この男の唇は柔らかい。私はそう思った。《プロフェッショナル・ゼミ》
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この男の唇は柔かい。
私はそう思った。
いや、唇なんて、誰でも柔らかいだろう。それなのに、この男の唇は、他の男性のそれよりも柔らかいと感じた。
服をめくられ、男の手が脇腹に触る。
冷たい……。
男の左腕についている腕時計が、脇腹に当たる。ぼてっとした時計。いつもこの男がつけているロレックス。重い冷たいロレックス。
「時計、つめたい……」
「あぁ、ごめん」
そう言いながら、カチャっと時計を外しナイトテーブルの上に大事そうに置く男。
ワイシャツのボタンを外しだす。
無駄に胸板は厚い。しなやかだけれども、力を入れると硬く盛り上がる胸。彫刻のような体型。一つ一つボタンが外されていくその光景が美しかった。
いつ頃からだろうか。
私は、自分よりも10歳も年齢が離れているような男性に惹かれるようになった。酸いも甘いも経験してきたような男に惹かれるようになった。そして、恐らくそうなってしまったのはこの男のせいだと思う。
華やかな世界で生きる男達が、表では見せない顔を見せる時がある。その顔が悲しすぎて、そしてそんな顔を見ると、私はこうして隠れながら生きるのもいいと思ってしまった。時たまそうして、男がそんな顔をすることができるのなら、私はそれでいいと感じた。私には、彼が子供の前でみせるような、満面の笑みを見ることはないけれども……。
この男は、プライベートが謎だらけだった。
自分で会社を興し、そして成功していると言われる類の男だ。左手の薬指に指輪はついていない。ただ、40歳を超えオーダーメイドスーツに身を包み、金を回す男が未婚な訳がない。恐らく、結婚はしているし、子供もいるんだろう。既婚者でも指輪をしていない男性は多い。バツイチなんて今時めずらしくもない。だから私は左程気にも留めていなかった。
ただ、謎が多いのは事実だ。
いつも仕事をしている姿しか分からないから。そして、弱みなんてどこにもないように颯爽と歩く。紳士だし、女が取り巻いているところも見せない。この容姿で、お金を持っていると分かるのだから、女の一人や二人はべらかしていそうなのに。しかし、この男の評判は良かった。男性からも「硬派」だと言われるこの男に、女の噂が立つことはなかった。
私とは、あまりにも違う世界に生きている男。
羨望の世界にいる男。
私は、今後この男と関わることもないと思っていた。10歳以上も歳が離れている私との共通点なんて、何もないはずだった。
「お前、また痩せただろ」
男がブラジャーのホックに手を回しながら言った。
それはあなたのせいだ、と思った。
もっと割り切れる人間なら良かった。体だけの関係で済まされるのなら良かった。出会い頭の事故でした。そう、あっさりと忘れさせてくれる男なら良かったのだ。そうすれば、私はきっと今この瞬間も、この男に愛おしさなんか感じていないだろう。そして、腕時計を外してくれなぞと頼んだりもしなかったのに……。
私は、ブラを外されながら、男の下唇に親指で触れてみた。
この男の唇は柔らかい。
やはりそう思った。
—どうした?
そんな顔をしている男。
なんでもない……。
ただ、私はあの時もこの柔らかい唇に触れてしまいたくなったのだ。
この男と初めて話したのは、ある女性に誘われたディナーでだ。当時営業をしていた私は、なぜか仕事以外でも色んな場に誘われる事が多かった。そのような場で、私はエステサロンを経営している女性と出会った。彼女は50歳手前だというのに、正直30代だと言われても分からない人だった。彼女に誘われると、私は必ず出向くようにしている。
同世代の人たちと食事に行っても、大抵仕事の愚痴や、男の話で終わる。そして下品に飲み続ける。大学生のように無駄に大声を上げる男達を見ると、やはり来なければ良かったと思う。
しかし、こうして大人の女性や男性から誘われた食事は、すごく楽しい。会社を経営している者同士の会話は、とても面白い。だから私は、この日も金魚のフンみたいにこの女性について行った。
恐らく、彼が私のことを知ったのはこの時が初めてだった。しかし、私は色々な集会やパーティーの場で彼を目にしてきた。目立つのだ、この男は。だから、そういった集まりに居れば、ほとんどの人がその彼のことを聞く。
ねぇ、あの背の高い男の人は誰?
