愛しの醜いガマ兄様《プロフェッショナル・ゼミ》
記事:安達美和(プロフェッショナル・ゼミ)
はいはい、ごめんなさいね、お待たせしちゃって。あずきを炊く準備をしてたものだから、いま開けるわね。
あら……あなた、どちら様? まぁ、兄の教え子の? そう、わざわざありがとうね。どうぞお上りになって。両親はいま出かけていないの。電話をくれたの? お昼にいらっしゃるって? まぁ、母ったらことづてもなしに出かけて……ごめんなさいね。ささ、お上りになって。
走っていらしたの? お鼻が真っ赤よ、梅干しみたい。ふふふ、お肌が白いからまるで日の丸弁当ね。あら、あなた……よく見たらとってもキレイなお顔をなさってるわね。とってもキレイで、すぐに忘れてしまいそうなお顔ね。
***
お茶、召し上がって。今日はまた一段と冷えるわね。でも、梅も一輪二輪ほころび始めたから……なあに? じっと人の顔を見て。聞きたいことがあるならおっしゃって、怒ったりしないから。……ええ、そうよ、わたしは兄の妹なの。そうは見えないだろうけど、ちっとも似ていないものね。良いのよ、昔から慣れてるわ。ちょっと待ってくださる? あずきを火にかけるから。お昼はもう召し上がった? そう、なら良いの。わたしは、今日はあまりお腹が空かなくて。頭が勝手に兄のことを考えてしまうの。ずいぶん昔のことなのに、急にくっきり思い出したり、ふと振り返った時にそこに兄がいるような気がして……ごめんなさいね、湿っぽくて。
え、兄の話を聞きたいの? 良いけれど、何を話そうかしら。兄は、本人は静かなくせにエピソードには事欠かない人だから。そうね、じゃあ兄の子供の時の話をするわね。
兄は昔からすごく目立つ人だったわ。幼い頃から、一目見たら忘れられない風貌をしてた。5555グラムの超巨大児として生まれた兄は、物心ついた時には周りの子供より頭ふたつ分は大きかった。そして、周りの子供の二倍優しくて、十倍醜かった。あなたも知ってると思うけど、兄は左右の目の大きさが違ったでしょう。口もビックリするほど大きくて。それに、喉仏のあたりに生まれつき黒いアザがあった。幼稚園の頃なんて、自分の背丈の半分しかない女の子に「この化け物!」って泣かされても、ごめんねごめんね、しか言えないことがよくあったわ。腕力ならもちろん負けなかったはずなんだけど、兄には腕力以上に愛情や優しさがあったから、どれだけ力が強くても意味がなかったのね。兄はわたしのことを、いつだって守ってくれた。一緒に闘いごっこして遊ぶ時も、参った参ったってすぐに降参するの。床に土下座みたいな格好で座って、なんだかカエルみたいだった。
父はとても厳しい人でね、兄には特にそうだった。長男だったし、図体ばかり大きくて気の弱い兄が見ていて歯がゆかったんでしょうね。よく家の奥にある座敷へ連れて行かれて、叱られていたわ。わたしは、細く開けた襖から、父の容赦ない言葉にじっと耐える兄を見ていたの。
父は、まあ、あれが親の愛情と言われたらそう思うしかないけれど、なんだか叱るというより自分の感情を相手にぶつけて不満を解消するようなひどいやり方で兄を叱ってたわ。兄の大きな背中がだんだん丸くなって、握りしめたこぶしは震えてたし、喉仏は見ているこっちが気の毒になる程ひくひくして。なのに、時たま、つま先をもじつかせる様子は妙にユーモラスでおかしかった。どうしてか分からないけれど、わたしは兄のそんな様子から目が離せなくて、息を殺してじっと見てたわ。
あれは兄が15歳の冬だった。その日は初雪が降っていてね、静かだったわ。悪いものも良いものも、全部雪が吸い取って黙りこくってるような朝だった。朝食の席で、兄が粗相をしたの。箸を並べるのは兄の役目だったんだけど、その日は少しボーッとしてたのね、父の箸を置く時に持ち手を右にしてしまって。兄は繊細な人だったから、雪があんまりきれいでこころを奪われてたのかもしれないわ。父は左利きで、幼い頃にさんざん父の母から利き手を変えるように強制されたらしいんだけど、とうとう治らなかったの。父はなんでもない風な顔をしていたけれど、多分それは大きなトラウマだったのね。箸の持ち手を右に置かれると、かんしゃく玉が弾けたみたいに怒るのよ。兄は誰よりもそれを心得ていたはずなんだけど……。
