プロフェッショナル・ゼミ

夜の大人のベビーシッター《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:石村 英美子(プロフェッショナル・ゼミ)《フィクション》

パリーーン!!

ワイングラスが砕け散る音がした。テーブル席にいた客の一人がカウンターに向けて持っていたグラスを投げつけたのだ。
店主の頭上、ちょうど酒の棚より少し上の、漆喰の白い壁に、赤ワインの跡が僅かに付いた。L字のカウンターの端にいた私の手元にも、その破片は降って来た。

「笑うなって言いよろうが!!」

その男の声は裏返り、まるで子供がダダをこねているようだ。店主はカウンターの中で身動ぎ一つしない。少し驚いたような表情だが、口元の笑みはそのままで、客の男を見ている。奥のキッチンからアルバイトのユカちゃんが私に、口の動きだけで「だいじょうぶですか」と訊いた。私は片眉を上げて返事をした。「いちおう」

酔客は四人組だった。激昂している彼は、シゲさんと呼ばれていた。あともう一人、幇間(たいこ)持ちのような声の大きな男と、キレイな女の人が2人。女の人らは明らかに夜のおねえさんだ。

カウンターに散らばるグラスの破片を灰皿につまみ入れながら、脳内ドライブレコーダーを急いで再生させた。

福岡の今泉にあるビルの4階に、そのバーはあった。4階建の建物にはエレベーターの設置義務はない。客らはその何度も塗り直された階段の手すりを頼りに、わざわざ登ってくる。私が店に入り30分くらい経った頃、店のドアが勢いよく開いた。

「いらっしゃい」
「ブチくん、あれやね。毎回言いよるばってん階段……キツかね!」
「すんません、ありがとうございます」

シゲさんは、大げさに息を弾ませて言った。店主を名前で呼ぶあたり、けっこうな常連なのだろう。私も何度か見かけた事がある。少し遅れて幇間持ちと女性2人が入ってきた。

「ブチくん! 久しぶり! 元気!?」
「お久しぶりです。おかげさまで。あらまー、今日はキレイどころとご一緒で」

幇間持ちも知り合いのようだった。というより、私もこの人は知っている。地元の深夜番組に出ているタレントさんだ。ミキサー泣かせに声がでかい。そしてテンションが高い。落語で言うところの花魁(No.1)、振袖新造(見習い)、幇間のような風情の三人は、シゲさんという旦那に連れられて、いわゆる「アフター」というやつだろうか。新造は「わぁーすごおい。こんなお店来るんですねぇ、すごおい、かっこいい」と本気なんだか計算なんだか分からない言い回しで、すごいを連発している。シンプルな間接照明のこの店は調度品もシンプルで、別段すごいことはないだろうとは思うのだが、夜のお姉さんは「すごい」と「かっこいい」を10割増で言わなければならないので職業病と言えるかも知れない。

四人組はテーブル席に通されると、一通りカクテルやビールを飲んだ後、赤ワインを注文した。ブルゴーニュはなで肩、ボルドーはいかり肩。ボトルの形状についてシゲさんはうんちくを垂れた。店主のブチくんは「正解!」などと言い、新造はまたしても「すごおい」とピンク色の声を上げた。ボルドーがいかり肩な事ぐらい、私を含めおそらく全員知っていたが、ここはもちろん「すごおい」が正解だ。新造、あんたは正しい。シゲさんは上機嫌だった。

「今ね、南半球のワインの方がいいっぜ」
「南半球?」
「あんた南半球も知らんとね」
「知ってますよぉ。赤道より下でしょう?」
「ちょっ待って、上やら下やらってことや無いったい」
「あれ? 違いました?」
「それは、あんたが北半球に住んどって、やけん上になっとる地図ば見るったいね。オーストラリアの地図は南極が上になっとるとよ」
「え? 逆さまなんですか?」
「だけん、どっちが逆さまとか無いと。あんたなかなか自己中やねー。なんでも自分が知っとる事が当たり前と思ったらダメっちゅう話」
「すごおい、考えたこともなかった! 勉強になるぅ」

新造、あんたやるな。シゲさんはますます上機嫌だ。幇間持ちが大げさに「いやー、面白い上にタメになるってどんだけなんすか!」と言った。声の大きさが白々しさを増していたが、当人はそう思ってないようなのでよしとしよう。それよりシゲさん、南半球の話はどこへ行った?

