「お相手に求めるものは?」「同じ笑いのツボです」-余は如何にしてプロの独身となりしか《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:村井 武 (プロフェッショナル・ゼミ)
人間の根源的な欲求は何か。哲学や心理学や医学や、いろんな分野で様々の議論が交わされている。
曰く、「食欲」「睡眠欲」「性欲」。
曰く、自己実現欲求を頂点とする5大欲求階層。
どれも、まぁ、そうだな、と思いながら、私の中で、抑えがたく強いのは「笑い」への欲求だったりする。
小学校時代、学校に行く楽しみは、授業中、バカバカしい余談をして爆笑させてくれる先生の授業だった。教師の指名がない限り、発話もおしゃべりも許されない教室という空間で、大声を出して机を叩いてバカ笑いすることが認められる瞬間を、先生が意図的に明示的に創りだしてくれる。お腹が痛くなって呼吸が困難になるまで笑っても叱られない。こんな快感はない。
笑いを追究し、理論化し続けた落語家・桂枝雀によれば、笑いを生みだす重要な要素のひとつは「緊張の緩和」だという。授業中の笑いは「緊張の緩和」の典型ではなかったか*。
私が小学生だった60年代後半から70年代前半というのは、今とは人権意識も違っていたので、教育の場でありながらかなりの差別的ネタが教師から語られたりもしていた。私たちは、何の疑いもなく教師の話に爆笑し、休み時間に繰り返し、それを語った。
差別ネタで私たちを笑わせた教師を非難する道義的資格は、私にはない。人一倍傷つきやすい、ダメダメ系の私は、できれば人を傷つけずに生きていきたい、と心から思う。
しかし、笑いは、倫理や道徳や人権を超える、それも容易に超えてしまうことがあり、私は笑いに関する限り、そんなネタをぶつけられたときに、笑いを倫理観や人権感覚で止める自信がない。差別的なネタであっても、笑ってしまうことを抑えることができないことが、今でも、50歳を超えたこの歳でもありうるから。
そもそも笑いには暴力性に近いものが含まれている。常々絶望的に面白いことをいう知人から、突然指摘されたことがあった。
「ムライ君ってさ、微妙な学歴ネタ、好きだろ?」
「え? まぁ……」
唐突な問いに戸惑う私に、彼は、続けて、ストレートに微妙な学歴ネタをぶつけてきた。私は、すでにいい大人になっていたが、呼吸困難になるまで笑い、自分の唾にむせて、涙を流し転げ回った。
そのネタに含まれる差別性を私の理性は憎む。しかし、それで笑ってしまう私がいることも事実なのだ。喉に指を突っ込まれると嘔吐反応が生じるように、笑いのツボを衝かれると、私の身体は倫理観や道徳概念の及ばないところで反射を起こし、とてつもない快感を感じる。
かつて、クイズの回答者として高齢者を並べて、珍答を引き出すバラエティ番組があった。私はあの企画がとても好きで毎回見ていたし、当時も、そして、再放送でも見たら今でも、爆笑せざるを得ないと思うのだが、80代後半の老いた私の両親の会話を聞いていると「あ、あれと同じだ」と気づき、おかしくなると同時に複雑な気持ちになることがある。両親があの場に出てコメディアンにいじられながら珍回答を連発したら-実際、出たら思いっきり、やらかしてくれると思うのだが-笑えるかというと、さすがにわからない。それでも、私には、あの番組の面白さは否定できないし、番組が再開したら、間違いなく録画して見るだろう。高齢者問題がこれだけ深刻化している現在、あの企画が可能か微妙だけれども。
やはり少し昔のこと、関西圏の首長の問題行動が指摘されたとき、地元の人が「あの首長はお笑い出身だから、お笑いに紛わせてこの問題から逃げるかもしれない。それをこの地方の人たちが許してしまうかもしれないことが私は怖い」と語っていたのも思い出す。
笑い、毒にもクスリにもなるところ、怖い。
先の、暴力的に面白い知人がネタを抱えているときには、彼の3メートル以内に近づくだけで、笑いがこみ上げる。笑いというのは、ひょっとすると言語を介さずに共鳴するものではないか、という怪しい仮説さえ私は抱いている。
メディアを通して、笑いを楽しむことももちろん可能だし、日常ではそれが多いのだろうけれども、リアルな時空間を共有したときの笑いというのは、メディアを介したそれとかなり違った感覚を呼び起こす。
落語の寄席は、プロの笑わせ屋である噺家と時空間を共有できる場だ。テレビで見る寄席-例えば国立演芸場での落語を録画中継する定番番組からは伝わらない、笑いの波動が開演前から場に満ちている。
同時代を生きながら、名人古今亭志ん朝師匠を生で見ることが叶わなかった私が、今追いかけをしているのが、春風亭一之輔師匠。この人も、暴力的に面白い。
