耳が聞こえない野間口さんに毎日「いたずら」が行われていた職場の記憶《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:石村 英美子(プロフェッショナル・ゼミ)
野間口さんは全聾だった。彼女は全く耳が聞こえなかった。
しかし彼女にとってあまり不都合は無かった。その職場はいわゆる流通業で、就業時間中は轟音でローラーコンベアが稼働し、それぞれが黙々と作業している。何かイレギュラーでもないと話す必要が無いのだ。逆に、耳が聞こえる我々はその音がストレスだったので、羨ましくさえあった。
私を含むほとんどは派遣社員だったが、野間口さんは雇用枠が別だった。詳しくは知らないが、契約社員の中でも、ある一定数、障害がある人を雇用するよう指導されているらしく、彼女はそういう枠での契約社員だった。野間口さんの他に、足がやや不自由な男の子もいた。
中央埠頭にある流通倉庫群の中に、その建物はあった。いくつかの会社がそれぞれのフロアを借りていたが、私が勤めていた会社はある程度名の通った大きな会社の流通部門で、10階建ての倉庫ビルの半分くらいを占めていた。
その会社の製品を、九州ブロック全ての販売店に出荷するのが我々の業務だった。他のフロアでは、綺麗な制服を着た若い女の人たちがパソコンで注文処理をしていたが、我々はジャンバーを着て滑り止め付き軍手はめ、轟音の中で作業した。出荷する商品が足りなくなると、フォークリフトや台車を駆使し、パレットと呼ばれる商品ダンボールの山を切り崩して、毎日肉体労働をしていた。
私が配置されていた部署は、結構な重労働だったにもかかわらず、ほぼ女性だった。「丈夫なだけが取り柄です」的な、体育会系の女たちばかりだった。皆、さっぱりしていて気持ちが良かった。でも、野間口さんは当初、この部署に来るのを嫌がっていたそうだ。確かに仕事内容はきついし、私と違ってパソコン入力が出来ないわけじゃない。後で分かった事だが、野間口さんは凄まじく入力が早く、そして正確だった。なのに通称「電算室」ではなく「出荷フロア」に配属されたのか。それは、どうやら野間口さんに問題があったからだ。
野間口さんは、人に注意されることを極端に嫌い、何か意見をするとすぐ「ぷい!」とむくれてしまうのだそうだ。処理も正確で記憶力も良いが、それでも完璧なわけではない。それに、耳が聞こえない彼女には「話のトーン」が分からない。注意をする側もそう思って緊張してしまうので、顔もこわばっている。通常の会話なら自然と挟んでいるクッション言葉、例えば「ごめんけど」とか「次からでいいけど」とかが、メモ帳の筆談だと挟まって来ない。ますます彼女は責められた気持ちになり、むくれてしまう。ひどい時は居なくなったりしていたそうだ。
子供じゃないんだから「居なくなる」はないだろうと思うが、数少ない正社員のが主任が「いいよ、野間口さんは」と放っておいたそうだ。そのうち、どうしても必要な時以外は、彼女に話しかける人は居なくなった。野間口さんも、いつも口角を下げ、むっつりと、しかし正確に仕事をして居たそうだ。なんというか、完全にスポイルされていたわけだ。
今回、出荷業務がシステム管理化される事になり、社内で再編された出荷チームで初めて野間口さんと同じ部署になった時には、はっきり言って「嫌だなぁ」と思った。20年選手で孫もいるような先輩社員にさんざん前情報を吹き込まれて居て、特に野間口さんについてはどうしたものかと思っていた。
思っていたのに。私と野間口さんはバディを組む事になった。二人組で、いくつかの管理当番を回していくのだという。まじか。でも仕事なら仕方がない。そう思って野間口さんを見ると、向こうからピョコピョコ駆け寄って来て「よおしく」と挨拶された。私も「よろしく」と言ってみた。すると野間口さんはニカッと笑った。
おかしいな。聞いていたのと感じが違う。でも、喋るのは今日が初めてだし、さすがに向こうも社会人なんだから挨拶くらいはするのだろう。その後、振られた当番について少し話したが、野間口さんはある程度喋れた。発語は不明瞭だが、記録用のノートが要るという話の後に「あひたゆうもんしおきあす」と言われたら、明日注文してくれるんだなと分かる。こっちはお願いしますと言えばいい。込み入った事以外は大きめに口を開けて言えば、唇を読んでわかってくれる。