「この間のチリのワイン、あれ良かったよね」

花魁が口を開いた。思ったより低い声だった。

「そう、それたい! こないだ飯食うたところで出たワインが美味かったったいね! でも値段は安いと! あれ幾ら位やった?」
「1万円しないくらいだった」
「そんなもんやったろ? で、店の人に聞いたったい。なんでね? って。昔は安もんやったやん、チリワインやら。何でと思う?』
「いや、分かんないっす」
「あのね、チリやらオーストラリアもワイン作り始めてもう長いけんね、昔よりずっと良くなっとるんやって!」

うん、なんだ、意外と大した話ではなかった。耳をそばだてて聞いてて損した。新造はまた「すごおい」を乱発している。よせ、インフレ起きるぞ。しかし、ここで私が注目(注聞?)したのは、花魁の方だ。口を挟むタイミングと、言葉数の絞り込み方がプロだ。いや、まぁプロなんだけど、格の違いを感じさせる。やるぞこの女、やりおるぞ。この後も、放っておいたら、どこまでもとっ散らかってしまうシゲさんと新造、幇間の話を、あくまでさりげなく修正し誘導し、最後にはシゲさんの話が上手いかのように着地させている。

この後も、この四人のくだらなくも罪のない会話は続いた。
四人組は2本目のワインを頼み、私も飲み物を注文した。私がお手洗いから戻ってくると、子供の頃の話になっていた。幇間は子供の頃から、いや赤ん坊の頃から声が大きかったと言う。そりゃそうでしょうよ。そして、通信簿には「元気がいいのは良いのですが」と言う注釈が必ずついたダメ出しがあったそうだ。そんな幇間の地声の大きさを、シゲさんは羨ましいと言った。

「部活やらするやん? で、声が小さいって言われるったいね。けっこう一生懸命叫びよるとよ? でも気合が入っとらんって言われるったいね。あんた気合入れんでも声の大きかろ?」
「だって小さい声やら出らんですもん」
「うらやましかぁ」
「いやいや、シゲさん位がちょうどいいんですって。あんまり声でかいと周りにまる聞こえですしね」

はい、まる聞こえてますよ。

「ばってん、あんたそれ才能よ」
「いやいや、マイク使うから関係ないと思いますけど」
「よか声やしね」
「いや、そんなことないですって」
「よかって言いよるやろ」
「いやいやいや、ほんとそんなことないですって」

幇間、そろそろ引きなさいよ。おばちゃんの一万円札みたいになっているぞ。どっちかが引かないと終わらないやつだぞ。そこで花魁が言った。

「それぞれ丁度いいようになってるんじゃない?」
「丁度いい?」
「シゲさんはシゲさんの仕事に合った声、彼は彼の仕事に合った声だと思うよ」

よし、花魁さすがだ。ところが新造が話を蒸し返した。

「わたし、シゲさんの声ってかわいいと思うんですよぉ」
「お? かわいいやら初めて言われたばい」
「え? かわいくないですかぁ? なんかちょっと鼻にかかって甘えてるみたいでかわいいですよね」
「あー、そういえばそうかも知れないっすね。いや、そういえば初めて合った時に、この人風邪引いてるのかな? ってちょっと思って、しばらくして、あぁ地声か、って思ったんでした」
「そげん思っとったったい」
「ですよね、かわいいですよね」
「なんか、キャラクターで居そうっすよね」
「え? 何のですか? アニメとか?」
「そうそう、日本のじゃなくてね、ピクサーとか、なんかそんなやつ」
「そんなやつじゃ分からないですよもう! テキトーすぎ!」
「何だっけほら、動物のやつ!」
「ズートピア?」
「そう! それ!」
「の? 何ですか?」
「分からん」
「ヤダもう! テキトーすぎ! あはははは!」
「あれー? 居なかった? なんかこう鼻声のさぁ」
「笑うな」
「て言うか、見ました? ズートピア」
「うん、見てない」
「うっそ! あははは! もうほんとテキトー! 」
「あははは! ごめんノリで言った」
「ちょっともう面白ーい! あはははは」
「笑うなって言いよろうが!!」

パリーーン!!

ワイングラスが砕け散る音がした。
ガラスの割れる音は、全ての人の思考と行動を停止させる。シゲさんがワイングラスを放った右手は、中空で保留になったままだ。テーブルに付いている反対側の手は花魁が掴んでいる。店主のブチくんは、バイトのユカちゃんをさりげなく奥へ引っ込めた。ユカちゃんは奥のキッチンから私に、口の動きだけで「だいじょうぶですか」と訊いた。

「そげん……、そげん言わんでよ。気にしとっちゃけん」

シゲさんの声はトーンダウンしていた。幇間は目だけキョロキョロし、新造は両手を顔の下でぎゅっと握り、往年のぶりっ子のポーズのまま固まっている。沈黙は続いた。10秒にも20秒にも思えたが、おそらく実際はそんなに長くなかったはずだ。花魁が静かに言った。

