プロフェッショナル・ゼミ

ちょうど桜が満開になった明け方、斧の音が聞こえたの《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:安達美和(プロフェッショナル・ゼミ)《フィクション》
祖母はもう、長くないかもしれない。
だったら、この質問ができるのは今しかないんじゃないか。
そう思った。
静かに障子を開けたつもりだったけど、眠りの浅い祖母には桟を滑る小さな音でも十分らしかった。
おはよう、と声を掛けると、真弓? とわたしの母の名を呼んだ。素直に、そうよ、真弓よ、と返した。
わたしの祖母は美しい。米寿を迎えようとしている彼女に、「美しい」とは大げさと思われるかもしれない。でも、わたしにはこの形容以外浮かばない。こうして見ていても、祖母は美しい。きっとそういう血なんだろうけど、彼女の顔にはほとんどシワがない。つるんとして林檎のようだ。それに、色白くきめ細かな肌をしている。
祖母が八十歳頃だったか、親類が集まった際に日帰り温泉に行ったことがある。肌の美しさもさることながら、思わず目を見張ったのは祖母の乳首だった。その場には母や妹、従姉妹を含めて七、八人ばかり女がいたが、その中の誰よりも祖母のそれは美しい色をしていた。「桜色」と表現して、なんらかまわない色だった。自分の茶色がかった乳首が猛烈に恥ずかしくなって、それに劣等感も湧き上がって、早々に脱衣所へ逃げた。
やっぱり、心底愛された女というものは、美しいのだろうか。
祖父母はパッと聞きでは嘘と思われても仕方ないような大恋愛の末に結ばれたそうだ。愛情は互いに深かったが、祖父の祖母への愛情は狂気と言っても良かった。祖父は早期退職を希望して、その日を指折り数えて待ち焦がれていたが、それというのも祖母を連れて世界中を旅行したいという夢があったからだ。祖母が歩くのをおっくうがるようになってからは、日本中のどこへでも祖父は車を飛ばした。そして、元々、桜が好きだった祖母のために、「桜前線を追う旅」を毎年敢行していた。九州から東北まで満開の桜を追って北上する旅は、祖父が亡くなる前年まで行われた。時たま、旅先から届く葉書には、すべて咲き誇る桜の姿があった。そして、どの葉書にも、祖母の字で、満開、と一言書かれていた。そりゃそうだろう、と思った。わざわざ満開に合わせて動いてるんだから。
祖父が亡くなってから、祖母はとんと外へ出ることがなくなった。そして徐々に、痴呆の気が現れるようになり、ぼんやりしている時間が増えた。元々、あまり口数の多い人ではなかったけれど、元気だった頃のいわゆる天然ボケのような感じではなくて、意識が時々白濁しているのが分かるぼんやりだった。
祖母が祖母でいる時間は、もう長くないかもしれない。
そう思ったわたしが、まっ先に聞いておきたいと思ったことがこれだった。
どの桜が一番キレイだった?
日本中の桜を自分の目で見た人間なんて、そうはいない。祖母の記憶が完全にあやふやになる前に、教えてほしかった。そしてわたしもいつか、その桜を見に行きたい。できれば、パートナーと。毎年、わたしのために桜前線を追ってくれる人が見つかるかどうかは別として。
淹れたてのほうじ茶を載せたお盆を祖母の枕元に置くと、彼女は物憂げに身体を起こした。目の色を確認すると、少し眠そうではあるものの、とりあえずシャンとしているようだった。さっき母と名前を間違えられてちょっとドキッとしたが、間近でわたしの顔を見た時、ちゃんと名前を呼んでくれた。今なら聞ける。
「ねえ、おばあちゃん」
「なあに」
「また今年も桜の時期だね」
「そうね、春だわね」
「このあたりは葉桜だけど、北の方は今が満開だね」
祖母は口の中でそうね、とつぶやいて何かを思い出すような表情になった。もしかして、いまわたしが聞こうとしていることの答えに、想いを馳せているのだろうか?
「ねえ、おばあちゃん」
「なあに」
「おばあちゃんは、ずっとおじいちゃんと『桜旅行』をしてたじゃない?」
「そうね」
「だから教えてほしいの」
どの桜が、一番、キレイだった?
