日常の中にいる他人《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:ノリ(プロフェッショナル・ゼミ)
それは、一人暮らしを始めたばかりの二十歳のころだった。
毎日なんとなく寂しくて、夜になると暗いことばかり考えていた。
その日も学校でつまらないことがあり、夜遅くなっても眠れずにいた。
「ドガーン!!」
ふと、アパートの外で、雷のような轟音が鳴った。
窓を開け、ベランダに出てみるが、雨は降っていない。相変わらず星空がきれいだ。
再び「ドガーン!!!」
轟音は、隣の部屋の橋本くんが、部屋の窓を全開でドラムを叩いたため、アパートの前にある建物に反響していた音だった。
「おいおい、今、12時なんですけれど」
私はあきれた。
橋本くんは同級生とバンドを組んでいた。学部が違って、どうやら一つ年が上だと聞いた。
そのせいもあって、隣の部屋とは言っても、そんなに仲が良かったわけではない。
橋本くんのドラムは、明らかに練習ではなかった。
力いっぱいにドラムやシンバルを叩きつけている。
深夜の住宅地に鳴り響く轟音。
「ちょっと! 大家さん、起きてくるよ」
「ばかじゃないの!」
そう思っていた私だったが、数分後、ドラムの音が聞こえなくなるころには、むしろ共感を覚えていた。
「何かむしゃくしゃしたことがあったのかな」
「そんな夜もあるよね」
そのあとは、すんなり眠れた。
非常識な隣人のおかげで、私はもの寂しい夜を一つ、やり過ごすことができたのだ。
私と橋本くんは、仲がいいわけでもない、言って見れば他人だ。
でも自分の日常の中にいて、不思議だけれど、支えられることがある。
そんな存在の人は、探すと結構多いことに気がつく。
「駆け込み乗車はおやめください!」
車掌に注意されて閉まりかけたドアに滑り込んできた、彼女もそうだ。
彼女は、毎朝同じ電車に乗るロングヘアの美人。
昔見たマンガのようにトーストはくわえていないものの、典型的な「遅刻しそうな女の子」だ。
朝シャワーを浴びるのが日課なのか、ロングヘアがいつも生乾きのまま、電車に乗ってくる。
「風邪ひかないのかな」
髪がそんなんだから、顔も基本はスッピン。
いつも混雑している電車だが、運良く席に座れた日に、下地からガッツリとメイクしているのを見かけたこともある。
彼女は同じ駅から電車に乗り、途中、乗換駅では見失うものの、私が会社の最寄り駅を降りて歩いていると、後ろから自転車で追い越していくのだ。
「絶対近所で働いているはずなんだよな」
私の読みは当たっていた。
日中、会社近くのコンビニでサボっていると、彼女が制服を着て、銀行へ現金バッグを持っていくのを見かけた。
いつもと違う帰り道を通ると、スポーツ用品店の事務所から彼女が出てくるのを見かけた。
毎日の積み重ねの中で、彼女の仕事内容や会社などがわかってくると、さらに親近感が湧いてくる。
ある朝、彼女はいつものように、私を自転車で颯爽と追い越したと思いきや、先にある坂の途中で派手に転んだ。
「あっ!」とっさに駆け寄ろうと思ったけれど、そんな間もなく、彼女は自転車を起こすと、重い足を引きずりながらまた自転車をこいで行ってしまった。
なんだか友達のケガを見過ごしたようなバツの悪さが残って、1日中、もやもやして過ごした。
他人なのに。
私と彼女の会社のある街は、昔ながらの卸売り会社が軒を連ねる団地で、古い会社ばかりが建つ地域だった。ラーメン店が数店と、コンビニくらいしか店がない。
街全体が、コンクリート色なのだ。
最寄り駅からは20分ほど歩くので、通勤はつらかった。彼女が自転車で通っていたのもよくわかる。
「遅刻しそうな女の子」が颯爽と自転車をこぐ様子や、仕事中に見かけたりするのは、そんな退屈な毎日の中の彩りでもあった。
彼女の日常に、私は少し支えられていたのかもしれない。
しばらくして、彼女は朝の電車で見かけることがなくなった。
はじめは気にはなっていたが、次第に忘れていった。
仕事の都合で、いつもより会社に一時間遅れで出勤するときのことだった。
いつもは電車に乗るのだが、その日は天候が悪かったため、会社の近くを通るバスに乗ることにした。
