プロフェッショナル・ゼミ

ガダルカナル島を生き抜いた祖父に育てられた私の愛の原風景は、やはりこの庭にある。《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:市岡弥恵(プロフェッショナル・ゼミ)

私が育った家は、年がら年中花が咲き乱れていた。
季節に合わせて、色んな花が次から次に咲いていく。しかし私は、ぐにゃぐにゃと崩れるように散っていく牡丹が嫌いだったし、庭が血で染まったように見える彼岸花が気持ち悪かった。それと、雪が降った時。真っ白な雪の上に、ボトっと首から落ちる椿。雪が血しぶきで汚れてしまったように見えた。

それに、この庭を保つためには仕込みと手入れが必要なのだ。
冬の寒い時に、チューリップの球根を植えたり、夏の暑い日に雑草をむしったり。取っても取っても生えてくる雑草が大嫌いだった。

正直、子供の頃の事はあまり語りたくない。
「センソウ」を身を持って体験した祖父に育てられた私。
雑草の根を食べていた祖父。その経験故、孫達にも厳しかった祖父。
ただ、自分が30歳を超え、こうして自分の事を文字にしていく中で、やはり私はこの庭の事を考えざるを得なくなった。そして、大嫌いだった祖父の事を。

***

あの日は、すごく暑かった。
小学生にとって大事な夏休みの一日に、私は祖父に連れられて福岡市中央区にある、陸軍墓地に居た。

毎年夏休みになると、祖父は私と弟達を連れて、この丘の上にある陸軍墓地に来て掃除をする。子供の私たちにとって、何一つ楽しいことのない行事だった。
「行く」と言われると、正直逃げ出したかった。汗がダラダラ垂れる中、黙々と掃除をする。セミがミンミン鳴いて、私の羞恥心にさらに拍車をかける。私が生まれたのは、1985年だ。小学生の頃の話だから、1990年代。それなのに、とにかく「倹約家」の祖父は、30分以上かかる道のりを、孫達を連れてリヤカーを引いて歩く。この時代に、リヤカーなんて。しかも、福岡市内だ。私は小学校の同級生に、こうした姿を見られるのが本当に嫌だった。同級生達がスーパーファミコンとかで遊んでいる中、リヤカーを引き祖父と一緒にトボトボ歩く。それが故、小学校では色々言われていた。やはり、その時の事はあまり思い出したくない。

祖父は、戦時中ガダルカナル島とビルマインパール作戦に従事した人だった。そして、ビルマで終戦を迎え、その後2年間捕虜としてビルマで労役に従事していた。
「従事」という言葉を使ったのは、祖父がそのように書き記しているからだ。

ガダルカナル島。幼い頃の私は、それがどこにあるのかも知らなかった。
ただ、祖父がよく「ガ島、ガ島」と言っていたのを覚えている。
「ガ島の戦友が」という言葉をよく聞いた。祖父にとってガダルカナルは、恐らく彼の人生全てを変えてしまった戦いだったのだと思う。キリスト教ではないのに、私たちはキリスト教系の幼稚園に通っていた。それはやはり、祖父の「ガ島の戦友」がその幼稚園を運営していたからだ。それだけ、祖父にとってガ島を共に生き抜いた戦友には、強い想いがあったのだと思う。

そして、毎年この陸軍墓地に連れてこられるのは、『ガ島戦没者之墓』があるからだった。

あの頃の私は、そんな事には全く関心がなかった。ただ、早く墓地の掃除を終わらせて、家に帰りたかった。ヒマワリとトウモロコシがなっている家の庭に帰りたかった。

掃除が終わると、ひとつひとつの墓石の前で手を合わせる祖父。この陸軍墓地にはガ島戦没者だけではなく、日清日露戦争や支那戦争、そして大東亜戦争戦没者の慰霊碑もある。一つ一つに時間をかけ、そして『ガ島戦没者之墓』と書かれた石の前では、その倍ぐらい時間をかけていた。
顔じゅうから汗を流している祖父。私は祖父が泣いていると思った。涙じゃなかったのかもしれない。汗だったのかもしれない。それでも、あの年に見た祖父の顔は、泣いていたように思うのだ。