そう聞くと、祖母は黙りこくった。そして、そのまま固まってしまった。どうしてだか思いつめたような目をしている。そんなに聞いてはいけないことだっただろうか。祖父との秘密の想い出を、孫とは言え他人に教えたくないのか。そう思ったら、どういうわけか嫉妬心が芽生えてきて戸惑った。愛情を一身に受けてきた女に対する、嫉妬。
「言いたくないなら、いいよ。お茶、淹れ直してこようか?」
わたしの淹れたほうじ茶に手をつけないことにも、ちょっと腹が立った。目覚めのお茶を淹れる役割は、祖父のものだった。
祖母の手の中にある湯飲みに手を伸ばした瞬間、祖母が口を開いた。
「あの桜が、一番キレイだったわ」
「……え、どの桜? なに県?」
「わたしが生まれたところの」
子供の時に見たあの桜が、一番。そう、つぶやいた。
当然、祖父と一緒に見た桜が出てくるはずだと思ったわたしは、面食らった。あんなに毎年、祖母のために桜前線を追いかけていた祖父が聞いたら、思わずズッこけるだろう。でも、これで祖母の桜好きの理由が分かった。子供の時の強烈な記憶が、あの異様なまでの桜への執着になっていたのか。
「そっか、おばあちゃんの出身県って、たしか、」
「斧の音が聞こえたのよ」
え、と言ったきり、言葉が継げなかった。
斧の音。
「ちょうど、明日頃には満開だねって、近所の人たちと話してたんだけど。明け方だったわ、コーンコーンて。深い谷を挟んだ向こう側から、音がして」
祖母の部屋には朝の光がたっぷりと差し込み、湯飲みの中のほうじ茶には、天井の木目が揺れて映っていた。
少し長くなるけれど、と前置きしてから彼女は話し出した。祖母の昔話を聞くだけなのに、こんなに胸がざわざわするのは、どうしてだろう。これは、そうだ。怖いのだ、わたしは。こちらの戸惑いには構わず、祖母は話し始めた。

わたしが、子供の時に住んでいた場所はね、昼間でもほとんど日が当たらなかったの。目の前に深い谷のある小さな集落だったわ。家族全員が飢えないようにするのがやっとの、貧しい土地でね。じゃあだったら、別の場所へ行けば良いんだろうけど、知らない天国より見知った地獄の方が安心してしまうものなのね、人間て。浅ましいわね。
生きるために生きてるような毎日だったけど、毎年春になるとひとつだけ楽しみがあったの。谷を挟んだ向こう側に、一本だけ惚れ惚れするような桜の大木があってね。それはもう見事なのよ。この場で命が終わっても良いと心底思ってしまうくらいの眺めで。ざらんざらん咲いてる桜から、谷底へ散っていく花びらを見つめていると、まだ子供だったくせに、切なくて切なくて。それに、その谷は渡るには幅がありすぎて、そうでなくても深い谷だったから、絶対に桜の木をそばで見ることができないの。離れたこちらがわから、ただ、咲いて、散るのを見つめるしかできないのよ。
小さな集落だったから、隣近所は助けあうのが普通になってたわ。みんな家族のような感じで。貧しいながらもお花見弁当なんて作って、ちょうど桜が正面に見えるようにござを敷いて。とっても楽しかった。この日のために、ここに住んでるんじゃないかと思えるほど。
ところで、助けあうのが普通だったわたし達の中にあって、一組だけ例外の家族がいたの。父と娘のふたり家族でね。なんでこの父親からこの娘が生まれたんだろうって、誰もが思うふたりだった。きっと、奥さんが相当な美人だったのね。もしくは本当に種違いだったかしら。
背が低いくせに愛嬌がなくて、そのかわり獰猛な感じのする父親だったわ。凶暴な小熊みたいだった。そして、その父親とは似ても似つかない長身で色白な娘。娘は「さく」って名前だった。たしか、あの時十九歳だったと思う。さくが立ってると、その周りだけシンと静かな感じがしたわ。白サギが、水辺にじっとたたずんでるような。
父親は、何かって言うと、さくに冷たく当たってた。細かい男でね。やれ酒の肴に大根の葉だけかとか、着物のほころびの繕い方がなってないとか。さくのことを、娘っていうより、奥さんの代わりみたいに扱ってたわね。さくも、それは分かってたみたい。はい、ごめんなさい、おとっつぁん、なんて慣れた感じであしらって。
夜になると、ふたりの家から、たまにさくの吠えるみたいな声が聞こえた。犬みたいだなと思ったわ。切なそうな犬だな、って。
わたし達子供は、母親からあの父娘とは口を聞くなって言い含められていたの。だから、素直に忠告に従っていたんだけど。
もうじき、谷の向こう側の桜の枝に、ぽつぽつ蕾ができ始める頃だったわ。ふたりの家の前を通りかかった時、偶然、さくが外へ出てきたの。その顔を見て、ぞっとした。元々色白ではあったけど、その顔色ときたら、白を通り越して土気色なのよ。死人かと思ったわ。さくはわたしにぶつかりそうになると、とっさに避けて、ごめん、て短く言った。そして、そのまま、足早にどこかへ行こうとするの。わたしは思わず、後を追いかけたわ。母親の忠告には背くことになるけれど、でも放っておけなかった。なぜって、父親の方は嫌いだったけど、さくのことは、わたし本当は好きだったのよ。色白でハッとするほどキレイで。あんなお姉さんが自分にもいたらいいなんて、密かに考えていたものだから。
