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プロフェッショナル・ゼミ

息子に最高の人生をプレゼントした男の話《プロフェッショナル・ゼミ》


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:万葉(プロフェッショナル・ゼミ)

 

 

はじめまして。僕は、加藤修一といいます。これを読んでくれる人がいるかはわかりません。

でもたった一人でも、父のことを覚えていてくれる人がいるかもしれない。そう思ったので、書いてみようと思います。

 

父が亡くなりました。とても厳しい父でした。父を憎んだこともあります。

でも、僕の恩人は、まぎれもなく父です。歩いたり、笑ったり、恋をして家族を持ったり、家族のために働いたり、そんな当たり前のことができるようになったのは、全部父のお陰です。

 

父は僕のために、自分の天職をあきらめました。僕のためにずいぶん辛い決断をしたと思います。でも、晩年の父は幸せだったと言いたい。ちょっとボケてしまったけれど、いつもニコニコしていました。父の人生は幸せだったよと、父が愛した教え子の皆さんにお伝えしたかったのです。

……

 

SNSに書きこまれたメッセージ。誰かのシェアのシェア。

どこでどうつながったのかはわからないけれど、確かに私はこのメッセージを受け取った。

「加藤先生……」

走馬灯のように、あの頃が蘇ってきた。

 

                                         

 

 

加藤善一先生を私は大好きだった。

私が小学5年生の時の担任だったから、もう40年近く前のことだ。

 

加藤先生は、病気で担任を降りた先生の代わりに、違う学校から赴任してきた先生だった。これまでこの学校にいたどの先生とも明らかに違う雰囲気をまとっていた。

 

外見は『不思議の国のアリス』に出てくるハンプティダンプティにそっくり。つまりは、お腹まわりがでっぷりしていて、それに手足がついているのをイメージして欲しい。背が低くどっしりしている。大学までずっと柔道をしてきたそうだ。

 

豪放磊落な気性というか、声がでかく、細かいことにこだわらない性格だった。

 

 

私のかよった小学校は、生徒を管理しようとする学校だった。

何かあるたびに反省会というのをやる。

反省会の流れはこうだ。

 

運動会や何かの会が終わった後で、グループ(班)ごとに分かれて、他のグループに点数をつける。その時の活動がよくできたか、グループのメンバーの態度はどうかを点数で競うのだ。

 

点数が一番悪かったグループはみんなの前に出てきて反省する。

反省が足りないと判断されると罰を受ける。

 

グループごとの場合もあるし、一人の生徒に対する反省会もあった。

一人班という罰が一番重かったと思う。問題行動をした生徒に対して与えられる罰だったが、先生の横に一人の席を作り、他の生徒と対面しながら勉強するというわけだ。給食も一人で食べる。泣きながら謝るまで一人班のまま。今では考えられないことをやっていた。

 

反省会で問題の人物を言わされることもあった。言わないと終わらない。

苦し紛れに「〇〇君が挨拶のとき動いていました!」などと、どうでもいいことを言う子もいた。生徒同士で見張らせているのだ。

また、無記名で、嫌いな子の名前を書かせたり、その子の欠点を書かせたりもした。

 

先生にとっては管理しやすいシステムだったのだろう。

 

「バカらしい!」

私は内心怒りを感じていたが、何も言えなかった。かなしいかな、私は、長いものには巻かれる弱い人間なのだった。おかしいとは思っても、何をどう言えばいいかわからない。

 

今でも思うけれど、あの教育は間違っていたと思う。

減点主義では、自主、自立、自信など育ちようがない。だから、私は学校というものが好きではなかった。先生一人一人は、決して悪い人ではなかったが、集団になると、どうしてああなってしまうのだろう。

 

私は学校というシステムになじめず、一人本を読んで過ごすことが多かった。

 

 

そんな雰囲気の学校で、加藤善一先生は、あきらかに異質だった。

異質であるということは、学校に不協和音をもたらすということだ。

 

「そんなくだらんことするな!」と反省会をしようとする私たちを一喝した。

生徒たちの目が驚きとともに、一瞬で輝きはじめた。

 

「子どもはもっと外で遊べ! 身体をつくれ!」

「もっと本を読め!」

 

加藤先生が言いたいことは二つだった。

〇健康をつくるために、もっと身体を動かしなさい。

〇心を強く大きくするために、もっと本を読みなさい。

 

柔道をしてきた先生は、武術の心得「心技体(しんぎたい)」を重んじていた。心も技術も身体もバランスが大事だ。運動と読書で人間としてのバランスがとれるというのだ。そして、人のことをあれこれ言うよりも、自分で責任を取れる潔い人間になりなさい、それだけでいいと言う。

 

私は、一気に加藤先生が大好きになった。

あの頃、すでに先生は40代後半から50代くらいだったのだろうか。外見が老成していたから、小学生の目から見ると、おじいちゃんのように見えた。ハンプティダンプティのようなおじいちゃんを嫌いな子どもがいるだろうか。

 