すぐさま奥の座敷へ連れて行かれて、そのまま。父はしっかりした厚いどてらを着てたけど、兄は学生服一枚だったからシンと冷えた部屋は相当こたえたみたい。野球部の朝練が始まる時間が迫っていることもあって、きっと焦ってたのね。そわそわした様子がまた父の機嫌を損ねて、なかなか解放してもらえなかったの。そのうち、兄のつま先がいつものようにユーモラスにもじもじし出すのが襖のすき間から見えた。何度も父に何か言おうと喉がひくひくしているのに、やっぱり声が出せなくて。兄の耳が徐々に赤く染まっていったのを思い出すわ。そのうち、気づいたの。兄の制服の裾からしずくが垂れているのを。一滴、一滴。ハッとした。それを見ていたらいつの間にか自分の口から勝手に言葉がこぼれているのに気づいたわ。
とうとうたらり、とうたらり
とうとうたらり、とうたらり
父は兄が屈辱に耐えているのにもまったく気付かず、「今まであえて忠告しなかったが」と前置きをして、相変わらずくどくど自分のうっぷんを晴らしてた。兄が我慢できずにぽたぽた垂らす小便が、ゆっくり畳にシミを作ってた。
あの「とうとうたらり」という言葉は、どこで聞いたんだったかしら。忘れてしまったけど、兄の耐え忍ぶ姿にその文句はぴったりだった。「ガマの油」ってご存知ない? ガマっていうのはガマガエルのことよ。江戸時代にはガマから出る油がお薬だったんですって。その油を露天で売る為の文句があるの。四方を鏡に囲まれた場所へガマを追いやると、ガマが自分の姿に驚いて脂汗を流すシーンがあってね。大きな体をまるめてじわじわ漏らす兄は、まるでこのガマみたいだなって思った。ちょうど年頃だったというのもあって、当時兄はひどい吹き出物がいっぱいあったの。それがさらに、兄をガマガエルのように見せてた。わたしは、自分も遅刻しそうになるのを忘れて、兄に見入ってたわ。
ごめんなさいね、ちょっとお鍋を見てきても良いかしら? 少しお水を足さないと。あ、良いのよ、あなたは立たなくて……ねえ、お汁粉は好き? お時間大丈夫なの? 炊き上がるまでもう少しかかるけど、それでも良ければ召し上がってらしてね。
わたし、あずきが煮えるのを眺めているのが好きなの。退屈でしょ? それがとても良いの。退屈って幸せなのよ。でも、幸せばかりもつまらないけれど。
え、「幸せなら手をたたこう」。ああ、あったわね、子供のころ、そういう歌。何だったかしら、歌詞が思い出せないわ。ええ、何? 「幸せなら怠惰で死にそうよ」? そんな歌詞あったかしら……ああ、あなたの聞き間違い? ふふふ、とっても 面白いわね、それ。ずっとそういう歌詞だと思ってたの? 不思議なお嬢さんね。でも、確かにそうだと思うわ。幸福って、ずっと続くと嫌になるのよね。
ねえ、あなた、よく「キレイ」だって言われるでしょう。謙遜は良いのよ、言われるかどうかだけ教えて。そうよね、やっぱり。そうだと思うわ。わたしもよく言われるの、今は礼儀としての遠慮は忘れるわね。でもね、そう言われる度に、わたしは不安になるの。自分がどんな顔をしていたか、よく覚えていられないのよ。あら、わたしってどんな顔だったかしらって、すぐに鏡を見たくなるの。美しい人間て、みんな顔が似てるのよね。整った顔って、みんな同じなのよ。昔ね、なんの本だったかは忘れたけれど、こんな文章を読んだことがあるの。
幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。
聞いたことある? なんだかとっても納得してしまったのよね。だからでしょうね、きっと。わたしが強く兄に惹かれていたのは……
ある時ね、母に尋ねてみたことがあるの。どうして父を結婚相手に選んだのか。父は私たちにとっては恐ろしい存在だったけど、母は父が可愛くて仕方ないみたいで、それが昔から不思議だったのよ。
母は、ほんのちょっとだけ恥じらった後に、少女みたいにこっそり教えてくれたわ。
お父様を選んだ理由はね、東京大学を出てらして、お尻の形が良かったからよ。
なんだか競争馬を選ぶように人間を選ぶのだなと思ったわ。呆れたけれど、でもホッとしている自分にも気がついた。醜いからという理由で兄に惹かれるわたしも、それで良しと思えたから。
兄は学校ではどんな様子だったの? あなたの目から見てどんな教師だった? え、人気者? 兄が? 信じられないわ……どうしてかしら。……ああ、なるほどね。そういう意味での人気者ならそうかもしれないわね。確かに、誰にでも礼儀正しくて、優しくて、自分の身を呈しても相手を守るような人だったから。本当に、どうしてあんなに他人のために一生懸命になれたのかしら……自分のことなんて、二の次どころか三の次にして。