さくは向かい側にちょうど桜が見えるところまで来ると、いきなりぺたんと地面にしゃがんだ。わたしも、少し離れたところに座ったわ。さくはわたしが横にいることに気がついてないみたいに見えた。まだ一輪も花びらの見えない桜の木を、ただ見てた。わたしは思い切って、彼女に声をかけたの。
「ねえ」
さくは反応しなかった。
「もうじき、蕾がふくらむね」
そう言ったら、ようやくこっちを見てくれたわ。気味の悪い顔色に、濁った目をしてた。
「満開になったら、お花見だね」
思わず言ってから、しまった、と思った。ふたりは誘ってもお花見に来なかったというのもあったけど、一度断られてからは誘うこと自体ずっとしていなかったから。何も言えなくなって黙ってしまったら、さくがだるそうに口を開いたわ。
「お花見、楽しみなの?」
「うん。満開の桜、キレイだもん」
「わたしは嫌い」
間髪入れずにさくが、嫌いと吐き捨てたものだから、びっくりして言葉が出てこなかった。
「だって、満開になったら、もうあとは散るしかないじゃない」
そう言われて、どう返して良いか分からなかった。花が咲いたら散ってしまうのは当たり前だ、子供でも分かる。さくは、偏屈な父親と常に一緒だからおかしな目で見られているけれど、ちゃんと注意してみれば聡明なのは明らかだったから、その言葉は浅はかな気がした。さくはそのまま、ふらふら自分の家の方へ戻っていったわ。
その十日後だった。彼女が亡くなったのは。
父親の衰え方っていったら、なかったわ。奥さん代わりの娘が亡くなったんだから、男やもめって言っても良かったと思う。元々小柄だったのに、どんどん筋張って、見てられなかった。獰猛さがなくなって、凶暴な小熊だったのが、年寄りの鶏みたいになっちゃって。かわいそうではあったけど、特に手を差し伸べようとする人間もいなかった。だって、誰もさくの代わりはできないもの。
そうこうしているうちに、桜の蕾もいよいよふくらんできて、明日頃が満開だってみんなはしゃいでいたあくる日。まだ明け方だったわ。谷の向かい側から聞こえてきたの。コーン、コーン、て。硬いものが、幹を打つ音が。
朝もやの中を駆けていくと、谷の向こう側にさくの父親が立ってるのが見えた。他の家からもぞろぞろ人が出てきて、みんなでただ呆然と、父親が満開の桜の幹を斧で刻んでいるのを眺めてたわ。一体どうやって、向こう側へ渡れたのかは、もちろん分からない。父親は、わたし達のことは目にも入ってないようだった。一心不乱に、斧を振りかざしてた。かすかに、さく、さく、って喘ぐみたいな声が聞こえた。
桜の花びらが、幹に斧を打ち付けられるたびにハラハラ舞った。わたしは異様な緊張感に包まれたまま、そっと息を吐いた。あまりにキレイで。
どれくらいその様子を見ていたか分からないけれど、やがて幹が揺らいで傾きだした。そして、落ちていったの。満開の桜が、谷底へ。散った花びらが谷を埋め尽くして、ものすごい眺めだった。天国みたいな、地獄のような。さよなら、って言葉が一瞬頭に浮かんだわ。
あ、と思わず声が出た。
落ちていく桜の木の幹に、父親がしがみついていたの。痩せた鶏の身体をへばりつかせて。その骨ばった背中に、うっすらと白いしなやかな影がまつわりついていたのは、見間違いだったのかしら。分からない。谷を渡る白サギだったのかもしれないわね。
桜の木がなくなってしまってから、徐々によその土地へ引っ越す家族が出てきたのは、当然だったと思う。見知った地獄が、桜がなくなって見知らぬ地獄になったんだもの、もう住み続ける理由もない。わたし達家族も、もちろんそこを後にして。
でもね、あれ以来、ずっと忘れられなくて。谷底目がけて落ちていく満開の桜と、うす紅の嵐と、娘が嫌いだって言った桜を切り倒したあの父親の姿が。うらやましいと、思ってしまった。あんな風に想われた、さくが。

祖母はそこまで話すと、わたしの顔を仰いだ。そして、真弓? と母の名前を呼んだ。
また意識が白濁しているのか。今まであんなに滑らかに話していたのに。
うん、真弓だよ、と答えたものの、その後なにを言えば良いのか、わからなかった。
祖母は、祖父の愛情だけでは満足していなかったのだろうか。
妻のために桜前線を追いかける男なんて、そうはいない。
でも、愛した女性のために、満開の桜を切り倒す男なんて、もっといないだろう。
わたしにも、見つかる可能性はあるのだろうか。
自分のために、桜の幹に斧を振るってくれる男なんて。

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