その年、私は初めて家出をした。
家出と言っても、家族に何も言わずに小一時間ぐらい家を抜け出したというだけだ。
確か、小学校三年生か四年生の時だ。だから、せいぜい家から歩いて30分ぐらいのところだったと思う。下宿屋をしていた祖母と母は、夕飯の支度にてんてこまいの時間帯。どうせ誰も気づかないだろうと思った。

私はその日も、祖父に怒られたのだ。
何が理由で怒られたのかは覚えてない。毎日毎日怒られるものだから、正直何が正解か分からなかった。幼ながらに、何をやってもどうせ怒られるんだと思っていた。
だから、理由なんか覚えてない。

その日は雨が降っていて、それなのに私は傘を差さずに家を出た。ビショビショに濡れてみたかった。学校での出来事も、家での出来事もどうでもよくて、私は自分が惨めでしょうがなかった。だから、雨に打たれてみたかった。
髪の毛がビチャビチャになって、頰っぺたにまとわりつくのも、どうでもよかった。

しばらく歩いて、突然目の前に出てきた田んぼ。
私は、その脇にぺしゃんと座ってみた。

田んぼの所々に水たまりができていた。水たまりに、雨がポツポツ落ちては、丸い輪っかが水たまりの中に出来るのをボンヤリ見た。すぐ脇の道を、車がどんどん通り過ぎて行く。
私は、庭の花はどうなっているだろうと思った。雨で花びらが落ちていないだろうかと。
祖母が大好きな花達はどうなっているだろうと。

私は祖母の顔を思い出して突然寂しくなった。厳しい祖父とは対照的に、「ぽたぽた焼き」の絵みたいに優しい祖母。
私は、心細くなり、家に帰ることにした。来た道をそのまま、またトボトボと歩いた。

家に帰ると、庭に祖父がいた。

雨が降っているのに、傘も差さずに帽子だけを被って庭でゴソゴソしている。私は、祖父に見つかりたくなくて、こっそり壁に隠れて祖父の様子を伺った。雨なのに何をしているんだろうかと思って見ていると、祖父は庭に咲いていた小さな花に傘をさしていた。地面に刺した棒に、傘を縄でくくりつけていた。
庭のいたるところに、咲いた傘。祖父は、雨で倒れてしまいそうな弱々しい花達に傘をさしていたのだ。

そもそも、祖父が元来花を愛でる人なのかどうかは知らない。どちらかと言うと、そんな事に興味のないような人だったと思う。

しかし、祖父は黙々と一人花に傘をさしていた。なぜだか、私はこの時の祖父の姿を未だに覚えている。

私が、中学生ぐらいになった頃だろうか。
祖父が、祖母を叱りつける事が多くなった。隣に住む祖父母の家から、よく怒鳴り声が聞こえていた。足腰や目が悪くなった祖母は、下宿屋の食事を私の母にまかせるようになった。もちろん、私の両親も年老いていく祖母が下宿屋を引退する事に異論はない。
しかし祖母は、自分たちの食事は私の母に頼らず、自分で作っていた。それは、祖母なりの祖父への愛情だったのだと思う。
台所に立つのがしんどいのだろう。祖母は台所に椅子を置いて、そこに座り料理をしていた。目が見えなくなってきている祖母は、台所に刻んだ野菜などをポロポロ落とす。そして、床に落ちた物も見えないのだ。
だから祖父は、ガミガミと祖母を叱りながら、私に掃除をさせた。

「こげん落としてから!」

掃除機をかけると、カラカラと乾燥した野菜やらが掃除機に吸い込まれる。雑巾掛けをしている私の横で、祖父は相変わらずガミガミと祖母を叱っていた。

そんな折、私の両親が祖母に料理をやめさせる事件が起きた。

祖母が、鍋に火をかけたまま、それを忘れてしまっていたのだ。
祖父が焦げ臭い匂いに気づいて、大事には至らなかったが、私の両親はさすがに祖母に料理をやめるよう言った。
そして祖父はこの時、鬼のような形相で祖母を怒っていた。