なんだ。思ったより上手くいきそうだ。
ただでさえ、人とのコミュニケーションには気を使うのに、野間口さんは耳が聞こえない分、余計に気を使うと思っていた。私は全聾の人とがっつり仕事をした事がなかったから、気負いすぎだったのかも知れない。
ところが。野間口さんがぶんムクれる事件が起きたのはその数日後だった。
手違いで主要品目の入庫が遅れ、届くまで出荷作業が出来なかった。例えば1件の出荷に「商品Aが45個、商品Bが32個、商品Cが……」というふうに指定数をピックアップして数量検品され梱包するのだが、システムで計算された出荷箱の数の中に全て同梱するように決められているため、商品Aが無ければ全てストップしてしまう。チームリーダーの男性は入庫を待ってからの作業を主張したが、数人はその品目だけを歯抜けの状態にして少しでも始められないかと主張した。
その頃、売り上げを伸ばしていたその会社は、想定を超える出荷・注文量をこなしていた。毎日残業になり、合言葉は「今日中に家に帰ろう」だった。私も、少しでも作業を進める方に賛成だった。しかし「誤量」と言われる、出荷数(または品物)の間違いが一度起きると、誤量に関わった人は注意だけではなく反省文を書かされ、リーダーも連帯責任になる。イレギュラーは避けたい様子だった。
野間口さんは、せめて商品Aが含まれていないものだけ、出荷レーンを回せばいいのではとリーダーに進言したそうだ。私はその場にいなかったので、やりとり自体は聞いていないが、他の子に聞いたところによると、リーダーはそれも却下した。理由は出荷ファイルを選り分け無ければならないから、だそうだ。しかし彼女はそれを聞かず、山と積んだファイルに目を通し、選り分け始めた。気が弱いんだか強いんだかわからないリーダーは「ダメです。やめて下さい」と何度か言い、それでも作業を続ける野間口さんの手からファイルを取り上げたそうだ。
野間口さんはキレた。机にあったクリップボードの山を手で払って投げ落とし、どこかに行ってしまったそうだ。私が戻った時には、場になんとも言えない空気だけが残っていた。小声で「どうかした?」と聞くと、20年選手は「またやったとよ」と言った。リーダーは「僕、やめて下さいって言ったんですけどね、やめないから」と言ったが、どうやら本当に耳が聞こえない野間口さんに「言った」だけのようだった。こいつ……と心の中で舌打ちした。
野間口さんは休憩室に居た。一応バディを組んでいるのは私なので、話しかけようとした。しかし先に別の子が駆け寄って行った。木田さんという女の子だった。木田さんは、小さい子供にするように野間口さんの前にしゃがみ、下から見上げるように話しかけた。
「だめじゃん、あんなことしたら」
野間口さんは答えなかった。木田さんは遠巻きに見て居た私を、ちらりと見て続けた。
「石村さんも困ってるよ」
それでも野間口さんは答えなかった。私は曖昧に笑って近くの椅子に座った。木田さんはそのまま続けた。
「ねぇ、みんなのためにしてくれようとしたんやろ? 毎日残業でしんどいもんね。早く帰りたいよね。気持ちは嬉しいよ。ありがとう。それはみんな分かってるし、多分野間口さんの方が正しいと思う。私も、できる所からすればいいって思う。でもさ、怒っちゃダメじゃない? 怒っちゃったらさ、こっちがせっかく正しいのに、正しくなくなっちゃうんだよ」
最初はムクれていた野間口さんだったが、木田さんが優しく諭すにつれ、しょんぼりした表情になってきた。
「リーダーもさ、責任があるからすぐには色々決められないだろうしさ、だってまだ一月もたってないんだよ。上手に出来ない事もあるよ。だから助けてあげなきゃ。みんなでやらないと仕事って出来ないんだよ」
確かにあいつ、ちょっと使えないところはあるが、確かに木田さんの言う通りだ。私もちょっと反省した。野間口さんはメモ帳を取り出し、何かを書き始めた。私には聞かれたくないのかな。そう思った途端、木田さんが大きな声を上げた。
「そう言うの、野間口さんの悪い所だと思う! 誰もそんな風に思ってない!」
木田さんは怒っていた。さっきまであんなに優しい口調だったのに、本気で怒っていた。その証拠に、語尾が涙声だった。野間口さんも、泣きそうな顔をしていた。何が書かれたのか、なんとなく想像できた。