あぁ、彼は経営コンサルタントだよ。
へぇ、頭がいいんでしょうね。
確か、元大手証券会社じゃなかったかな?
モテるんでしょうね。あの容姿で頭がいい、お金もあるとなると。
いやぁ、でもそんな浮いた話は聞かないなぁ。Facebookとかもやってないしなぁ。プライベートはよく分からない。
そんな会話が常だった。
直接話したことはなくとも、多くの人間が、この男のことを知っていた。だから私は、あの男が、その場に居たことに驚いた。
大人の男性。私よりも色んなことを経験してきた男性。私はその日その場に居た、他の4人の大人たちに抱いたように、「人生の先輩」という目でしか見ていなかったと思う。
「ねぇ、この子送ってあげてね」
妖艶な女性が、あの男にそう言った。
「はい、承知しました」
ニコリとしながら、妖艶な女性にそう返す男。紳士だ。
その女性は私に舌をぺろっと出して見せ、タクシーに乗って帰って行った。あの時、妖艶な女性が私とこの男に何を期待していたかは知らない。
ただ、彼女も、この男が私に下手な手出しをしないことは理解していたと思う。そんな男なら、わざわざ彼に私を送らせるようなこともしなかっただろう。私は、彼女に全幅の信頼を寄せていた。そしてそんな彼女の知り合いなのだから、安心してそのまま彼に家まで送ってもらった。
とは言っても、タクシーで10分ぐらいの距離だ。
私は特に話すこともなかった。
まるで異世界に住む男に、何かを聞いてほしい訳でもなかった。彼だって、こんな小娘に何かを開示する訳でもない。ただ、聞いてみたら話すんだろうか……。
「ご結婚されてるんですか?」
「うん。子供も一人いるよ」
そりゃ、そうだろうな。
なんで誰も、彼のプライベートについて話さないんだろう。
奥様はお元気?
お子さんは何歳になったの?
そんな会話の始まりがあってもよさそうなものを。今日は誰も何も聞いていなかった。ただ、仕事の話や、これからの経済のことを話していただけだった。
「申し訳ありません。帰り遅くなってしまいますね」
「いえいえ、大丈夫ですよ。家に帰っても独りですから」
相変わらず、こんな小娘に真摯に受け答えをしてくれる男。なんで私に敬語なんだろう。
「お独りなんですか……?」
「はい、今は別居中です」
「あぁ、ごめんなさい……」
「もう、2年経ちますね。妻が出て行ってから」
なんだか、よく聞く話だった。
男が仕事で家に帰れず、妻が家を出て行く。この男もそんな感じなんだろうか。
「あっ、運転手さん! 次の信号のところで大丈夫です」
私は、なんとなくその先を知りたくなかった。
彼が今、独りでいる理由。この男に、そんな暗い影は似合わないと思った。全てを手にしている。そんな姿だけを見ていたかったのかもしれない。
「すみません、送っていただきありがとうございました」
私は、ぺこりと頭を下げた。
「いいえ。また今度お誘いしますよ」
誘う? 誘われるの? は、はい。ありがとうございます……。社交辞令でも嬉しいです。
私は、もう一度頭をぺこりと下げタクシーを降りた。
不思議な男だった。あなたは私の連絡先を知らないのだが……。しかし、なぜか私はこの男がまた目の前に現れるだろうことに、疑問を抱かなかった。
1ヶ月ぐらい経ってからだろうか。
あの男から電話がきた。
歌舞伎に行こうと言われた。断る理由もなく、私はその週末、その男の車に乗っていた。
「今日は、口上もあるんですよ」
「こうじょう?」
「市川中車の襲名披露です。舞台のあとに、挨拶をするんですよ」
始まる前に、ホテルのレストランでランチを食べながら、彼は私に説明をした。
歌舞伎を初めて観る私に、今日の演目の解説をする彼。
もっとちゃんと色んな世界を観ておくべきだったと自分を恥じた。日本の伝統芸の知識がまるでなかった。