ところで、ずっとおしゃべりしててまだお線香上げてないけど良いの? そんなに慌てなくても良いのよ、ゆっくりで。案内するわね、兄も喜ぶわ。伝えてやって、志望の大学に合格しましたって。まったく、こんな可愛い教え子が尋ねてきてくれるなんて、兄も教師冥利に尽きるわね。あと数ヶ月長く生きていたら、兄も直接、あなたの報告を聞けたのにね。
兄が高校生だった時の話をしましょうか。もしかしたらあの人が、人生で一番キラキラしてた時だったかもしれないから。兄は勉強はからきしだったんだけど、運動神経は抜群に良かったの。まあ、だから体育教師になったわけだけど。小学校の5年生から始めた野球ではあっという間にレギュラーになって、6年生を差し置いてエースピッチャーだったのよ。中学高校と野球を続けて、甲子園を目指してた。その時、同じ部には兄と同じくらい投げられるピッチャーがいてね、ライバルだったの。まあ、気の弱い兄だったから、表向きはそんな素振りは見せなかったけど、ある時から朝練に出かける時間が1時間も早くなったから、やっぱり負けたくなかったのね。
地区大会が目前に迫っていた日、そのライバルがケガをしたの。ちょうど朝練中で、その場には兄とその相手ピッチャーしかいなくてね。ちなみにそのライバルは他校にもファンがいるような美男子だったんだけど。そうなると自然、兄が大会でピッチャーを務めることに決まって。その時、嫌な噂が流れたの。あなたも察しはついてると思うけど……兄がわざとケガをさせたんじゃないかって。もちろん、兄の性格を知っている野球部の仲間はそんなことはありえないと思ってたようなんだけど、普段の兄の実力なら完璧に抑えられるようなチームに、初戦であっさり負けたのよ。それっきり、兄は野球をやめてしまってね。喉仏をひくつかせて隠れてこっそり涙を流す姿が、不憫で、愛しくて、たまらなかった。
不憫で愛しくてと言えば、やっぱり、兄の最期のことを自然と考えてしまうわね……
なんだか、安いドラマみたいだったわ。雨の日に猫を助けようとして車にはねられたなんて。猫は生きてて、兄は死んだなんて。猫よりも価値がないと自分のことを思ってたのかしら……そういうことじゃないわね。ただ、優しかっただけなのよね。ただ、それだけよ。
なんだか長々とごめんなさいね。ずいぶんおしゃべりだったわ、わたし。なぜだか、あなたには聞いて欲しくなっちゃって。なんでかって? そうね……もしか間違っていたら、気を悪くしないでね。なんだかわたし達は仲間のような気がしたの。同じ秘密を持った仲間。同じ人を愛した仲間かしらって。あなたが兄に惹かれた理由は、きっとあの優しさじゃないわね? ……そう、良い子ね。わたし達は仲間よ。
え? おいくつですかって、聞かないでちょうだいよそんなこと。兄と年子よ、これで勘弁してちょうだい。何をそんなに驚いてるの? 自分と同い年くらいかと思ったって……やだわ、あなたと同じ十代だった頃なんて、四十年も前の話なのに。大丈夫? お顔の色が悪いわね。寒かったかしら。
……はい、お汁粉よ、あったまるわ。あ、ちょっと待って。わたし肝心なものを忘れてたわ。これを入れなきゃお汁粉じゃないじゃない。今入れるわね……はい、どうぞ。ね? グッと甘くなったでしょう。そうなのよね、不思議だけど、お塩を入れると途端に甘くなるのよね。お砂糖ばっかりじゃ、本当に甘くはならないのよ、正反対のお塩がなくちゃ。
ねえ、わたしね、本当に美しいものはちょっぴり醜くないといけないと思うの。美しいだけじゃ平凡よ、忘れ去られるの。
兄のお骨が焼きあがった時、立派な身体の兄らしい良い骨だわと思ったわ。そして、目が、無意識のうちに探してた。兄の喉仏の骨を。兄がじっと耐えて泣く時、ガマガエルみたいにいつもひくついていた喉仏。参列者がやってくる前に素早くかすめ取って、喪服のポケットに入れたの。帰宅して、喪服に着替える前に、いつも使っている白粉を取り出したわ。それから、お台所から大根おろし器を持ってきて。丁寧に喉仏をすりおろして、白粉に混ぜたの。兄を想って。
そうだ、あなたにも分けてあげるわね、わたしがいつも使っている白粉、誰にも内緒ね。少し粒が大きい粉があったら、それは丁寧にすり潰してやって。兄のことを想って。あなた、きっともっとキレイになるわ。忘れられないくらいに。
ほら、どうぞ召し上がって。
お汁粉が冷めるわよ。
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