プロフェッショナル・ゼミ

「美少年」が、泣かせてくれた。《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:安達美和(プロフェッショナル・ゼミ)

母が菜箸とそうめんの束を持ったままキッチンから出てきた。
わたしは、学校指定のローファーを履きはじめたところだった。

「どこか行くの? そうめん、すぐゆだるけど」
「うん、ちょっと」
「すぐ戻る?」
「うん」
「どこ行くの?」
「うん、ちょっと」

母は、わたしが母の方へ顔を向けないことに気づいたらしい。彼女の声に心配がにじんでいるのが分かった。

「……大丈夫?」
「うん、大丈夫、大丈夫」

わたしは自転車の鍵を手にして、玄関を出た。セミがやかましくて、かえって気がまぎれる。駐輪場から自転車を出して走らせはじめると、紺色の制服のスカートが風にふくらんだ。足の裏側を伝う汗が風で冷えて、気持ちが良い。沿道の緑が濃くて目に沁みる。真夏の土曜の空はあけっぴろげな明るさだ。

本当は、家からたっぷり距離を取ってからと思っていたのに、五分も経たないうちにわたしは再び泣いていた。仕方なかった。止められるものならとっくに止めている。我慢できるなら、すぐゆだると母が言ったそうめんをすすりこんでから出てきても良かったくらいだ。でも、ダメだった。ムリだ。我慢できない。あの本を閉じたその瞬間から、本当は吠えたいくらいだった。つらいつらいと、恥も何もなく、身体がすっかりなくなるまで、涙を流したいくらいだった。

***

土曜日のスクールバスは、なんとなく車内中に浮かれた雰囲気が漂っている。この空気は平日にはない。平日のわたし達と言ったら、朝は英単語の暗記に余念がなく、帰りは古文の助動詞の活用を呪文のようにつぶやくのに必死で、こんなにゆるんだ空気は醸し出せない。わたしの通う女子高校は校則が厳しいことで有名な私立の進学校で、土曜も必ず授業があった。朝と放課後の小テストは毎日実施されるし、部活にも勉強にも厳しい。制服は僅差でカラスの方がオシャレではと思うほど地味で味気ないものだったし、およそ十代を楽しむ環境ではなかった。だから、全ての締め付けから解放されて、これから午後と明日の日曜日を楽しめる土曜の帰り道は、言うなれば社会人にとっての金曜の夜と同じなのだった。

わたしも普段であればぬかりなく皆と一緒に浮かれているはずなのだが、ここ一ヶ月ほどはそんな気になれなかった。と言っても、別にずっと沈んでいるわけじゃない。好きなお笑い芸人がテレビに出ればすぐにリビングへ飛んで行ったし、クラスメイトが作ってきたという生チョコをもらえば、それはちゃんと甘くて美味しかった。でも、前の自分と今の自分は、明らかに違う。

スクールバス仲間のあみちゃんが、ななめ後ろからわたしの頭をこづいた。痛い。あみちゃんはとても良い子なのだが、元気があり余っているせいか力加減がうまくいかないようで、わたしはいつもちょっと痛みに耐えながら彼女の方を振り返る。

「なに、あみちゃん。今日はマーチングの練習ないの?」
「留守番しなきゃなんだよね。両親出かけてて」
「大変だね、大会も近いのに」

そうなんだよー、と彼女はほっぺたを膨らませた。桃色のフグみたい。見たことないけど。ところでさ、とあみちゃんは話を続けた。

「あったら読ませてよ、脚本」
「え、書き込みだらけで読みづらいと思うけど」
「良いから良いから」

あみちゃんは、わたしがスクールバッグから取り出した舞台脚本をほとんどひったくるようにすると、ぺらぺらとめくった。脚本の四隅はすっかりボロボロで、中にも演技に関する細かなメモがぎっしりだから、あんまり人に読ませられるものじゃない。でも、あみちゃんはスクールバスで席が近くなると必ず、脚本読ませてと声をかけてくる。そして、大らかで感情表現が豊かな彼女は、周りを気にせず笑ったり、しんみりしたりして、作者であるわたしを大いに喜ばせてくれた。
 
あみちゃんが脚本を読みふけっているのを見ると、わたしも昨日地元の書店で買った一冊の本が気になってくる。スクールバッグの中に入っているから、今ここで読んでも良い。表紙のイラストの淡い色調とタイトルに惹かれて、中身も見ずに手に取ってしまった本。なんとなくだけど、今の自分のシンと暗い気持ちと波長が合うような気がした。

