スマホがなかったあのころ、たった一時間の体験で私が味わい尽くしたもの
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:あおい(ライティング・ゼミ)
「もしもし、山田さんのお宅でしょうか? わたし中村と申しますが、洋一さんいらっしゃいますでしょうか?」
「はい、ちょっとお待ちください」
受話器を置く音。「ああ、またお母さんだ……」
夜9時に電話するって言っているのに、いつもお母さんが出る。毎日のように電話かけてきて、この子は息子に何の用事? と思われていないだろうか? そんな思いが頭をよぎる。
たった1,2分のこの間が長い。しばらくすると、階段を駆け下りる音。
「もしもし」聴き慣れた洋一の声。
「もう! 電話するっていうてるのに、なんで出てくれへんのよ!」
私はそう言いながら、廊下にある黒電話のコードを、伸びきってちぎれてしまうかと思うぐらい隣の部屋まで引っ張り込み、電話機のコードの隙間だけを残して、すりガラスの引き戸を閉める。
暖房もない物置部屋で、ヒソヒソ声で話し始める。
寒さで足が冷たいけど、そんなことは気にしていられない。
そのままかれこれ一時間。
急にガラっと引き戸が開く。「いつまで喋ってるの?」といいたげな母親の目がそこにある。
電話の向こう側の洋一に「ちょっと待ってね」と言いながら、受話器を押さえ、こちら側にいる母親に「もうすぐ切るから」とつげる。
そう言いながらまた10分、20分と過ぎていく。
「いい加減にしなさい」と母親のかみなりが落ちて、
「じゃあ明日、いつものところで11時に」それだけ言って私は仕方なく電話を切った。
1985年の冬。洋一と私は大学2年生だった。バイトで知り合って付き合うようになってから3ヶ月。普段はバイトで顔を合わせるから、改めてデートするのは週に1回程度。明日はそのデートの日だ。
私は待ち合わせに遅れたことがない。それはデートに限らず誰と出会う時もそうだった。私の辞書には、人を待たせる、という言葉はなかった。だからどんな時でも待ち合わせの時間よりも早めに到着して相手を待つ。それが当たり前のことだった。
その日も、11時の待ち合わせより10分早くいつもの場所に到着した。洋一はまだ来ていない。毎度のことだ。あいつは時間にルーズである。5分、10分の遅刻は日常茶飯事。それでも、待たせるより待つほうが気が楽だった。今からだと20分は待つことになるだろうな、と思いながら、読みかけの文庫本を取り出し、腹をくくって待つことにした。
11時。文庫本から目を上げて、辺りを見回してみるが、洋一は来ていない。
うん、まあそうよね、時間通りには来ないよね。また本に目をやる。
11時10分。まだ来ない。また本に目をやる。目は文字を追っているが、内容が頭に入ってこない。
11時20分。改めてじっくりと周りを見渡してみた。洋一は見つからない。
そこでふと思う。
もしかして寝坊した? いや、それともなにかトラブルに巻き込まれた?
いったん考え始めると、不安の妄想は止まらなくなる。
家に電話してみようかな? とりあえず家を出たかどうかだけでも確認したい。家を出ていればそのうち来るだろう。もし来る途中で何かあったのなら、家の人に伝言してくれているかもしれない。
でも公衆電話を探している間に来てしまったら、入れ違いになるし……もしかして、違うところで待ってたりする? いつもの場所ってほんまにわかってるかな? ちょっと探しに行ってみようか? いや、やっぱり変に動かないほうがいいよな。ああ、どうしたらいい…‥
そんな葛藤を繰り返しているうちに、不安マックスに。
時計の針は12時を指している。待ち合わせの時間から一時間経過。
もう帰ろうか……そう思ったとき、見慣れた顔がこちらに向かって走ってくる。
申し訳なさそうな顔をした洋一の口から出てきた言葉は、想像だにしていなかった言葉だった。
「ごめん、パチンコが大当たりして終わらなくて……」
はあ? パ・チ・ン・コ? デートの前にパチンコ???
私はのけぞって倒れそうになった。
「待ち合わせまでちょっと時間があったから、ちょっとだけ、と思って……」と洋一。
はあ? なにその、気合の入ってなさ。信じられへん!!