一昨年のことか、一之輔師匠の出版記念トークに参加し、著書にサインを頂いたことがあった。師匠の前で緊張し、あがった私はつい日頃思っているままに
「いつもとても面白く聞かせて頂いています。一之輔さんは暴力的に面白いです」
と口走ってしまった。
実はシャイな師匠は、一瞬ほんとに眉をひそめ、
「ぼ、暴力的? 初めて言われましたね……どうお答えしたらいいんでしょうか」
ととまどっていた。
無礼なことを申し上げて、すみません。師匠。
先日、一之輔師匠はNHKの「プロフェショナル 仕事の流儀」でとりあげられた。カメラは創作落語を作り上げるために試行錯誤を繰り返し、悩み続ける一之輔さんを映し出していた。
笑いを創り上げる側は、苦渋の表情をする。日本文学にマーク・トゥエイン流のユーモアを持ちこんだと自負する北杜夫もユーモア文学を書く作家が如何に創作に苦しむかを度々吐露していたし**、先にも引用した桂枝雀は「一分でも笑いが途切れると我慢できない」と笑いを追究し続け、病んだと言われている***。
自然な対話の中で笑いが、できれば爆笑が共有できる関係を、笑いのツボが同じなどと表現することがある。プロでさえ、創り上げるのに七転八倒の苦労をするのが笑いだ。一般人同士で、本当に笑いのツボが共有できる関係を築くというのは、ラクな話ではない。
特に、小さい頃から笑いを求めて本を読み、テレビを見て、落語を聞いてきた私の笑いに対する閾値はどうも高くなってしまったようなのだ。ものごとに対する感性の閾値・目盛は低い方がよいのだと思うけれども、もう上がってしまったハードルは仕方がない。
こうなると、愚かしくレベルの高くなってしまった私の笑いのツボを共有できる人というのは、なかなかいない。自ずと、子どもの頃のようなバカ笑いは少なくなる。
そして、今に至るまでプロの独身である私を心配して、パートナーを紹介してくれようとする、本当にありがたい方々が、時折現れるのだが、このとき必ず聞かれる質問が
「どんな人がいいの?」「相手に何を求めるの?」
である。
実は自らを省みずストライク・ゾーンが狭い私なのだが、あれこれ片っ端から挙げても仕方ないと思いつつ、よく答として口にするのが
「笑いのツボが一緒の人」
だったりする。
私としては、本気でこれを大事な要素と考えているのだけれども、大概の方々は理解できないようで「こっちは真面目なのよ」あるいは「そんな、抽象的なこと言われたって困る」といった反応を示される。申し訳ないが、これは譲りがたい本音のひとつなのですよ。
ある晴れた日、友人の女性と図書館の前の芝生で話をしていて、言われたことがあった。
「ムライ君さぁ。いつまで、独りでいるの? かわいそうだから、アタシが一緒になってあげようか?」
いささか唐突だったので、不意を衝かれた私は、
「あ、僕と、笑いのツボが一緒でないと……そこ、どうなんだっけ?」
と愚かしい答をした。我ながら本当にアドリブには弱い。
ある武道をやっていたその女性は、「にっ」と微笑むと芝生の上で、突然私を押さえこみ、脇の下をくすぐりだした。
「ちょっと、やめて! そういうことでなくて。わはははは」
「笑ってるじゃん! ここツボでしょ。楽しくないの?」
「いや、そうじゃないの。ぎゃはははは」
確かに、お腹が痛くなり呼吸も困難になったけれども、違う、のだ。
「笑わせてやったのにさぁ」
押さえこみを解きながら、彼女は至極真面目な顔で言う。近くで寝そべっていた白人の家族が、どたばたする私たちを見て声をあげて笑うのが聞こえた。
「いや、こういうの面白いのと違うから。ちょっともう腕ずくで笑わすのはやめて。あなたが僕より強いのは知ってるから……」
「ムライ君、めんどくさいよ」
彼女の「笑い」に対する感性がちょっと特殊だったのだとは思うし、こちらもあれこれ鈍かっただと思うのだけれども、以後「笑い」について語るのには慎重になった。
かくも「笑いのツボ」の肌合わせは難しい。
私の「笑いのツボ」要件を知っている友人に紹介された女性と話をしていて「ツボ」の話題に至り
「面白いお話がお好きなんですよね。面白いお話、して?」
と言われて、いきなり盛り下がったこともある。申し訳ない。そういうことではないのです。
こうして笑いのハードルとともに上がったパートナーのハードル。笑いの高レベル化は、まちがいなく私のプロの独身化の原因のひとつである。
怖いし、難しい、笑い。でも、確実に人と人をつなぐ、人にしか起きない不思議な反応。笑いのツボが同じ人、一緒に笑いましょう。そういえば、最近笑ってないし。
参照・引用文献
*「落語DE枝雀」桂枝雀 (ちくま文庫)
** 例えば「マブゼ共和国由来記」北杜夫 (集英社文庫)
***「笑わせて笑わせて 桂枝雀」上田文世 (淡交社)