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笑えば幸せになれるって、それ本当ですか?


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記事:ひだんぬ(ライティング・ゼミ日曜コース)

そういえば、私は、他人の笑い声が苦手だった。
 いや、正確に言うと、大嫌いだった。
 その場で座り込んで頑なに耳を塞ぎたいほど、小学生の私は笑い声というものに強い嫌悪感を抱いていたっけ……。
 

 そんな消し去りたい思い出を不意に掘り起こしたのは、一株の無名の花だった。
 あたたかな春の日差しを感じながら信号待ちをしているとき、私は足元に咲く小さな花を見て、不覚に蘇ったのだ。質素で控え目な花の容姿からは想像もつかないほどの、忌々しき過去を。
 そして、朗らかな風を受けながら大学に向かって歩く最中、その時の感情を思い出そうとしていた。うっすらとした記憶を辿っていくと、別の考えが浮かんできた。過去の私が決して気づかなかった、あることが。
 

笑い声が嫌いな理由は、たしか恐怖だった。
嫌いな理由を細かく分析できるほどの客観性を、幼い私は持ち合わせていなかっただろうから、恐怖という回答はきっと正しいんだと思う。
私の知らない文脈で他人が笑っている状況に、身の毛がよだつほどの怖さを感じるから、私は笑い声が嫌いだった。笑い声の主が気心知れた友人であっても、その思いは変わらなかったと記憶している。

辛い思い出であるはずなのに、この拒否反応の原因は分からなかった。
 9歳の私には幸いにも、放課後に一緒に遊ぶような友達はいたし、クラスでいじめられた記憶もない。だから、他人に対して深い恐怖を持つほどのきっかけはなかったはずだ。それなのにもかかわらず、少なくとも当時の私は、笑い声から無形の恐怖を感じ取り、それを本能的に忌み嫌うようになっていた。
 私は原因を考えることで頭がいっぱいになってしまって、その前に考えていたことは忘れてしまった。エネルギーは頭に吸収されて、通学の足取りは遅くなった。

 笑うという行為は、世間一般にはポジティブな意味として捉えられている。当時の私だって、ポジティブの概念は理解できなくても、笑っている人のほうがなんとなく良いくらいの判断は出来たはずだし、楽しいことがあったら自然と笑うことくらいは出来ていたと思う。深層心理の範疇を超えてでも、私は笑いを嫌がった。
 もし私が絶対権力者に憧れていて、他人の言動を操りたいなんて考えがあれば、恐怖を感じる理由が納得できる。友人が皆反逆者に見えるだろう。でも、誕生日のプレゼントもいらなかった私に、そんな気高き欲があったと到底思えなかった。
 考えても納得のいく答えは見いだせなかった。私は、首にじんわりと汗を搔いていた。

猫が天気を察知するように、小学生の私は見せかけの友情を見抜いていたのかもしれない。あるいは、友情という言葉の意味を不必要に注意深く捉えすぎていたのかもしれない。
そのように思ったのは、目の前を野良猫が通り過ぎたからだ。猫はじっと私を見つめてから、どこかへ去ってしまった。私は、心の中まで読み取られたんじゃないかと不安になった。
 
 落ち着くために目を閉じて、当時の嫌だった状況を思い出してみる。
 随分と前の出来事だ。私の記憶細胞は、授業の内容や提出課題の内容で昼夜を問わず更新され続けている。脳の隅に追いやられていた記憶を呼び覚まそうと、無意識に目に力が入っていた。
 女子複数人から発せられる高らかな笑い声。机と椅子が触れ合う音。遠くから聞こえる男子の屈託のない笑い。運動場から聞こえるボールの音。
瞼の裏には、小学校の教室が描かれていた。どれも楽しそうな雰囲気だ。
「ああ、出来るならば私も一緒に笑いたい」と思うけれど、体はなぜかそれを許してくれなかった。一方的に恐怖を感じ、聴覚を失いたいとさえ思っていた。
悲しみの中で思い出されたクラスメイト顔。懐かしい幼い顔ぶれ。しかし、本当に笑顔なのは一人だけだった。
笑い声の大きさとは裏腹に心の底から笑っているのは、ごく限られた人だけなんだ。
 そうだ、これだった。私が嫌がる原因は。
 恐怖の先に見つけた真の理由を反芻し、私の心にも柔らかな春の光が差し込んだ。
 心から笑っている人に協調したり、笑顔を取り繕ったりして、なんとなく楽しい心地になっている友人を当時の私は感じ取り、内面と異なる不誠実な彼らの装いに嫌気がさしていたのだ。
 
なんとなく楽しいと感じることは、幸せなことかもしれない。人は楽で心地良いほうが好きに決まっている。しんどくてつらいことは、誰も率先してやろうと思わない。
 一方で、感情を誇張したり抑制したりすることは、とてもストレスだと思う。そもそも他人に自分の感情を任せて、何のいいことがあるんだろうか。
 小学生のクラスにも、きちんと社会というものが形成されていて、パワーバランスは存在していたし、無意識のうちに他者を気遣うことも出来た。しかし、大人ほどの論理的思考もなければ外交手段もなかった。だから私には、やわな友情だけで出来上がった笑いという結束が理解できなかったのだ。
 そんな独りよがりな考えも、歳を重ねれば消え失せていった。長いものに巻かれなければいけない状況は増えたし、協調が求められる場面も多くなった。気づかぬうちに、オモテとウラを使い分けるようになって、そしてその結果、笑い声に対する恐怖も次第に消えたんだった。

 今の私は、上手に生きすぎている。
 人生は笑っていたら幸せになるほど、簡単じゃない。さまざまな葛藤や衝突が当たり前だ。
 笑い声に恐怖を抱いていたあの時のように、私は私にもっと正直になるべきなのかもしれない。そう、さっき出逢った無名の花のように。
 そう思って顔を上げると、一本の飛行機雲が青い空に架かっていた。

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2017-05-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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