バスに乗り込むと、前の席に座る女の人の後ろ姿に見覚えがあった。
まさにあの、「遅刻しそうな女の子」だった。
彼女はバスの中で、朝ごはんと思われるパンをかじっていた。
「あ、やっぱり寝坊したんだ」
私は久しぶりに見た変わらない彼女に安心した。
そしてひざの上に乗せたバッグには、妊娠していることを知らせるキーホルダーが付いているのを見つけた。
「だから自転車やめたんだ」
納得がいった。そしてうれしかった。友達でもない他人なのに。
それからほどなくして、彼女は電車からもバスからも姿を消した。産休に入ったのだろう。
しばらくして、私は会社を辞めてしまった。
今では、彼女の行方を知る術はない。
彼女の勤めていた会社に行って、彼女のことを聞き出すわけにもいかない。
第一、なんて言えばいいのだろう。名前も知らない子だ。
「いつも髪が濡れたまま出勤していて、自転車に乗っていて、経理か総務かの仕事についていて、この間、妊娠して……」
それに、もしかしたら、今どこかですれ違っても、彼女とわからないかもしれない。
彼女と私はほんの一時期、同じ場所で、同じ時間を過ごしていた。
ただ、それだけだった。
通勤の帰りの電車にも、見かけるとうれしい人がいた。
細かいパーマのかかった髪を腰まで伸ばし、黒縁メガネ。ナチュラルテイストの服にレギンスと靴下とビルケンシュトックというスタイルがいつも変わらない女の人。
一度、ファッションビルで働いているのを見かけ、私と妹はその人を働くお店のブランド名で呼ぶようになった。
「プードゥドゥ」
駅でタバコを吸うのを見かけ、喫煙者であることを知り、夜、少し若い女の子と一緒に歩くのを見かけ、妹がいることを知る。
はじめに見かけたファッションビルから、そのブランドが撤退したことを知ると、彼女の仕事先の心配をした。
それでも彼女は通勤しているようだったので、どこか別のショップへと異動したのだろうとわかって、安心した。
私の仕事の帰り時間は不規則なので、いつも「プードゥドゥ」に会えるとは限らない。
だからこそ見かけるとうれしかった。
決して大吉ではないけれど、引いたおみくじが中吉だったような喜びだ。
見かけた日は喜んで帰って家族に報告していた。
そんな折、震災があって、しばらく電車が走らない日々が続いた。
私の住む地域では、震災後しばらくゴミの収集がなかったため、臨時で近所の大きな公園を解放し、ゴミの集積所にすることになった。
地震や津波の被害などで出た、がれきなどを一時的に集めるためだ。
私の家も、庭で倒れて修復不可能になった灯籠を運んだ。
家族で車に乗っていると、ふとすれ違った車の運転手が目に入った。
「プードゥドゥだ! 生きてた!!」
車の中だったが、思わず叫んでしまった。
個性的な人だから、見間違えようがない。
同じ駅で降りていたのだから、当たり前だけど、住んでいるところも近かったのだろう。彼女もゴミを搬入しに来ていたようだった。
思わぬところで無事を知って、ほっとした。
言葉も交わしたことのない他人なのに。
それからJRが復旧し、電車が走り、私も会社に通った。
「プードゥドゥ」もお店に戻ったのか、また帰りの電車で見かけることが増え、いつもの、見かけるとうれしい他人になった。
震災があったことで、いつもの他人でいられることが、日常を送れることが、ありがたいことなんだと思えた。
今、電車通勤をやめた私にとって、日常の中にいる他人は、近所のコンビニ店員だ。
うつ病でしばらく自宅療養していた私には、外に出るのがやっとの時期があった。
毎日少しでも太陽の光を浴びるようにと言われているのだが、なかなか散歩を習慣にするのは難しい。
そんなとき役に立ったのが、近所のコンビニが独自に作っていたコーヒーのポイントカードだった。
店頭で一杯ずつ紙カップに淹れる、いわゆるコンビニコーヒーを買うと、スタンプが1個もらえる。
このスタンプが10個たまるとレギュラーコーヒーが一杯無料になるのだ。
有効期限は3ヶ月。こんなの余裕、と、元気になった今の私は思う。しかし、あのときは結構ハードルの高いノルマだった。
そんなころ、コンビニに新しく入ってきたアルバイトがいる。
キムラだ。
キムラは20代前半くらいの男の子。学生なのかは不明だが、だいたい夕方から夜にかけて働いている。
