この世でいちばん大好きで、いちばん大嫌いなひと
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記事:あさいあきこ(ライティング・ゼミ平日コース)
ご飯を作ろうと近所のショッピングセンターへ向かうと、購入したばかりの物干し竿を手に持った女の子とその母親と思わしき女性が出てきた。女の子は、とてもきれいな茶色の髪の毛をしていた。おそらく染めたばかりなのであろう。この春から東京の大学へ進学するために、地方からの引っ越しの真っ最中といったところか。
ふと自分のときはどうだったかと思い出す。私も、大学進学のために故郷を離れた。故郷に大学がなかったわけではない。むしろ進学のために故郷を出る人のほうが少なかった。けれど、私は故郷を出た。生まれ育った場所が嫌だったわけではない。あの頃の私は、きっと母が嫌だったのだと思う。
母はいたって普通の女性で、私の教育に特に厳しかったわけでも、逆に育児やしつけを放棄していたわけでもない。私は近所の幼稚園へ行き、義務教育を終え、高校へ行き大学へ行った。その間に習い事もやったりしたのだが、自分で「やってみたい」と言い出したらしく強制的になにかを習わされたわけではない。学校や友人との遊びから家に帰れば、母が作ってくれたご飯が待っていたし、食べ終わったころにはお風呂も沸いていた。部活動の大会は欠かさず見に来てくれたし、練習もずっと応援してくれていた。おそらく、世間一般から見ても愛情を注がれて育てられたのだと思う。
特に反抗する理由も体力も気力もなかったこともあり、私は反抗期を迎えぬまま高校3年生となっていた。私は高校卒業後、家からは通えない関西の大学への進学を希望していた。勉強したいことがある、それを勉強できる学科は全国に少ししかない、その中でも一番環境が良いのがその関西の大学なのだ、と両親を説得したが、本当は少し違っていた。大学進学は、家から出られるチャンスだと思っていた。そして、そのチャンスを逃したくないとも。なぜ家を出たかったのか、理由は自分でも分からなった。ただ、家から出ないとだめだと思い込んでいたのだ。
無事私は第一希望の大学に合格し、地元と実家を離れて大学生活を送ることとなった。関西へ出発する日、新幹線のホームで私を見送る母は、おそらく少しだけ私が涙ぐんでいたことに気づいていただろう。地元の大学へ進んでも良かったかなと一瞬頭をよぎったが、見知らぬ初めての土地での大学生活は楽しく、あっという間に4年が過ぎ去った。
進学の次の大きなイベントは就職である。周りの友人が地元の銀行や公務員を志望する中、私は地元へ帰るつもりは全くなかった。地元に就職口がない、を理由にしていたが本当は少し違っていた。地元には帰りたくない、と思っていたのだ。地元で一人暮らしをするという手段もあったが、きっと私は甘えて実家へ帰ってしまう。なぜだか分からないがとにかく地元と実家に戻ることだけはしたくなかった。そんな決意を知ってか知らずか、私は就職先から地元支社配属の命を受けた。正直、ショックだった。せっかく社会人という新しい世界に飛び込んでいくならば、新しい土地が良いと思っていた。地元で働くこと、実家に帰ること、なにか見えない檻の中に閉じ込められるような気がした。
配属場所を聞いたときは落胆したが、実家に住みながらの社会人生活は、すべてに慣れない新入社員にとってはありがたいものだった。一人暮らしと違って家事の負担はほぼなく、経済的にも負担が半減以上だ。このまましばらく実家にいて、貯金してから一人暮らしを始めようかと思っていた頃に、私は本社のある東京へ転勤となった。慣れない土地で慣れない仕事をする、大変だろうなと思ったがこれはチャンスだとも思った。もともと、東京で働ければと思っていたのだ。少し遅れたが、希望が叶うのだ。よかった、嬉しい。
仕事から帰って両親に転勤になった旨を伝えると、母が非常に苦い顔をしたのが見えた。そして、せっかく地元で採用になったのに、わざわざ東京へ行かなくても、と言った。
……ああ、このままここにいたらだめだ、と思った。
私は東京へ行きたいけれど、母はおそらく東京へ行く私のことをよく思っていない。けれど、ここで私が東京へ行かなければ、きっと私は、この先自分のやりたいことを、自分の思ったことを、なにひとつ出来ないまま生きていかなければいけなくなる。地元に残るようやんわりと勧めてきた母に「会社の命令だから」とだけ告げ、私は東京で住む部屋を探し、引越の手配をし、東京へ移り住んだ。ずっと、無意識に母が嫌がることはしないように生きてきた私の、初めての反抗だった。
東京で暮らしはじめ、思い返せば中学生のときに母に言われた言葉が嫌だった、小学生のときに理不尽なことで叱られたことが嫌だったと、離れているにもかかわらず母を憎く思うことが少し増えた。いざというときには頼みを断らないだろう私に連絡をしてくること、実家に帰ると父や仕事先の愚痴を言うこと、母のこういうところが嫌だなと思うこともあった。もう大人だったこともあり、喧嘩をふっかけることはなかったが、心の中では反抗を続けていた。そんなあるとき、私はひょんなことから母の書いた文章を読むこととなった。
そこには、母の母親、数年前に亡くなった私の祖母のことが書いてあった。祖母へ反抗して私の母は田舎を離れたと、娘も同じなのだろうかと、そう書いてあった。私と同じじゃないか。認めたくないけれど、考え方や選ぶ道が、おそらく私は母に似ている。真っ当な道をまっすぐに歩いていく母に対して、母のような生き方はしたくないと思っていたのに、結局私は真っ当な道しか生きられない。母と私は、親子なのだ。
実家に帰ると、まだ見えない檻の中にいるようだなと思うときがある。東京の一人の家のほうが気楽だと思うこともある。けれど、母に対しては嫌がるようなことをしないようにと思うことも、妙に反抗的な態度を取ることもなくなった。母もひとりの人間なのだ、完璧であるはずがない。それは私も同じである。私もひとりの人間として、母に向き合おう。それが、大人になった私の母への親孝行なのかもしれないと、思っている。
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