加藤先生の授業は面白かった。

その教科に興味を持てるような雑学を先生はたくさん知っていた。

漫才を聞いているように面白かったから、先生が「今日は脱線した。では授業始めるぞ」というとみんな残念でならなかったものだ。

加藤先生のお陰で、一気に私の知的好奇心が花開いた。

 

 

先生は、本の音読と書き写しに特にこだわっていた。ちょっと古いやり方だが、徹底して名文の音読と書き写しを私たちにさせた。

 

それは後年、私の大きな財産となったと思う。名文は声に出すと、リズムがちゃんとあるのがよくわかる。流れる音楽のようなのだ。その名文をもくもくと書き写す。先生は読むだけでなく身体に文章を覚えこませようとしていたのだ。良い文章を徹底的にマネしなさいと言った。

作文もたくさん書かせた。文章を書くのを嫌う子どもが多いが、先生は、どんな生徒の文章からも良い点を引き出し、それを伸ばすアドバイスをする名人だった。

 

私は友達と、大好きな加藤先生の周りにいつもまとわりついていた。

先生は、私が運動が苦手で、作文が得意だとわかると、本の読み方や楽しみを語ってくれた。そして、才能があるから、もっと読んで、もっと書きなさいと言ってくれた。先生の言葉に、体育ではいいところがない私も、書くという大きな目標ができた。

 

 

学校としては苦々しく思っていただろう。

あきらかに加藤先生の教育方針と、学校の方針とは相いれないものだったからだ。

加藤先生は職員室ではどんな思いでいたのだろう。あんがい豪快な先生に他の教職員が押されていたのかもしれない。そうだったらいいなと思うのだ。

 

そんな風に、大きな風が吹き、1年が過ぎた。

小学校の最後の年が始まった。担任はもちろん加藤先生だ。くだらない反省会もしなくていいし、私たちは大好きな加藤先生に見送られて学校を卒業するはずだった。

 

 

子どもとは本当に視野が狭く、親や先生から助けられてばかりだ。大人たちがどれほどの思いを持っているかもわからないし、自分のことで精一杯。

あの頃の先生の年齢を過ぎた今なら、先生の苦悩がよくわかる。

 

夏休みが終わったころから、なんとなく先生の様子が変わった。

豪快でいつも笑っていた先生。一人一人に声をかけ、長所を伸ばしてくれた先生。運動で身体を強くしなさい、本で心を広くしなさいと言っていた先生が、何も言わなくなった。

 

教室は笑いが減り、授業でも面白い話をしなくなった。先生はぼんやりしていることが増えた。

 

最初は何が変わったのかわからなかった。でも、確実に以前の先生とは違う雰囲気になっていた。

 

ある日、先生の様子がさらに変わっていた。

 

朝からなんとなく様子がおかしい。今まで通り授業をやっているのだが、なにかがおかしいのだ。子どもだった私は、それが何であるかわからなかった。

 

顔が少し赤いようだ。熱でもあるのだろうか、目がうつろのような気がした。

午後の授業が始まったが、先生は赤い顔でぼんやりしている。

途中で、「自習しなさい」と言って、教室を出ていった。

 

生徒はみんな喜んでいた。先生の様子に触れる子は誰もいなかった。気のせいかもしれない。

私は気になりながらも、本を読み始めた。

 

次の日、先生は休んだ。

やっぱり風邪だったのかな? そう思った。

 

その次の日、先生は来た。

でも、顔が赤い。少し饒舌になっていたが、目はあいかわらずうつろだった。

確実に、いつもの先生ではない。

私は違和感に押しつぶされそうになっていた。

 

その日の放課後、私は次の日の宿題を教室に置き忘れたことを思いだし、誰もいない教室に一人取りにかえった。

 

誰もいない教室は、なんだか物悲しい。昼間の喧騒が嘘のようで、かえって静けさの密度が濃く感じられる。

 

私は自分の机の下から、宿題のプリントを取り出してランドセルに丁寧にしまった。

すぐに出ていこうと思ったが、ふと教卓に目がとまった。

 

「先生、大丈夫かな。どうしたんだろう」

 

私は加藤先生を思いながら教卓に近づいていった。

教壇に上がって、先生がいつもしているように教卓に手を置いて、生徒たちの様子を見るふりをしてみた。

 

「教室って、こんな風に先生からは見えているんだ……」

 

ふと、教卓の下に目をやると、そこにキラッと光る何かがあるのに気づいた。

 

「これ、何だろう?」

 

茶色の瓶だ。

瓶には少し液体が入っている。

 

「?」

 

手に取って臭いをかいでみる。

 

「これって、お酒???」

 

父がお酒が大好きだから、お酒の臭いはなんとなくわかる。

お酒と教室という組み合わせの意外さに、私は瓶をもったまましばらく固まっていた。

 

「先生が教室でお酒を飲んでいる?」

 

意外だった。

でも、先生、ずっと顔赤かったし、目もうつろだった。

ろれつが回っていないときもあった。すべてがつながってきた。

 

先生は教室で隠れてお酒を飲んでいる!?