コンビニは住宅地の中にあるためか、ほとんどが近所に住む主婦らしき人たちが働いていて、若い店員が少なく、キムラが最年少だと思われた。
キムラははじめ、初心者マークのシールがついた「トレーニング中」と書かれたネームプレートをつけていた。
私のポイントカードのスタンプを押すのにも手こずっていたし、宅配便の荷物を持っていけば、こっちが不安になるほどの慌てぶりだった。
しかし、私のポイントカードのスタンプが貯まっていくにつれて、キムラは初心者マークが取れ、その代わり、何のマークかわからないが、星のシールが一つ、また一つと増えていった。
私もコンビニのコーヒーをきっかけに、少しずつ、散歩の時間と回数を伸ばしていった。
はじめのころはコーヒーを買ってそのまま帰ってくるだけのほんの10分。
気分が良かったら、コーヒーを持って、ちょっと遠回りして帰る20分。
そのうち、有効期限がギリギリだからと、数日連続してコーヒーを買いに行くこともできるようになった。
外出するのはきつかったが、コンビニに行けば、だいたいキムラがいる。
キムラは愛想がいいわけでも悪いわけでもない店員だ。
キムラと私は、お金のやりとり、コーヒーのサイズ、二十歳以上の確認ボタン、宅配便のお届け時間などの会話しかしない、店員と客、それだけの関係だ。
常連客だからといって、天気の話などしたことはない。
それでも、いつもそこであたりまえに対応してくれる顔見知りの店員の存在は、私にとってものすごく大きな安心感になっていた。
私はコーヒーのポイントカードで、合計5杯ほど無料のコーヒーを交換した。
そのころには、もうカードがなくても散歩や外出ができるようになった。
そしてキムラは名札に「リーダー」という肩書きを掲げるようになった。
コンビニに行くと、キムラが最近入った新しいアルバイトに品出しを教えているのを見かけ、主婦のアルバイトの人たちにSNSについて解説しているのを聞いた。
年齢的にも、バイト歴的にも一番下だったキムラが、今や新しいアルバイトを指導して、主婦のアルバイトに頼られていると思うと、私は彼の母親ではないのだが、しみじみうれしくなってしまう。
そしてキムラの成長とともに、私も元気を取り戻せたと思うと、時間の流れに想いをはせて、目を細めてしまう。
そして、昨日コンビニに行き、しばらく見てなかったキムラのネームプレートを見ると、
これまでの「リーダー」ではなく、「トレーナー」という王冠のシールが貼ってあるではないか。
人を育てられる人認定、ということなんだろう。
「やった! やったね!」
思わず握手をして肩を叩いてやりたくなったけれど、やめておいた。
私は、家族や友人、仕事のパートナーなど、絆の深い人々との関係の中で、支えられ、毎日を生きている。
と思っているけれど、同じ場所、同じ時間の中で、わずかに交わって生きている他人の日常にも、救われているのだ。
「ノリさんのおかげです。ノリさんがいなかったら私、もっと早く会社辞めてた……。本当にありがとうございます!」
会社を辞める年下の女の子、サオリちゃんの送別会で、本人からこんな声をかけられた私は驚いていた。
サオリちゃんは、直接、仕事を教える後輩というわけでもなく、かといって特に目をかけていた子でもなかった。
会社の女の子たちとみんなで一緒にご飯を食べたことはあるものの、個人の相談にのったことや、悩みを打ち明けられたことすらない。
席が近いときは少し話をした覚えはあるけれど、席替えで席が遠くなれば、会話もなく、あいさつすらしない日がほとんどだった。
そんなサオリちゃんが、私の存在が励みになっていたという。
私は同じフロアにいただけ。ただ、自分の仕事をしていただけ。多分、毎日ヘラヘラ、いや、イライラしていただけ。
それだけなのに、サオリちゃんは私から何かを受け取ってくれていた。
私は自分がサオリちゃんにとっての「橋本くんのドラム」になったんだと思った。
私のつまんないと思っていた日常が、誰かを励ましていた。
それはとても驚きで、とてもくすぐったくて、とてもうれしいことだった。
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