あみちゃんは脚本を次々にめくりながら、うーん、とうなった。なんだか難しそうな顔をしている。あれ、面白くないんだろうか。不安になった。

「なんか、ダメなシーンあった?」
「ううん、面白い」
「じゃあ、なんでそんな難しい顔してんの?」
「え? あたしそんな難しい顔してた?」
「うん」

違うよ、とあみちゃんは言った。
この主役を演じられるのって、やっぱり園田さんしかいないよなぁって改めて思って。

園田さん。その名前を耳にした途端、心臓が跳ね上がった。

「すごいよね、園田さん」
「うちのエースですから、園田」
「カッコいいよね、マーチング部の後輩にも園田さんファンけっこういるよ」
「マジで? わたしのファンは?」
「知らない」
「聞くんじゃなかった」

大げさなくらい愕然とした表情を浮かべると、あみちゃんは手を叩いてゲラゲラ笑った。そして、しばらくしてから読んでいたわたしの脚本を返した。そっちも大会頑張ってね、と優しい言葉を添えて。

スクールバスが地元へ到着すると、わたし達は忙しいアリのようにわらわらと駅の階段を上った。いつもであれば、空きっ腹を抱えて一目散に帰宅するのに、今日はなんとなくそんな気分にならなかった。十七歳の食べ盛りというのに、土曜のお昼にさっぱりお腹が空いていない。朝食べた一個のバナナマフィンが、まだ胃袋に残っている感じがした。駅のコンコースを歩きながら、さっきのあみちゃんの言葉を思い返した。

この主役を演じられるのって、やっぱり園田さんしかいないよなぁって改めて思って。

そりゃそうだ。というより、あの脚本は園田が演じることを前提に書いたのだ。脚本を書いてから、主役を決めたんじゃない。始めから、園田のために書いたのだ。あみちゃんは大らかで力加減も満足にできないくせに、全く鋭い。

園田はわたし達演劇部のエースだった。野球やサッカーのように背番号こそないものの、誰が見ても彼女の演技力がピカイチなのは明らかで、一年生の時から舞台での存在感はすさまじいものがあった。

舞台の上で、「ただ立つ」ということは意外と難しい。わたしも含め、大抵の部員は自分の身体をもてあましていた。腕ってこんなにジャマだったかな、手って普段はどんな風にしていると自然だったろうか、あれ、こんなに内股で立ってたかないつも……そんな感じで、段々奇妙なオブジェのような格好で固まってしまう。そんな中にあって、始めから園田だけは憎たらしいほど自然だった。どんな役を演じても、ただそこに立っていられた。しかも、その役として。役と園田のつなぎ目がほとんどないのだった。そんな彼女に、同学年であるわたし達はもちろん、先輩も後輩も顧問までもが、一目置いていた。

一年生の時は、そんな園田を尊敬しつつも、やっぱりわたしにもライバル心があって、彼女とは違う得意分野を伸ばそうと躍起になった。舞台での居住まいは勝ち目がないが、コミカルな演技なら負けない。自分の言葉としか思えないセリフ回しは真似できないが、そのセリフを自ら書くことならできる。そんな風にいちいち張り合っていた。園田の方は、わたしのことなど一切眼中になかったようで、キミは面白いなあ、と素直に笑っているだけだったが。園田は普段はぼんやりしているが、ここぞという時は度胸があって言うべきことをちゃんと口にできるし、かと思えば怪談が苦手でどんなに陳腐な話でも本気で怖がるような一面もあった。

そのうち、わたしは園田と張り合うことをやめた。勝ち目がないと思ったからじゃない。もう勝とうと思わなくなったのだ。わたしは、園田に勝つのではなく、好かれたいと思うようになっていた。園田に、自分のことを好きになってほしかった。

駅の構内にできたばかりのカフェにひとり入ると、アイスティーを注文してソファに腰を埋めた。カフェのガラス越しに、スクールバス仲間の女の子たちが手を振ってくる。バイバイ、また来週ね。しばらくガラス越しに駅のコンコースを眺めていたが、わたしと同じ制服を着た女の子はもういなかった。みんな家へ帰ったらしい。