「火事にでもなったら、どげんするとや!」

おばあちゃんは、おじいちゃんのご飯を作っていただけだよ。
私は祖母が可哀想でしょうがなかった。
なんでおばあちゃんは、おじいちゃんと結婚したと? 
子供の頃から、祖母に聞いてみたかった一言が出そうになる。

味噌でも漬物でも、なんでも自分で作っていた祖母。米麹から作る祖母。
そんな祖母が包丁を置いた。

私が高校受験を控えた頃になると、祖父はよくこんな話をした。
戦友の渡先生の話だ。

ガダルカナルで戦っていた時、祖父達は究極の飢えに耐えていた。皆、虫を食べ、草の根を食べていた。
ある日、渡先生は海岸に打ち上げられた大きなエビを見つけたそうだ。しかしそれを見ていた別の人が、「俺が先に見つけた」と言ってきた。そこで半分個にしようという話になるが、先ほどの彼は「俺が先に見つけたから、俺が頭の方を食べる」と言ったという。渡先生は、それでいいと言って尻尾の方を食べた。
すると、頭を食べた方の人が、そのまま苦しんで亡くなってしまったのだそうだ。

「神様は見てくれとんしゃあ。人の為にやったら、神様は見てくれとんしゃあ。そいけん、あんたが高校に落ちてもよかと。別の人が受かっとるっちゃけん」

そう、受験を控えた私に言っていた。
私は、あれだけ子供の頃から厳しかった祖父が、私にそんな話をするのが不思議だった。それに、祖父から戦時中の話を聞くのは、これぐらいだった。
祖父はガダルカナルで何があったのか、インパール作戦で何を経験したのか、私たちには語らなかった。父によると、祖父は父達にも当時の話はあまりしなかったらしい。

私が、改めて祖父の事を考えるようになったのは、祖父が亡くなって随分経ってからだった。
5年前だろうか。私は、百田尚樹氏の『永遠の0』を読んだ。特攻で戦死した祖父の事を大学生が調べていくストーリー。

私は、涙を流してしまった。
そして、同時に後悔した。

私は、祖父の何を見てきたのだろうと……。

私は、祖父がノートに書き記していた文字を思い出した。
それは、私が中学生の時、夏休みの自由研究をする為に祖父がメモしてくれたものだ。祖父が戦地に居た約10年間の経緯を記したもの。詳細は書かれていない。ただ、いつどこを出発して、どこに上陸したか。そういったことが時系列で書かれているだけだ。それに、達筆すぎて所々読めない箇所がある。祖父は書がとても上手だった。力のこもった字で、今でもその紙切れは、裏側にボコボコと文字が浮き出ている。
今改めて見ると、とてつもなく貴重なメモだ。それなのに、当時の私は「センソウ」と言われてもあまりピンと来なかった。だから、真剣に祖父の人生を捉えきれなかったのだ……。

私は、『永遠の0』を読んで初めて、祖父が残してくれたメモと向き合うことにした。初めて、達筆すぎる祖父のメモと、ガダルカナルの戦いやインパール作戦についての本を照らし合わせたのだ。

文献を読めば読むほど、そこに並ぶ文字から目をそらしたくなった。文献の中に何度も出てくる『川口支隊』と『歩兵124連隊』という文字。祖父のメモの中にも、同じ文字が出てくる。
とてつもない激戦地、太平洋戦争において特に悲惨だった、最悪の戦場だったとされる戦地。文献と照らし合わせるほどに、祖父が居た戦場がとてつもない場所だったことが分かる。

祖父のメモには、昭和18年2月7日に『ガダルカナル島を海軍より援助される』と書いてある。そして、コメ印でこうも記してあった。

『※歩兵124連隊3,600名位の内、3,100名以上戦死』

祖父は、この歩兵124連隊に居たのだ。500名ぐらいしか生き残れなかった、この連隊の中に。

その後も、ニューブリテン島、パラオ、マニラ、ベトナムと転々と移動している。さらに翌年の昭和19年には、ベトナムから、カンボジア・タイ・マレーと移動しビルマに上陸。インパール作戦だ……。

