかが肝心だ。
「お、行けそうだ」とか、「ここは無理をせず、無難にいこう」とか、適格に判断できるようになりたい。
ときには、ここぞという岩穴に竿をピタリとはめなければいけない場面があるかもしれない。
そのとき、私は上手くその穴に竿をはめることができるだろうか。
へんな所を竿で突いて、舟を旋回させてしまうかもしれない。
想像しただけで、不安で、不安で、仕方がない。
でも、竿を突き損なって舟が旋回しても、それは自分がやった結果だ。そのスリルも喜んで味わおう。
だから、私も孫悟空のように竿を構えて、慎重に、慎重に狙って、ここぞというタイミングに勇気をもって竿を突きたいと思う。
私は、こんな年齢になっても、いまだに思うことがある。
どうして生きているのだろう。生きる意味って何だろう。どう生きたらいいのだろう。
こんな青臭いことを、いまでも、しかも、しばしば、考える。
でも、今は、こう思うことにしている。
私が生きる意味が元々あるのではなくて、「私はこう生きるんだ」と自分で態度を決めれば、それが私の生きる意味になると。
「私はこう生きるんだ」という態度とは、自分が自分の舟の船頭になること、つまり、どう自分の舟を操るかを決めるということだ。
だから、私は天狼院書店の「ライティング・ゼミ」に申し込んだ。
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