園田を主役にした脚本を書き始めたのは、五月の中旬だった。二年生になれば、部活の中心は自分たちになる。大会もある。わたしはこのメンバーで舞台を創れることに感謝した。園田の演技力はもちろんピカイチだったが、それ以外にも同学年には学校一の美少女がいたし、女子高生でありながら幼女からおじさんまで演じ分けられるとんでもなく芸談者な奴もいたし、とにかく偶然にも良いメンバーがそろっていたのだ。

ある時、どうしてもうまく書けないシーンがあって、わたしは部活が終わった後、園田に相談することにした。いつもはスクールバスに乗って、他の部員より一足早く帰ってしまうわたしだったが、この時はバスには乗らず、駅までの道をふたりで歩いた。五月の夜は明るい。藍色の空に冴えた月が掛かっていた。

わたしが悩んでいたのは、母親に恋してしまった主人公の少年が、なんとかその想いを断ち切るべく同級生の女の子への気持ちを無理やりに高めようとあがくシーンで、どうすれば少年が母への恋心をあきらめられるのか、その心情をうまくつかむことができなかった。
園田は時おり、ふんふんと相槌をうちながら、おしまいまでわたしの話を聞いてくれた。そして、しばらく黙っていたが、なんでもないことのようにポッとこんな言葉を吐いた。

「あきらめなくて良いんじゃない」

なにを言ってるんだろう、と思った。

「あの、ここであきらめないとストーリーが展開しないんだけど」
「うーん。でも、ストーリーに合わせて人物の気持ちをねじ曲げるより、自然な気持ちの流れのままストーリーにした方が、面白いのができると思う」

わたしは急に恥ずかしくなった。また園田の方が上手じゃないか。それにね、と園田は続けた。

「あきらめようと思ってあきらめられるものじゃないよ、恋なんて。いくら抵抗したって、好きになっちゃったら、仕方ないよね、つらくても」

わたしはまっすぐ前を向いたままスタスタ歩く園田の白い横顔を見つめた。短いまつ毛が奮えている。きれいな首だと思った。くちびるが、触れていないのに湿っているように見えた。

こいつはわたしの気持ちを知ってるんじゃないのか、と一瞬思った。

「恋ってそういうもんだと思うよ。よく分からないけど」

よく分からないなら、的確なことを言わないでほしい。結局、園田の言うとおりに、人物の感情の流れそのままにストーリーを書きすすめた。当初考えていたよりずいぶん淋しい結末を迎える話になったが、周囲からの評判は良かった。

アイスティーを飲み終わってカフェを出ると、駅の駐輪場へ自転車を取りに行った。スカート越しにサドルの堅さを感じる。家までの道のりを走り出した。

全く、憎たらしいことに園田はいつも正しかった。五月の夜から一ヶ月後、わたしは自分の身を以て園田が今回も正しかったことを証明してしまった。園田の言うとおり、いくら抵抗したって、好きになっちゃったら、仕方ないのだ。頭ではいくら、女同士なのにとか、気の迷いだよとか思おうとしたって、意味はないのだ。思い出すと、今でも頭痛がする。顔はカッと熱くなるくせに、背すじには冷や汗が伝う。考え得る限り、最悪の形の告白だったと思う。

何度目かの脚本会議の時、メンバーのひとりがもう我慢できないといった風にわたしを糾弾し始めた。始めは、純粋に脚本の完成度を高めるはずの会議だったのに、意見が割れ、まとまりを失っていくうちに、何人かのメンバーが常日ごろ抱えたわたしへの不満が一気に爆発した。安達の脚本は笑わせるセリフばかりで深みが足りない。主人公の心情に共感できない。そもそも、この役は園田を主役にすることが始めから決まっていたんじゃないのか。ひいきにするのもいい加減にしろと、あるメンバーは言い放った。

いくら園田に惚れてるからって。

その一言を聞いた途端、今まで売り言葉に買い言葉で応戦していたわたしも、グッと言葉に詰まった。場はシンと静まり返った。あまりに切羽詰った表情をしていたせいだろう、そこにいた全員にわたしの気持ちがバレてしまったのは明らかだった。園田に惚れてるからってと言い放ったメンバーは、どうやらそういう意味合いで「惚れてる」と言う言葉を使ったわけではないことが、反応で分かった。「園田の演技に惚れこんでる」というくらいの意味だったとわたしもすぐに分かったが、後悔したって遅い。

