合わせ鏡《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:あかり愛子 (プロフェッショナルゼミ)
――今日こそ、ここを出ていくんだ。
花咲き乱れ、どの木にもたわわな果実の実る庭を見回して、彼女は思う。
涼しい風に乗って、甘い香りが鼻をくすぐる。
しかしそれが何から漂ってくるのかは、結局わからないままだった。
なにしろここには、あらゆる季節の、あらゆる美しい花が一斉に咲いているのだから。
庭といってもその敷地は広大で、生まれた時から住んでいるのに、どこが果てなのかもわからない。
点在する畑は、耕せば簡単に実り、庭の中心を流れる川は常に満ちていて、飢えも渇きも感じたことがなかった。花はあくまで美しく、鳥の声は心地よかった。
――あいつに見つからないように、注意深くやらなくちゃ。
ここからは遠くにかすむように、高い山々が連なるのが見えていたが、行ってみたいとも思わなかった。
ここにいれば、毎日が満たされていたのだ。
あの、庭の中心に実る、ひとつの果実を口にする前は。
――そう、最初は蛇が言ってきたんだったわね。どうして食べないのかって。
『だって、誰も食べてないわ。あなたは知らないのね、あの実は食べたらいけないの。食べたら死んでしまうのよ』
『へえ、食べてもないのにわかるのかい?』
『おかしなこと言うのねぇ。食べたら死んでしまうんだってば。それに、何もあの実を食べることないわ。だってここには、』
彼女は顔をくるりとまわして見回した。
『見て、こんなに、色とりどりの実がなっているのよ。私たちは、どれでも好きに食べてもいいんだわ』
蛇はじっと彼女の、無邪気な笑顔を見つめて、気の毒そうに笑ったのだ。
『あんたは知らないからね。食べたら死んでしまうような実のなる木を、どうして、こんな目立つところに置く必要があるんだい?』
『どうして……? よく、わからないわ。私が知るわけないじゃない』
『そうだね、あんたが知るわけない』
蛇は笑いを残したまま、音もなく姿を消した。
彼女は一人残されて、一度首をかしげてから、草むらに腰をおろした。
柔らかな花が、むき出しの足と尻を支えた。
くすぐったい感触と、寝転んで見上げる澄んだ空に、蛇の言葉のことはすぐに忘れてしまった。
――だけど蛇は何度も来たのよね。
彼女が一人でいるときに、決まって蛇は音もなく近づいてきて、彼女にささやくのだ。
『本当に、あれを食べたら死ぬと思っているのかい?』
『へぇ? なるほど、食べたら死んでしまう実だから、真ん中に置いてみんながわかるようにしてくれているって? なるほどねえ、随分親切なことだ』
『お前は随分賢くなりそうな女だよ。なのに残念だねぇ。知ることにとんと興味がないんだもの』
彼女には、蛇の言葉が理解できなかった。
本当に、あの実の味になんて、なんの興味もなかったのだ。
食べたら必ず死ぬ、と言われている実を、どうしてわざわざ食べることがあるだろう?
だからあの日、蛇が散歩に誘ってきさえしなければ、彼女は今も目を開くことのないまま、この庭で畑を耕し続けていたのだろう。
『ねえ、今日はいちだんといい天気だよ。散歩に行かないか?』
彼女は、いつもと変わらない、白い雲の浮かぶ青空を見上げた。
畑の土はふかふかと足を包み、心地よく流れる汗を、軽い風が乾かしていく。
『彼も一緒に行った方がいい?』
彼女は、少し離れたところで鳥の声に微笑んでいるパートナーを指さして蛇に聞いた。
『いや、あんただけでいいよ。せっかく、気持ちよくひと休みしてるんだ、邪魔することもない』
彼女は素直にうなずいて、ぺたぺたと歩き出した。
ウサギや羊が歩いてきて、彼女の足や腰に体をすりよせてきた。
ふんわりとした温かさが気持ちよくて、彼女は一度立ち止まり、彼らの体をなでてやる。
指先の隅々に熱を感じてから手を放し、再び蛇と並んで歩く。
いつもの午後。
変わらない昼下がり。
彼女は明日のことは考えない。
今、お腹がすいているか。
今、寒くないか。
今、私はどこにいけばいいのか。
考えるとすればそんなことのはずだったが、実際はそれさえ考えたこともなかった。
感じる前に、すべての欲求は叶ってしまうのだから。
だからその時も、彼女はただ小動物の感触を楽しんで、風が、自分の豊かな髪を揺らしていくのだけを感じていた。
素肌はくまなく陽にさらされて、思う存分明るい光を跳ね返していた。