そしてその翌年、昭和20年8月15日。祖父はビルマで終戦を迎えた。

『ビルマにて終戦まで、英・印度と毎日激しい戦争で終戦になる』

その後、昭和22年5月までビルマにて英・印度の労役に従事し、最後の引き揚げ船に乗れたようだった。

私の父が生まれたのは、昭和29年だ。
父が生まれるたった7年前まで、祖父はあの悲惨な地に居た。
それなのに、祖父は何も語らなかった。この悲惨な戦場のことを何も語らないまま逝ってしまった。

ただ祖父は、幼い私たちを陸軍墓地へ連れて行き、そして掃除をさせた。
夏の暑い日に。
そして、墓前に手を合わせる。
それだけだった……。

私は、なぜ自分の中で、こんなにも家の庭の思い出ばかり鮮明に残っているのかと考える。学校の事はコマギレにしか記憶がないのに、庭の記憶と祖父が傘をさしている記憶は鮮明に覚えている。茎が弱い花に添え木をする祖父。夏の夕方、花達に水をやる祖父。
今でも、ありありと思い出せる花達の色や匂い。それに、ぐにゃりと崩れていく牡丹。首から落ちていく椿。

しかしそれは、祖父が可愛がっていた花達だった。
そして、祖父は祖母の為に、あの花達を健気に面倒見ていたのではないかと思うのだ。
本当は、祖母が植え始めた花達だった。チューリップも水仙も、彼岸花も牡丹も椿も、最初は祖母が大好きな花達だったはずだ。

あんなに祖母にガミガミと怒鳴り散らしていた祖父なのに、しかし祖母が大好きな花達を、祖父は一人で黙々と世話をしていた。

祖父は……。
多くを語らなかった祖父は、あの戦地から生きて戻り、そして祖母と結婚し、この庭に何を見てきたのだろうか。

ガダルカナルを必死で生き抜いたのも束の間、その後インパール作戦に従事し、捕虜として2年間ビルマのジャングルで過ごした祖父。
最後の引き揚げ船に乗れた祖父。
しかし、10年ぶりに戻ってきた博多の街は、福岡大空襲で焼け野原だったはずだ。そこから戦後復興を目の当たりにしてきた祖父。

祖父は……。
祖母に対して、「愛の言葉」なんて並べてこなかった人だ。ただ、私は自分がこの歳になって思うのだ。

祖父があの日、雨の中、祖母の花に傘をさしていたのは……。
それは紛れもなく、祖母への愛だったのではないかと思うのだ。
祖母一人では、あの庭を維持できなかったはずだ。祖父は、死と向かい合わせの世界から戻り、そして祖母と出会い、こうして祖母の花を可愛がることで、何かを成し遂げようとしていたのではないかと。

私は、厳しい祖父が嫌いだった。
それなのに、私の中で、この庭で花の世話をしていた祖父の記憶が消えることはない。
大嫌いだったのに。
祖母を鬼の形相で怒鳴っていた祖父が、大嫌いだったのに。

それなのに、私はこの庭の祖父の姿から逃れられないのだ。

そして、32歳を目前にして、やっと心の底から思うのだ。
私は、この庭に祖父の愛を見ていたと。

ねじ曲がった愛情表現しかできなかった祖父。
怒鳴り散らしていた祖父。

しかしやはり、私の愛の原風景はこの庭にある。

私は、祖父の人生を書き記すことができなかった。私の手元に残っているのは、たった2枚のこのメモだけ。正確に日にちまで記してある、このメモ。
でも、祖父は私の中に、どうやら「愛」を残してくれているようだ。彼の血が通っている私は、彼が残してくれた「愛」を表現できるのではないかと思うのだ。祖父の人生を記すことはできなかったけれども、ただいつか、彼をモデルにしたものを書きたい……。

だから、これからも、「愛」を書いていきたいのだ。

***
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