 

私が最初に思ったことは、これがバレたら先生、学校を辞めさせられるという恐怖だった。私は震える手で瓶を教卓の奥にしまった。

どうしよう? 親に相談しようかとも思ったけれど、そんなことしたら先生がクビになってしまう。 そうだ、だ、黙っていよう……。

 

私は走って家に帰った。

 

翌日、私は何事もなかったように学校へ行き、先生の様子を伺った。

 

先生は相変わらず、目がうつろだった。精気のない表情。私は一人ドキドキしていた。教室での飲酒がばれないように、それだけを祈っていた。でも、こんなこと長く続くはずがなかった。他の先生だって、様子がおかしいことに気づくはずだ。もう、勉強どころじゃない。先生の秘密を共有しているプレッシャーにどこまで耐えられるだろう。

 

 

「ちょっと話したいことがある」

 

加藤先生に放課後呼び止められたとき、心臓が飛び出しそうになった。

 

「どうしよう、私が瓶を見つけたことを先生は知ったんだ!?」

 

「お父さんに会いたい。夜伺いたいから、お父さんに予定を聞いてほしい」

 

「は、はい」

 

私は混乱していた。

「父に会いたい」とはどういうことか。

普通、学校の先生が親に会いたいというときは、子どもが悪いことをしたときと相場が決まっている。それも母ではなく、いきなり父に会いたいとは……。

 

私に唯一、思い当たることがあると言えば、お酒の瓶を発見したことだ。

しかし、発見したことで私が責められるのだろうか。

なんで父に会うのだろうか……。口止め? それとも?

 

私は泣きそうな気持ちで、まず母に、先生が父に会いたがっていることを伝えた。

父には怖くて直接言えそうもない。

 

あの頃の記憶は少し飛んでいる。

多分、あれから先生は父に会ったはずだ。だけど、その記憶がない。父は何も言わなかった。

 

 

結局、それからしばらくして、ある朝学校へ行ったら、加藤先生はいなくなっていた。

 

 

「加藤先生はご病気のため、急きょ学校をおやめになりました。これからは、私が担任になります」と他の先生が登壇し、すぐに授業が始まった。

 

お別れを言うこともなく、加藤先生は跡形もなく消えていた。

もちろん、茶色の瓶とともに。

 

 

先生がいなくなったことを母に言うと、母は悲しそうに「そう」とだけ言った。

 

「ねえ、先生が家に来た理由は何だったの?」

 

何度もせがむ私に、母は重い口を開いたのだった。

 

「先生の息子さんがね、学校の柔道の授業で、同級生にふざけて柔道の技をかけられて、頭から落ちたらしいの。それで、ひどいケガをされたようなの。一人息子で大学も推薦で決まっていて、これからって楽しみにしていたときにねえ。

 

先生も悔しくて、悔しくて、どこに気持ちをぶつけていいかわからず苦しんでいたのよ。学校や加害生徒に復讐をしてやりたいという気持ちと、加害生徒の将来を考える先生としての気持ちとの葛藤で、泣いていらした」

父は法律の仕事をしていたから、それで相談しに来たのだった。

 

私は、茶色の瓶と関係がないことを知ってホッとすると同時に、加藤先生の苦しみを何も理解していなかった自分を恥じた。

 

 

それっきり、誰も加藤先生のことに触れなかった。

いつしか、私も心の深いところに加藤先生の思い出を押し込めてしまった。

 

 

                                         

加藤修一さんは、加藤善一先生の息子さんだったのだ。

40年近いときがたち、点と点がつながり、ようやく物事の全体像が見えたことに、私は深く心を動かされていた。

 

 

さらにメッセージは続く。

 

父は、僕がひどいケガをしてから、教師の仕事をやめました。本当に先生という仕事が大好きな人だったから、父は辛かったと思います。でも、僕を立ち直らせることに全人生をかけてくれたのです。

医師が一生寝たきりになると言ったのに、父はそれを信じませんでした。僕の容態が安定すると、リハビリの鬼と化したのです。父は猛烈に人体について学びました。そして、賛同してくれる医師を見つけて、一縷の望みにかけて、僕を歩かせることに残りの人生をかけました。

 

本当に厳しかったな。なぐさめもされず、「おまえを一生養うつもりはない」と言われました。僕自身、自分の身体を受け入れられず、自暴自棄になっているのに、泣き言を父は許しませんでした。お前が悪い、誰も恨むなと父は言いました。

 

退職金のすべてを僕のために使いました。それとともに、僕が将来困らないように、小さな商店を始めて、生活の糧を手に入れられるようにしたのです。父は教育者です。商売なんて全くしたこともなかった。その父が、一生懸命商売をならって、お客様に頭を下げてくれました。

 

僕は、少し身体に不自由は残りましたが、今歩いています。やさしい女性と結婚もできました。

 

晩年、一度だけ、父は最後に受け持った生徒さんたちに悪いことをしたと言いました。

突然やめてしまったことが、心残りだったのでしょう。

もう時効だから言うけれど、教室でお酒を飲んだこともあったようです。

 

だから、今、僕があやまろうと思います。

 

申しわけありませんでした。あの頃の父を許してください。

※この物語はフィクションです

 

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