おそるおそる園田の方を見た。初めて見る表情だった。彼女は、怒っていた。結局、その場は解散となったが、それ以来、園田はわたしと口を聞いてくれなくなった。ハッキリ告白したわけでもなく、ハッキリ振られたわけでもなかったが、この恋が実ることはないなということだけはハッキリしていた。でも、何故だか涙は出なかった。ただなんとなく、鈍い痛みが残った。

帰宅すると、誰もいなかった。母がもうじき帰ってくるはずだが、それまで買った本を読もう。自室へ入ると、すぐにスクールバッグから本を取り出した。一目惚れした表紙に見惚れ、最初のページをめくった。

すると、すぐにおかしいことに気が付いた。なんだか思っていたものと違う。最初のページというか、もはや一行目からおかしい。日常的に見慣れた単語ではないけれど、意味くらいはかろうじて知っている。そこには「不貞」と書かれていた。

なんだこの本は……。

その時、初めて本を裏返してあらすじを見てみた。表紙の挿絵とタイトルに目を奪われて、よく中身も見ずにレジへ持って行ってしまったものだから、そもそもどんなジャンルの本なのかもよく分かっていなかった。あらすじに目を走らせると、今までの十七年の人生ではまったくなじみのない言葉たちが並んでいた。

「寝取られ」「狂態」「「不貞」「交合」「快楽教」「狂宴」……。
タイトルは「美少年」。作者の名前には「団鬼六」とあった。

もしやこれは、官能小説というやつだろうか。噂には聞いたことがあるが、手にしたのは初めてだった。だって、本屋のすみっこに並んでいるそういう小説の表紙には、大抵グラマラスな女性が半裸で微笑んだような絵が描いてあるし、その絵のタッチにしたって、もっと艶が強調されていかにも「肉体」といった感じだし。

わたしはなんだか気が抜けて、しばらく本を手にしたままクーラーに当たってボーっとしてしまった。官能小説って……。もっと、穏やかで優しい物語だと思って手に取ったのに。にぶく痛むこころをそっと包んでほしくて、買った本だったのに。

それでも、なんとなく一行二行と読み進めてみた。この本は、表題作を含む四つの短編から成るもので、いずれも男女やもしくは男性同士のねっとりした絡み合いを描いていた。はじめは、落胆したまま読み進めていたが、徐々にページをめくる手が速くなっていくのが分かった。思っていたのと違う。ただやらしいだけじゃない。むしろ、別にやらしさくはない。もちろん、官能小説なのだからそういう描写も多いが、それよりも登場人物の心情が胸に迫ってくる。狂おしいほど相手を求める切ない気持ち。その相手と肌を重ねる時の突き破るような喜び。
気が付くと、両目から涙がこぼれていた。ビックリした。え、わたし、官能小説読んで泣いてるの? なんで? 自分でも訳が分からない。

玄関から母の、ただいま~というとぼけた声が聞こえてきた。まずい、こんな泣き顔見られたら心配される。わたしは自室を出てまっすぐ玄関へ向かった。後ろから母の、そうめんがすぐゆだるが食べないのかとか、大丈夫かとか、そういう声が聞こえたが、もうダメだった。適当に返事をしながら家を出て自転車にまたがり、走り始めた。

あの小説のことを思い返した。どの短編も、物悲しい結末が多いが、それでもどの人物も慕う相手と激しく感情を交え、肌を合わせて、ものすごく生き生きしていた。見つめ合い、指を絡めて。

わたしはやっと気づいた。というか、認めた。自分が本当にしたかったことを。園田のことを考えた。

わたしは本当は、君のその目を、こっそり盗むようにではなくて、真正面から堂々と、焦げるくらい見つめたかったよ。
君の肌の温度を知りたかったし、君に好きだと言われたかった。
抱きしめたかったし、本当は触ってみたかったんだよ。

そして、その全部、もう叶わない。
園田が口を聞いてくれなくなった時以来、初めてハッキリと分かった。

ああ、そうか、わたしは。
失恋したんだなあ。

信じられないくらい大きな声でわたしは泣いた。人間て、泣く時に本当に「うわーん」っていうんだな、などとバカバカしいことを考えつつ、わたしは自転車で走り抜けながら、いつまでも、うわーんうわーんと泣いていた。

***
この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。

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