母親が半狂乱になったあの時のおかげで、今、僕の人生は充実しています。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:オールイン関谷(ライティング・ゼミ平日コース)
「もう、おまえの人生は終わりだ! どこも高校になんか入れない。おまえが高校に入れなかったら私も死んでやるー」
我が母、春子が近所中に鳴り響くほどの大音響で泣き叫んだ。
その小さな身体は畳の上で正座をし、身体を丸くして突っ伏している。
僕が中3の1月のことだった。
戦争映画で息子を亡くした母が泣き喚くシーンのようだな、と2メートルほど離れたところで僕はダンゴムシのように丸まった母を見下ろすほかなかった。
なぜ、そのような状況になったのか?
それは僕の高校受験での、最初の結果発表通知を春子が開けてしまったために起きた事態だった。
・ ・ ・
団塊ジュニア世代ど真ん中に生まれた僕は「受験戦争」という言葉に毎日のようにさらされていた。
当時は良い高校に入り、良い大学へ進み、良い会社へ就職できれば人生は安泰だ、という今から思うと笑っちゃうような「神話」を受験生たちもその親も信じきっていた時代だ。
コラムニストの泉麻人さんが高度成長期に書かれた名著「街のオキテ」で、「この町から埼玉県のような気がする」とバッサリ一刀両断された東京都西部のド田舎、M町に1つしかない中学校にも受験の季節が訪れ、クラスの話題は誰がどこを受験するか、でもちきりだった。
競争は激しいから、本命のほかに中堅校や滑り止めと呼ばれる高校を複数受けることが当時は推奨されていたため、6~8校以上受けるクラスメイトも多く、中3の冬は
「どこ受けるの」
「○○高」
「うわ、すげーじゃん」
なんてやり取りが教室中に飛び交っていたものだ。
本命にしていた都立高校の試験日はまだ1ヶ月以上先。
そこで僕は、試験日の比較的早い私立高校を場馴れするために受験した。
ところが、緊張感もあって当日の試験であまり良い手応えを掴めなかった。
自分的には不合格は十分予想できた結果だったが、あろうことか春子が勝手に開封して「不合格」と書かれた通知を見てしまったのである。
そして、春子。勝手に錯乱しちゃったのである。
春子はその翌日に担任に電話を掛けると、「息子の都立高校の受験ですが、A高ではなくて、B高にランクを落としてください。そうしないと私、気が狂いそうです」と言った……そうだ。
「困ったわねぇ」
1週間後、進路指導室で担任の栃木先生は僕の正面に座ると、そう電話があったことを告げ、大きくため息をついた。
「ウチのかーちゃんが、そんな電話、栃木先生にしたんですか?」
「いやぁね、もう蚊が鳴くような小さな声なんだけど、地底から響いてくるような。鬼気迫ってる感じの声だった」
「実は、目の下に『あんたはパンダか』っちゅーくらい、とんでもないでっかいクマ作ってまして。ああいうのがノイローゼって奴かと。初めてです、あれほどひどいのは」
「どうなの、お母さん? おうちではどんな感じ」
「毎朝、僕の顔をみるたび念仏のように唱えてますよ。『聡史、おまえは高校には行けない。もう絶対無理だ。だから都立はB校にランク落とせぇぇぇ』って。」
「聡史君なら大丈夫だと思うんだけどねぇ。都立は五教科だから、聡史君の得意な社会と理科でだいぶ稼げると思うの」
「僕も普通にやれれば大丈夫と思います。でも、おそらくランク落とさないとウチのかーちゃん、何しでかすか分からないです。そっちの方が怖いっす」
「そんな人なの?」
「いやぁかーちゃんは『思い込むと一直線』な人なんで。勉強に関係ない本や漫画は僕の本棚から勝手に捨てるんですよ。テレビ見てると『勉強しろ』と包丁とか皿とか投げてきますし。去年なんか、ウチの店で万引きした若いにーちゃんが、車に乗って逃げようとしたところを、窓に手を突っ込んで『逃がすか~』と叫びながら30mほど引きずられました。西部警察じゃないんだから、もう」
「困ったねぇ」
「困りましたよ……。日に日にやつれて、目がやばいっす」
「まあ、落ち着いたところを見計らって、しっかり話した方が良いわね」
栃木先生は、そう言うと僕の右肩を軽くぽんとたたいた。
栃木先生との面談が終わり、自宅に帰る。するといまだに春子が憔悴しきっている。
僕の顔を見るなり、また
「聡史、もう絶対無理だ。だから都立はB校にランク落とせぇぇぇ」と低い声で言った。
家族の夕飯も作らないどころか、ご飯も食べられないくらい春子は思いつめていた。
「参ったなぁ。なんで僕が1つ高校落ちたくらいでここまで錯乱しちゃうの」というのが僕の偽らざる心境だった。
とはいえ、都立の受験までまだ1ヶ月弱ある。こんな日々を続けていたら、おそらく春子はどこかで倒れてしまうだろう。そう思えるほど、春子の憔悴ぶりはすさまじかった。
中学3年生なりに悩みに悩んだあげく、栃木先生と出した結論はこういうものだった。
『お母さんの精神面を考えて、都立は安全確実なB校にする』