「もう遅いけん、二人とも帰り。またね」

静かだが、有無を言わせぬ圧力があった。幇間は一拍置いて、急に動き出した。それが一番いいと判断したのだろう。そそくさとカバンと上着を掴み、新造を促すと挨拶もそこそこに帰って行った。新造はドアを潜りながら「おやすみなさい」と言った。寝れるわけないだろう。花魁はシゲさんを座り直させると、肩から手を離さず言った。

「今のは……いかんかったね」
「……」
「自分でも、いかんかったって思ってるやろ?」
「……」
「お店にも迷惑やろ?」
「……だって、嫌やったんやもん」
「何が」
「鼻声鼻声って、子供の頃から言われて笑われよって嫌やったんやもん」
「シゲちゃん、もう子供やないよね。いくつね?」
「39」

おっと年下だ。

「やったらさ、言わんでって、気にしとるからって、そういえばいいやん?」
「ガマンせないかんと思ったんやもん」
「ガマンしきらんのに、ガマンしようとしてこげんなったと?」
「こげんなった」
「……明日、ちゃんと自分で謝りきる?」
「謝る。ちゃんと謝る」
「もうせんって、約束できる?」
「約束する」
「じゃ、ごちそうさまして帰ろうか」
「うん」

…………子供か!!!!!
そして母か!!!!!!!
シゲさんは涙声でグスグス言っていた。まごうことなき鼻声になっていてそれが可笑しかったが、絶対に笑ってはいけないのでプルプルと腹筋が震えた。

シゲさんがどのタイミングで機嫌を悪くしたのかはよく分からなかったが、そもそも「鼻声」がNGワードだったのだろう。おそらく花魁も、あそこまで急速にご機嫌が悪くなるとは思わなかった為、軌道修正が間に合わなかったのだと思われる。花魁は立ち上がり、クロコの財布から一万円札を2枚出しカウンターに置いた。

「足りる?」
「あ、今お釣り銭を」
「いいから。さ、帰ろう」
「……ブチくんごめんね」
「あぁ、いや」
「また来ていい?」
「そりゃもう」
「二度とせんならいいって」
「わかった。もうせんけん。ごめんね。ブチくんほんとごめんね」

シゲさんは腕を支えられたまま、ごめんねを繰り返しながら階段を下って行った。店主も一緒に二人を下まで見送った。シゲさんは、思っていたより酔っていて、ハイヒールを履いた花魁だけでは心もとなかったからかも知れない。ユカちゃんが、今度は音声付きで言った。

「大丈夫ですか!? 石村さん!」
「とりあえず大丈夫だけど、急だったね!」
「ねー! 気がついたらもうね!」
「いつもああなん?」
「さぁ、私は初めて見ました」
「あぁ、そう。なんか、酔いが冷めたね」
「あ、作り直しますね。ガラス入ってるかも知れないし」
「ありがと」
「いやーーーーー!! おおごとしたね!!!」

店主が戻って来た。

「なんか、子供みたいな人だったね」
「うん、社長さんなんやけどね、あるんやろね、色々ストレスが」
「つか、あの女の人すごかったね」
「そうね、さすがやね」
「ごちそうさまして、って……」
「それオレ、吹き出しそうやった!」
「ホステスは大人のベビーシッターっていうけど、本物やったね」
「本物ほんもの!!」
「頑張った。みんな頑張った!」

店主のブチくんとユカちゃんと私で、笑いながらもう一杯だけ飲んで帰った。たくさん笑った。緊張の後の弛緩は、笑いの構造の基本だ。

これは、ある晩の、あるバーで起きたことのほんの一時間くらいの出来事だ。何の教訓もない。何の気付きもない。でも、この晩のことが忘れられない。シゲさんの有頂天で話す様子と、子供のように不機嫌になる様は、ただみっともないだけかも知れない。でも、これが人なのだ。普段は抑え込んでいる感情を、アルコールがこじ開けてしまうのか、または増幅させるのか分からない。今回のように謝って何とかおさまる事ばかりでもないだろう。私は、こういう少し「たが」が外れてしまった人物が愛おしくてたまらない。迷惑だけど。

次にこのバーに行ったのは、ひと月ほど経ってからだった。そこで後日談を聞いた。
シゲさんは、またやっちゃったらしい。何かで激昂して、今度は自分のカバンを投げたそうだが、斜めがけのストラップが引っかかってモロ自分の顔面に食らい、鼻血を出したそうだ。でもまた花魁に諭され、泣いて謝るので出禁にはしなかったとのこと。

ああ、シゲさん。残念なシゲさん。
私はまたあなたに会いたい。いや、会わなくていいい、カウンターの端でこっそりあなたの姿を生き様を、そしてお世話される様をまた見せて欲しい。

***

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