『着いたよ』
なんにも考えていなかったので、彼女は気づけばたどり着いていた。
『まあ、本当にしつこいのね。私は食べないって言ってるでしょう』
庭の中心にはえている、あの実をつける木の前に。
『食べなくたっていいんだよ。なんとなく今日はこの実を見たくなっただけなんだ。だって別に、触っちゃだめだなんて、言われてないんだろう?』
――そうだっただろうか? 触ってもだめだったような気もするけど……。
正直なところ、彼女はそのあたりをきちんと覚えてはいなかった。
『言われてないんだよ。触るのは大丈夫。ねえ、見てごらんよ。あんたは、今まで一度もきちんと見たことがないんだろう? こんなに、美しい実なのに』
『ほんとね。知らなかった』
『おれはね、あんたに見せたかっただけなんだ。ほら、触ってごらん、つやつやして、赤くて、こんなに丸い。あんたの顔が映りそうに輝いているよ』
言われて彼女は顔を近づけたのだった。
そして、嗅いだ。
澄んだ、甘い甘い香りを。
『そう、ほら、いい匂いだろう? 手に取るだけなら大丈夫。ひとつ、好きなのを選んでごらん』
彼女は手を伸ばして、一番赤くてつやつやしているのをもいでみた。
それはあつらえたように、彼女の手のひらにすっぽりと収まった。
それでも彼女は、まだそれを食べたいとは思わなかった。
ただ、帰ったら彼にも見せてあげたいな、と感じただけだった。
『もうおれも、無理にあんたに食べろだなんて言わないよ。あんたは死にたくないみたいだからね』
『だって、死ぬのはいやよ』
『そうかなぁ。あんた、何かが死んだところを見たことがあるのかい?』
『ないわよ。でも、死ぬからだめだって、おっしゃったんですもの。それはなにか、悪いことなのよ』
『そうかなぁ。あんた、見たこともないのに、どうして悪いことだなんてわかるんだい?』
言われてみると、蛇の言葉も少しだけ納得できるような気がしてきた。
『死ぬっていうのは嘘なんだ。本当は目が開くってことなんだ。あの方と同じに、賢くなるってことなんだ』
『あの方と同じに?』
『そうだよ、その実をひとくち食べるだけでね』
『だけど』
『ここに証拠がある』
蛇は彼女の目の高さに立って、両手で彼女の顔を包み込んだ。
かさかさして、冷たい手だった。
両手はそのまま頬から首、肩、胸、腰と降りていって、もう一度、顔に戻った。
『おれは、食べたんだ』
するりと蛇の手が離れ、彼女は手の中の実をあらためて見てみた。
赤い実。これをかじれば、目が開く?
目が開くってどういうことなんだろう?
ぜんぜんわからない。
でも、蛇は食べたと言った。
その時、彼女の中に初めて味わう感情が生まれた。
『私も、知りたい。食べたら一体どうなるか』
結局、彼女は死ななかった。
そして、目が開いたのだ。
さくさくと、甘酸っぱい実をかじりながら、彼女は視界が一気にクリアになるのを感じた。
ここで肌に感じる風が、こんなにぬるかったんだと知った。
そして、遠く見える山の連なりが、自分を呼んでいるように思えたのだ。
気づけば蛇は姿を消していた。
彼女は、見えなくなった蛇にそっと礼を言って、もう一つ、果実を手にすると急いで家に走った。
――それなのに。あいつは全然だめだった。
なだめすかして食べさせてみたのに、それから毎日恨み節ばかり。
目なんて開かなくてよかったのに。
君のせいで怒られた。
僕は悪くないんだよ。
ねえ、ここを出て行けって言われたよ。
どうすればいい? ここを出て、生きてなんていけるわけないよ。
――ばかみたい。そういえばあいつは最初っからぼんやりしたやつだった。
――だから私は、今日ここを出ていくんだ。
天使にせっつかれても、のろのろと荷物をまとめてばかりの彼が(そもそも天使もなんだかんだで彼には甘すぎるのだ)きちんと家にいるのを確認して、彼女は一直線に走った。庭の果ては、意外と近くにもあったのだ。
葉とツルで作った服に、あの果実の種をしのばせて、庭の果ての柵に近づく。
急がなければ、天使が彼女を探し出す。
柵は、見上げるとそれほど高くはなかった。
背丈を少し超えるほどの木が並び、その間をいばらのツルが覆っている。
彼女は一本の木を選び、太い枝を力任せに折ってから、ツルの隙間を開いた。
身をかがめ、用心深く隙間を通る。
服と髪がひっかかったが、少しずつ体を通していくと、やがてすっかり外に出た。
外に出たのだ。