「大丈夫ですよ。ほとんどの人が解説のオーディオを聞いてます。それがないと全く分からないんですよ」
そう優しく話す男は、やはり紳士だった。なぜ私がこの男と今ランチを共にしているのか。着ているものも、身につけているものも私とは桁違いだ。ハイブランドに包まれる彼は、やはり目立つ。左腕のロレックスは重そうだった。
初めて観る歌舞伎の演目は「ぢいさんばあさん」だった。
新婚夫婦が、ひょんなことから37年間離れ離れになってしまう。ひょんなことと言っても、夫が人を殺めてしまうのだ。それから37年間、夫は他藩に「お預けの身」になってしまう。そして37年後、夫婦は再会することに。妻は再婚もせずに、筑前国黒田家の奥女中として立派に出世をしていた。再会のシーンは思いの外コミカルだった。会場から笑が出る。
しかし、私はなぜか、それまで解説を聞かなければほとんど理解できなかったのに、その時妻が言った一言が頭に残った。
「姿形は変わっても、心は昔の二人のままです」
なぜ、この男はこの演目が見たかったんだろうか。
一人で観ればいいものを、なぜこの男は誰かを誘いたくなったのだろうか。誰でも良かったんだろう。私ではなくても、よかったはずだ。
私はやはり、この男の影の部分は見たくなかった。
見てしまったら、私はこの男から目が離せなくなってしまうと思ったのだ。それならば、ただ煌びやかな世界に生きる、尊敬できる男のままでいて欲しかったのだと思う。
私はその日も、彼に家まで送ってもらった。
そしてやはり、頭をぺこりと下げ、そのまま車を降りた。
「また、お誘いします」
だから、なんでこの男は私の連絡先を知っているのだろう。そしてなんで、こんな小娘に敬語を使うんだろう。
不思議な男だ。
翌週、私はあの妖艶な女性に、また食事に誘われた。この女性とランチに行くだけで私は背筋が伸びる。女とは、こうして生きるのだと目の前で見せられている気持ちになるのだ。
「歌舞伎に行ったんですって?」
「あれ、なんで知ってるんですか?」
「一昨日かしら? 仕事の打ち合わせがあったのよ」
あの男は、この女性のエステサロンのコンサルもやっているそうだ。
「律儀な男でしょ? あなたを誘う前に、私に一本電話をくれたわよ」
「え? なぜですか?」
「彼なりの筋の通し方じゃないのかしら。一昨日会った時は、すごく楽しそうに話していたわよ」
はぁ、そうですか……。
あまり、大した話もしていないのですが……。ただ彼は、私に色々教えてくれただけで……。
私は、なおさら不思議に思った。あの男には、この女性のような大人な女が似合う気がする。気がするというより、絶対そうだと思う。
「なぜ、別居してるんですか?」
「あら、それも聞いた?」
「はい、聞いてしまいました」
「奥さんの不倫よ。子供と一緒に出て行ったのよ。まぁ、向こうは不倫はしていないと言っているらしいけどね。ただ、傍目には不倫だったとしか見えなかったわ。それを裏付けるものがないから、すぐに離婚もできないんだけどね」
「離婚はまだ?」
「離婚調停中。親権で揉めているらしいわ」
それ以上、やはり聞きたくないと思った。
私はすでに、あの男に気持ちが行ってしまっていたようだ。「奥さん」と聞いて、胸が騒ついてしまったのだ。私のものにはならないのだ。私は見たこともない、その女に嫉妬をした。そして、彼が着けているロレックスにも。
それから数週間して、またあの男が連絡をしてきた。
ドライブにでも、と言われやはり断る理由がなかった。
「今日はヒールじゃなくて、歩きやすい靴で来てくださいね」
はぁ……。
だいぶ遠出をするんだろうか……。
そう思いながらも、長い時間一緒にいられることが、少し嬉しかったりもした。梅雨も終わり、もうすぐ本格的に夏になる頃だった。遠出をするなら、山がいいと思った。涼しいところがいい。