ありえない、ありえない、ありえない。
私はココロの中でつぶやきながら、無言で立ち尽くしていた。
洋一は遅刻の常習犯だ。これまで私より先に来たことはまずない。寝坊したとか、急におばあちゃんを駅まで送って行くことになったとか、本当だかなんだかわからないような言い訳がこれまで何度もあった。その度にムッとしながら、それでもまあ許してきたけれど、今回ばかりは腹の虫がおさまらない。
「デートよりパチンコの方が大事なわけ?」私はくいつくように言った。
「いやそういうわけじゃなくて……大当たりしたらやめられへんねん……」
知らんがな!!
私はパチンコをしたことがないから、そのおもしろさがわからない。そもそもギャンブルというものは、元締めが勝つようになっていると思っている。だから一般人がいくら頑張ったところで、結果的には負けると思っているから絶対にやらない。
ただ他人がやることに関しては、本人の自由だと思っている。洋一がパチンコ好きで、これまでも勝った負けたと一喜一憂しているのも知っている。負けてそんなに落ち込むんならやめればいいのにと思うけれど、それを取り戻そうとしてまた行く。せっかくバイトで稼いだお金をつぎ込んでしまう。でもまたあるとき勝ったりするからやめられない。トータルすると間違いなく損してるよな、と思うけれど、まあ本人がそれでいいのなら別にいいや、自分には関係ないし、とこれまでは思っていた。
が、関係大アリじゃないか!!
私の怒りは収まらない。
「デートの前に行く? しかも大当たりしたらやめられへん、ってわかってて行く?」
「いや、ちょっとだけのつもりで……」
おい、待てよ、ちょっとだけのつもり、なおかつ大当たりしたらやめられないとわかっている、ということはだよ、大当たりしないという前提で行ってるってこと? だとすると、負けるつもりで行ってるってこと? アホちゃうか。
呆れて開いた口がふさがらない。
今まで何度も何度も待たされて、それでも許してきたけれど、今回ばかりは許さない。
「ごめん、帰るわ」
そう言って、私はくるっと後ろを向きその場から立ち去った。
取り返しのつかないことをしてしまったということに、やっと気づいた洋一の顔が一瞬視界に入ったけれど、それを振り切って走った。
走りながら、泣いていた。
何が悲しいのかわからない。
待たされたこと?
自分よりパチンコを優先したということ?
そんなやつを好きになった自分が腹立たしい?
その日の夜、洋一から電話があったけれど、私は居留守を使って電話に出なかった。
その翌日、バイトで顔を合わせたけれど、目を合わせることもなく、ひとことも会話をしなかった。
洋一がものすごく落ち込んでいるとバイトの仲間から聞いたのは、それから2日後だった。
あんたの怒りもわかるけど、一度ちゃんと話を聞いてあげたら? という友人の勧めで、私は洋一とバイトの帰りに一緒に帰ることになった。
洋一は猛烈に反省していた。
もう待ち合わせには絶対遅れないこと、
夜9時の電話にも出るし、
そしてパチンコは二度とやらない
だからもう一度やり直したい、と言ってきた。
そう、私も嫌いになったわけではないんだよね……
悩んだけど、今回だけ、と言って洋一を許すことにした。
とはいえ、一度亀裂が入ったふたりの関係は、そう簡単に修復するものではなかった。
私とやり直すために3つのノルマを自分に課した洋一は、それを守る代わりに、私にも条件をつけてくるようになった。
こんな服を着て欲しいとか、こんな髪型にして欲しいとか、初めは私のことを大事にしてくれているからだと思って、洋一の言うとおりにしていたけれど、そのうち他のオトコとしゃべるなとか、ひとりで出歩くなとか、洋一の要求がエスカレートしてくるのに気づいていた。
だんだんと窮屈さを感じるようになってきて、さりげなくそのことを洋一に訴えたけれど、自分も我慢しているんだからお互いさまだと言い出す。
気づいたら、けんかが絶えなくなっていた。
黒電話のコードを引っ張って、物置小屋に引きこもりながら電話をすることも少なくなっていた。だんだんとふたりの間に溝ができていく。
そのうちバイトで顔を合わすのも辛くなって、私はバイトも辞めてしまった。
結局、修復は不可能だった。
元のふたりの関係に戻ることはもうなかった。
—————————-
「明日いつものところで11時に」
「りょうかい」
洋一からのLINEの返事はいつもこれだ。
もう少し気の利いた返事はないものかと思うけれど、それでも既読がついたらすぐに返事をくれるからまだマシかもしれない、と思う。