程なく、インカムで商品Aが荷捌き場に着いた事が知らされた。入庫チェック係の私は、野間口さんに「行くよ」と声をかけ、エレベーターが待てないので階段を駆け下りた。一階の荷捌き場に着いた時、後ろから来た野間口さんが「ごえんなはい」と言ったのが聞こえた。私は一瞬迷って、わざとふくれっ面を作って振り向いた。野間口さんは、ニカッと笑ってくれた。
翌日から、木田さんは事あるごとに野間口さんに声をかけるようになった。木田さんは明るく皆の人気者で必ず近くに誰かいた。だから一緒に居る人も野間口さんと話すようになった。野間口さんは、実はとてもよく笑う人だという事に、皆が気づいた。
ある日、木田さんが野間口さんの仕事用手提げ袋に、みかんを入れた。そのみかんには「顔」が書いてあった。大爆笑しながら、野間口さんは私たちにみかんを見せてくれた。ぶっさいくな顔だった。木田さんはなかなかの「画伯」だった。
木田さんは「えー? かわいいじゃん!」と拗ねて見せたが、みんなが楽しく笑った事に気をよくしたのか、いろんなパターンでそのいたずらは続いた。飴の包み紙に顔が書かれていたり、野間口さんの検品レーンに流れ着く箱にダンボールアートになったその「顔」が入っていたり。私や、他の人も野間口さんにそういういたずらをするようになった。野間口さんはひな壇芸人ばりのリアクションで笑ってくれるので、こっちも仕込み甲斐があった。
そのうち、野間口さんもいたずらを返すようになった。それどころか、皆が誰かにいたずらをするようになった。毎日、誰かが何かを企んでいた。
いたずらには暗黙のルールがあった。それは「笑ってくれる」事。相手を困らせたり(時に少し困るものもあったが)、嫌な気持ちにさせるものは失格だった。例えば、置きっ放しのタバコ1本1本にポエムが書いてあったり、脱いだままにしていたジャンバーが物凄く綺麗に畳まれていたり、冷蔵庫に入れていたペットボトルにその人が好きなタレントの切り抜きが貼られていたり。
仕事はきつかった。でも毎日深夜まで仕事して、心が荒みそうな場面でも木田さんが始めたいたずらは心を和ませてくれた。その後、野間口さんがムクれる事は2度と無かった。
耳が聞こえない野間口さんと仕事をしてみて、すごいなと思った事がいくつもある。ローラーコンベアが回っている間は、10メートルも離れたら話が出来ないくらい音がうるさい。他の人は大声で叫んでも気づいてくれないのに、野間口さんは聞こえてないのに気づいてくれる。後で聞いたが、音での認識ができないので、危険回避のために一定時間おきに周りを見回すようにしているのだそうだ。また、ミーティング時に、筆談の代わりにパソコンの画面を使って会話したが、入力が死ぬほど早い。一番恐れ入ったのは、ジェスチャーの上手さだ。ローラーコンベアの轟音の中では、全員音声情報は使えない。インカムもあるが、まどろっこしいから体で表現する。野間口さんは的確かつコミカルな動きで、用事を知らせてくれる。私にとって「コミカル」というところが特にポイントが高かった。やるなコイツと思った。
この仕事の一番しんどい時期を、野間口さん、木田さんその他、力持ちの女たちで乗り切った。体はしんどくても、気持ちがしんどくなかった。それは木田さんのおかげだろう。そして、目に見えて明るくなった野間口さんのおかげでもある。
木田さんがご主人の転勤に伴って退社する事になった時、野間口さんは泣いた。おいおい泣いた。でもその頃には、野間口さんの隣で彼女を慰めてくれる人がいた。私も泣き真似をして野間口さんをからかい、バシッと背中を叩かれた。
この職場は派遣社員の契約をきっちり3年で切った。契約期間が満了し辞めて行く派遣社員を、野間口さんは見送ってくれた。私も見送ってもらった。
今思えば、いい職場だった。この頃の同僚とはまだ数人、連絡を取っている。仕事内容がしんどかったので、連帯感が生まれたのかもしれない。まるで学生時代の仲間のようにさえ思えるのだ。自分の中で、記憶はどんどん美化されつつある。
でも、この時の記憶で一番美しいのは木田さんと野間口さんが見せてくれた「人は変われる」という事だと思う。人は変わる。しかも美しく変わる。それができる。それを「事実」として、目の前で見せてくれたことを今でも、とても感謝している。
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