白い腕には血がにじんでいたが、痛みはなかった。
燃えるような興奮が内側に満ちている。
彼女は忘れずにしっかりとツルを戻し、自分が逃げた痕跡を消した。
これでしばらくは気づかれないだろう。
それに、おそらく彼は気づいても、しばらくは気づかないふりをするだろう。
一人残されたなんて事実、気づいても直視なんてできないに違いない。
彼女には彼のうろたえる姿が簡単に想像できた。
『そういえば今日は帰ってきていないなぁ。だけど大丈夫、明日には帰ってくるよね。だって彼女は、僕をだましたんだから。それを悪いって思ってるはずなんだから。だから、外に出るための準備をどこかで今もしてるはずなんだ』
『僕のために』
『だって彼女は、最初から、僕のために作られたんだもんね』
懸命に自分に言い聞かせ、あたたかい部屋の中で、手遅れになるまで平気なふりをする彼のことを考えると、笑えてきた。
笑いの中にはほんの少しの愛しさも混じっていたが、それはここで捨てていくべきものだということくらい、彼女にもわかっていた。
――今、気づいて追ってきてくれたら間に合うんだけど。
いばらの間から見える、色とりどりの世界を見ながら、彼女は数を数えた。
甘い匂いを吸い込んで100まで数えて、ゆっくりと目を閉じた。
胸にたまった空気を残らず吐き出すと、楽園に背を向けて、目を開けた。
そこは、硬い石と、乾燥した砂の広がる荒野だった。
庭からいつも見ていた、高い山々が、川のはるか先に見えた。
血が、燃えた。
気づけば彼女は走り出していた。
初めて足の裏に感じる硬さ。
小石は容赦なく肌に食い込み、足はすぐに痺れてきた。
けれど、彼女は止まらなかった。
――祝福されている!!!
神のもとから逃げてきて、一体なにに祝福されているというのか?
それでも彼女は幸福感に焦げそうになりながら走り続けた。
――私が、祝福されている!!!
神は彼女を呪い、楽園から出ていくことを命じたが、そんなこと、なんだというんだろう。
私は明日、お腹がすくかもしれない。
明日、寒くなるかもしれない。
明日、行く先に迷うかもしれない。
考えてみて、彼女はそのすべてに、興奮した。
好奇心に、つぶされそうだった。
私は、今日、私を誕生させたのだ。
荒野に広がる青空は深く濃く、花の甘い匂いは髪にたくわえられた残り香がただようばかり。
風はびゅうびゅうと体にぶつかり、足元から土の匂いが立ち上ってくる。
いつのまにか、彼女は大声で笑っていた。
――私が、私を祝福する!!!
残してきた頼りない男のことは、もう思い出しもしなかった。
・・・
さて、楽園の庭の一角で、ひとつの人影がその様子をじっと眺めていた。
白い壁に、逃げていく女の姿が映し出されている。
――まただ。
――どうして、イブは逃げていくんだ?
――何度作っても、何度作りなおしても、イブは必ず逃げていく。
――アダムを一人、置き去りにして。
白壁の前には、眠りについたアダムが横たわっていた。
軽く寄せた眉に、苦悩のあとがにじんでいた。
彼はアダムの傍らに腰を下ろし、眉のあたりをほぐしてやった。
アダムはふんわりとほほ笑んだような、本来の表情に戻っていった。
それを満足気に眺め、ふたたび白壁に目を向ける。
生命力にあふれたイブの後ろ姿。
これまで何度、この背中を見送ってきただろう。
「どうして、いつも、イブは一人で行ってしまうんだ?」
何度アダムをリセットして作り直しても、イブは必ず一人で行ってしまうのだ。
無邪気でかわいいアダムを、誰も連れて行ってくれない。
二人、助け合っていけるように、作り上げているのに。
今頃きっと、あの山の向こうは、逃げたイブでいっぱいなのだろう。
そして彼が作ったのではない、どこかの野蛮な男と出会い、家族を作っているのかもしれない。
今日、逃げて行ったイブも、たくましく山を越えることさえできれば、かつてのイブに迎え入れられて、きっと、同じ道をたどるのだ。
――おぞましい。
――なぜ、この子を連れて行ってくれないのだろう。
「オリジナルに問題があるんじゃないですか?」
思考が遮られ、彼はのろのろと振り返った。
蛇が、すぐ近くでくつろいでいた。
蛇は愉快そうに笑っている。
振り向いた拍子に、彼の顔が光に照らされた。
最初の人間、アダムに瓜二つの顔が、そこには照らし出されていた。
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