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人生の道標とラッフルズホテル

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記事:辻村 佳代子(ライティング・ゼミ2月コース)
 
 
1999年12月22日、私は一人シンガポールのチャンギ国際空港に降り立った。当時30歳、世界中がミレニアムに沸き立つ頃だった。旅は優雅に9日間、シンガポールから香港へと渡る計画をした。目的は、とにかく日本を離れること。場所はどこでもよかったのだが、シンガポールは当時読んだ小説から、香港は昔から聞いていた音楽からひらめきを得た。
 
何の小説だっただろう、今となってはよく覚えていない。シンガポールの「ラッフルズホテル」コロニアル様式が美しい、言わずと知れた超ラグジュアリーホテルである。小説で読むそのホテルの格式の高さと美しさに心を奪われ、30歳の私には届かないハイステータスを覗いてみたいと思った。香港は、ユーミンの曲を聴いた中学生の頃から啓徳空港に行ってみたいと思っていたが、前年1998年に移設されており、思い立った時に行くべきだったと心から後悔した。しかし、香港には行ってみたかったので、後悔しないように旅に組み込んだのだった。
 
さしあたり目的のないシンガポールでの滞在。毎日地下鉄に乗り、繁華街をうろつき、スーパーでお買い物をし、屋台でごはんを食べる。どこへ行っても様々な人種の方が独自の生活様式で暮らしている。誰がいても受け入れてもらえそうな、懐の深さを感じる。「ここでは私が存在してもいいんだな」解放され安心感に似たものを、シンガポールから感じた。
 
その頃の私は、まさに人生に迷っていた。友達はみんな20歳代半ばに結婚したが、私は当時お付き合いしていた人と別れてしまった。それを引きずりつつ、20歳代最後の駆け込み結婚を狙い友達に紹介してもらったが、30歳を目前に別れを告げられた。その理由が「派遣社員だから」働き方にも迷っていて、自分の望みや天職を探し右往左往していた。とりあえず派遣社員をしながら、個人事業主の知り合いのお手伝いをしていたが、それを別れの理由に使われたことにかなりの衝撃を受けた。焦りが加速していた。私はいったい何がしたいのだろう。この人生に悔いを残さないように、どうしていけばよいのだろう。自分の気持ちがわからないことが、何よりもの焦りとなった。「いったん、何者でもないところに行こう」それが日本を離れたい理由だった。
 
シンガポールでの滞在は5日間。気が付けば、毎日ラッフルズホテルに通っていた。私のような未熟者は受け入れてもらえないだろう……。その時のラッフルズホテルは、私にとって「人生の成功」を測る試金石のような存在であった。毎日通っては、遠くから一目見るだけの時もあれば、自分を奮い立たせて中に入り、お土産を買ってみることもあった。お店の人と会話をして買い物をした自分は、少しだけ上級になったような気がしたが、外に出ると迷いの塊の30歳に戻った。当然のことだった。
 
シンガポールを離れる前日、ラストのラッフルズホテルを遠目に見て、ある決心が生まれた。それは「必ずもう一度来る」ということ。しかも、「60歳で、その時本当に好きな人と、ラッフルズホテルにゲストとして宿泊する」というものであった。経済的な要素は必要であるが、決してそれだけではない。結婚をしていてもしていなくても、一人の人を本当に好きでい続けられる。60歳でその気持ちがあるというのは、心が豊かである証拠だ。ラッフルズホテルのゲストとして、一流のサービスを受けるにふさわしい人格者であり、健康面でも旅ができるほどに充実している。さらに経済的にもゆとりがあるというのは、人生の成功と言っていいのではないか。そんな道標が自然と沸いてきたのだ。
 
その60歳まで、もうあと1桁の年数を残すのみとなった。正直に言って、旅行後の数年はすっかりそんなことを忘れていたが、50歳目前にふと思い出し、今では常に頭の片隅に鎮座している。振り返れば、これまでの人生、迷いながらも、逃げ出したくなりながらも、なんとか全うに生きてこられた。自分の天職や使命はよくわからないままであるが、一流と言われるものに触れ、伝統あるものを学び、自分のバージョンを上げようと挑戦してきた。しかし、まだまだ足りないものがたくさんある。そこに目を向けると、今なお焦る。これでよいのか、答えが欲しくなる。ただ、勝手な期限が迫り思うのは、道標は目標へと導くだけではないのではないか。形がはっきりと見えずとも、自分がどんな生き方をしたいのか、どんな人でありたいのか、イメージをしながら毎日を大切に暮らすために必要なものではないか。60歳でラッフルズホテルに行っても行かなくても、人生は続く。それは人生の答え合わせのためではなく、そんな道標を持って生きてきたことが大事なのではないか。道標がラッフルズホテル、なかなか面白い人生だなと思う。仮に、もし、本当に実現したら……。それはそれで、人生のご褒美ということで。
 
 
 
 
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2023-04-06 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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