翌日、いつもの待ち合わせの場所に11時10分前に到着。
すると、洋一からすぐLINE。
「ごめん、実は今、パチンコしてるんだけど、大当たりしちゃって。よかったらこっちにきて一緒にやらない?」
「ごめんなさい」のスタンプ付き。
「マジで?」「ありえない」と私はスタンプで返す。
「ごめんごめん、後で奢るから!! 美味しいもの!!」
デートの前にパチンコかよ、と思いながら、ちょっとムッとしたけれど、ちょうど見たいと思っていたドラマの続きがあったことを思い出し、「いいわ、駅前のスタバで待ってるから」とLINEした。
スマホでドラマの続きをみながら待つこと1時間。
洋一が嬉しそうな顔してやってきた。
「もう、ありえへんぐらい当たりやで! なんでも好きなもん奢るわ!」
「じゃあ、遠慮なく、神戸牛ステーキで!」と私。
仲良くスタバを出る二人。
——————————
今だったらこんな感じなのかな、と私は娘と彼氏のやり取りを横で見ながら、あの時のことを思い出していた。
娘に「彼氏とどこで待ち合わせ?」と聞くと、「テキトー」という返事が返ってくる。
そうか、スマホがあれば適当でも会えるんだな、と改めて思った。
あのときスマホがあったら、もしかしたら洋一と別れることはなかったのかもしれない、と思う。いやどちらにしても、遅かれ早かれ別れていたのかもしれないとも思う。つい先日、風の噂で、洋一は大企業の取締役になり、何万人もの部下の先頭に立ってバリバリやっているという話を聞いた。遅刻常習犯でパチンコすらやめられなかった洋一が、偉そうに部下に指示している姿はどう考えても想像がつかない。人って変わるのね、と思いながら、今となっては手が届かないほど遠い存在になってしまった洋一のことを思い出したとき、デートはいっぱいしたはずなのに、それらはほとんど記憶になくて、思い出すのはやはりあの時の待ち合わせの場面だったのだ。
私はあの時、何が悲しかったのだろう?
スマホがなかったあの時代。家族に気を遣いながら家の電話でコソコソと電話をしていたあの時代。洋一と気兼ねなく話せるのは、実際に会うしかなかった。
今みたいに、「バイバイ」といって別れた瞬間に、LINEしたり、ビデオ通話したり、いつでもどこでも繋がって話すなんてことはできなかったから。会うしかなかったのだ。
待ち合わせ場所で洋一を待ちながら、やっと会えるという気持ちがどんどんと募っていく。それは会いたくても会えない時があるという切ない気持ちがあるからこそだった。待つ時間が長くなればなるほど上がっていくボルテージ。それを抑えるかのように、何事もなかった様子で立っている自分を少し滑稽に思いながら、相手もきっと同じ思いに違いないと思いながら待っていたあの時。
ところがそのころ、洋一はパチンコのことで頭がいっぱいだったのだ。
二人は同じ思いだと思っていた。同じ山の頂に一緒に立っていると思っていたのに、洋一はずっと下の麓にいた。私はそれが悲しかったのだ。自分だけが舞い上がっている。それに気づいたとき、私は山から転げ落ちるように興ざめしてしまった。
あんな別れ方が良かったのか悪かったのかはわからない。
でも今私はこう思っている。
あの時のような体験は、もう二度とできないだろうと。
なぜなら、今ではもう味わうことのできないさまざまな感情を、たった一つの体験で一度に味わうことができたからだ。
待ち合わせの場所に向かう時のドキドキ、ワクワクした高揚感、なかなか来ない相手を待っている時のあせりや、心配、不安な気持ち、そして自分の思いを裏切られたと感じた時のやるせなさ、悲しさ、寂しさ、まるでおもちゃの缶詰のように様々な感情が入り混じった思い、それらをたった一時間ほどの体験で味わい尽くすうことができたのは、パチンコ好きで遅刻常習犯だった洋一のおかげ。
そして何よりも、スマホという文明の利器がなかったからこそなのだ。不便だったからこそ手に入れることができた貴重な体験だったと今は思う。
朝起きればまずスマホ、どこに行くのもスマホを離さない、完全にスマホ中毒になっている今の私。知らない間に大事な感情をどこかに置き忘れているのかもしれないと思う。
あの時と同じ体験はできないかもしれないけれど、これからの人生の中で、できるだけさまざまな感情を味わい尽くしてみたいと思っている。
なぜならそれが人生を豊かにしてくれる、お金では買えない、自分だけの宝物だということを知っているから。
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