男が私を連れてきたのは熊本県の山の中だった。
思いの外、急斜面を歩かされた。
「ひー、ちょっと待ってください……。そこ、どうやって降りたんですか……」
私は自分が社会人になってから、こうした山道を歩かなくなっていたことに、今更気づいた。しかも、なぜか濡れている斜面。私はここで転げおちる自信があった。
「あはは、すみません。はい、どうぞ」
差し出された手は、これまで見てきた男の手と違って見えた。どちらかというと、父性を感じさせる手だった。
私は結局、この男の手をというよりも、腕にしがみ付きながら斜面を降りた。水の音が聞こえてくるから、この先に川があることは分かる。
「滝があるんですよ」
「あら、素敵。マイナスイオン」
「そうそう、ここのマイナスイオンは最高ですよ」
そう言われ、すぐに見えたのは、ナイアガラの滝ミニチュア版みたいな滝だった。
ゴオゴオと流れ落ちる滝ではなく、薄い水のカーテンが20メートルぐらいに広がる。木々の間から差し込む光が反射して、キラキラしていた。
「うわっ! 綺麗! すごい!」
素直にそう思った。
「そうでしょう? さて、入りますよ」
「入る?」
「滝の中に」
「中?!」
戸惑う私をよそに、男はグイグイと私を引っ張って連れて行った。そして、カーテンの裾をまくるように、スルリと滝の裏側へ入って行ったのだ。
鍋ヶ滝。
この滝は、滝の裏側に入れるのだ。うっすらと暗い滝の中。表から見ていた時は光が当たってとてもキラキラしていたのに。裏側はひんやりとして、天井からもぼたぼたと水が落ちてくる。水の向こう側に明るい世界がちらほら見える。これはこれで、美しい世界なのかもしれなかった。
ただ、この時の私は、なんだかこの男の闇を見ているようで辛かった。表と裏。いつもそこには、表と裏がある。光が当たる世界と、暗い世界。
「好きなんですよ、ここ。裏側ってなかなか見れないでしょう?」
私は、その男の横顔が悲しくて、見ていられなくなった。
それでも、なぜか笑っている時よりも、この顔の方が美しいと思ってしまった。哀愁? これが哀愁? よく分からないが、ただこの男にもボロボロと崩れてしまうような場所があるような気がしてならなかった。
その日も、彼は私を家まで送ってくれた。
私はまた、頭をぺこりと下げ、車を降りようとした。ただ、その日の彼は、悲しそうな顔をしていた。何があったのかは分からないが、ただ悲しんでいるように見えた。
私は、助手席のドアに掛けていた手を外した。
ふと視線を外すとやはり、彼の腕にはロレックスが着いていた。なんとなく、彼の腕からその時計を外してみる。
From Ayako
そう時計の裏に、文字が彫られていたのが目に入った。
運転席の方に、身を乗り出してみる。
近くで見ると、この男の目は奥二重だった。それに、やはり年齢を感じさせるシワがあった。
私は、彼の顔に手をかけ、親指で唇を触ってみた。ぷっくりとした唇だった。好き勝手にしている私に、何も言わない男。
やはり、悲しそうに見えた。
私は、男の唇にキスをした。
よく分からないけれども、なんとなくそうした方がいいように思えた。
この男の唇は柔らかい。
私は、そう思った。
ため息をつきながら、私の首筋に顔をうずめ、肩を抱き寄せてくる男。私は、どうしようもなく愛おしくなってしまった。10歳以上年上の男に、私はなぜか胸を貸した方がいいような気がした。
「もう少しだけ、時間ありますか?」
そう言って、男が今度は自分からキスをしてきた。
やはり、その唇は柔らかかった。
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