春子の憔悴はこれをもって収まった。
ところが、良かれと思ったこの選択が後日、猛烈な後悔と母・春子への嫌悪感を生み出す種をまいてしまったことに僕は気づいていなかった。
1ヶ月後、都立高の入試は全く予想もしない展開になってしまったのである。
・ ・ ・
都立入試の結果。
僕の成績はA校の合格ラインに十分届いていたばかりか、安全を期して変更したB高は
なんと定員割れ。従って、B高よりさらに下のランクの高校を落ちた生徒が、グループ合格という措置で続々と入学してきたのである。
(※当時の都立高は、志望校に落ちてもグループ合格ラインという一定の水準に達していた生徒は、定員割れの高校を選択・指定して入学できる制度があった)
「いやぁ、まさかB高入れるなんて思ってなかったわ。つまりは名前書けたらオッケーってことでしょ。ラッキーラッキー」
そんな風に話すクラスメイトの言葉を聞いて、内心途方に暮れた。
「僕の中学での努力はなんだったのか。あの、エキセントリックな母親が騒がなければ、何の問題も無くあこがれのA高に行けたのに……」
人生で初めての挫折だった。
なにより、母親の錯乱を口実に、頂上を目指す道を自ら放棄した、という事実が僕の心に重くのしかかった。
「おまえは結局、戦うことから逃げたんだな」
毎日、満員電車で揺られるなか、天井から囁いてくるのはそんな男の声だ。
黒いもやが胸の周りを漂うような感じがして、教室にいてもなにか落ち着かない。
さらに心の傷口に塩を塗るがごとく、母・春子が僕に見せたのは、予備校の高校1年コースのパンフレットの数々だった。
「聡史くん、B高にしか入れなかったでしょう? だからせめて大学は良いところに入って欲しいと思うの……」
制服姿の男女学生がさわやかな笑顔で青空を見上げている。そんなパンフレットの表紙の数々を見た瞬間、僕の心はダークサイドに支配された。黒いもやが全身を包んだ。
「何言ってんの、このババア。誰が半狂乱になったおかげで、僕は入りたくもなかった学校に通うはめになってるんだぁぁぁぁ」
切れた。
中学まで従順な息子を演じていた僕だが、一度心のたがが外されると、ダークサイドに転落するのはあっという間だった。
そして、その夏、僕は堕落することを選んだ。
学校でできた仲間とテキトーに生きようと決意したのである。
・ ・ ・
ところが、ダークサイドに堕落したおかげで、高校生活は好転するのだから世の中は分からない。
B高は定員割れしていたおかげで、頭の切れる奴も、運動バカも、バンド活動に命懸けてる奴も、遊ぶことには天才的な奴も見事に混ざったていた。
ふたを開けてみたら、具だくさんの野菜ドリアで色とりどりの大きめの具がゴロゴロ。
B高はそんなバラエティー感あふれる学校になっていたのである。
さらに、そんなアホな生徒たちのノリに感化されたのか、それとも定員割れでカリカリと大学受験する奴はいないとタカをくくっていたのか、B高の先生たちも僕たちのちょっとくらいの悪さならそれを容認する、懐の深さがあった。
アホ都立高バンザイ、である。
「俺はバンドで世界を目指す」と言ってはばからない藤田くんは英語や数学の授業中も教室の後ろの席でギターをひたすら練習していたし、アメフト部の高山君は早弁を済ますと午後の授業はフケて部室でひたすら筋トレをしていた。くるくる巻き髪の神野さんは、腰まで届きそうな長い髪をきれいなブロンドに染めて毎日他校の生徒から羨望のまなざしで見られ、演劇部の公演ではいつも人気者になっていた。
僕は放送部に入って、昼休みにラジオDJをし、お葉書紹介コーナーや先生をネタにしたコントをこしらえて各教室から爆笑の声が響いてくるのを楽しみに励んだり、
「体育部の皆様からの要望が多いので、プロ野球日本シリーズを中継します」と言って放課後に全校で流すという快挙!? も達成したり。(これは特に先生方から、よくやったとお褒めの言葉をいただいた)
そんな校風のおかげで文化祭や体育祭はとんでもないくらいに盛り上がった。
(20数年以上経った今だから言えますが、文化祭の打ち上げは都内某町の川沿いのバンガローをクラスで貸し切って酒盛りをするのが伝統でございました……)
不本意に入学し、まるで監獄のような気分で通っていたB高の教室が、毎日朝イチの電車で通いたくなるような愉快な空間に変わるのはあっという間だった。
不遇な環境を嘆いていたって始まらない。偏差値なんて指標くそ食らえ、だ。
おもしろい奴らは数値なんかでは表せない。毎日を楽しくするのは自分たちから動いてナンボ。
自分たちの気持ちと行動でしか現状は変えられないんだ、と気づけたのはB高に入学したという偶然がもたらしてくれたもの。とにかくノリ良く、勢いよく。失敗したって良いじゃない。
全身を覆った黒いもやを吹き飛ばす原動力は、やりたいことを何でもやってやる、という自分自身の心の持ちようだ。
さらにバカをやっても受け止めてくれる仲間がいたことで、黒いもやは完全に吹き払われた。
いーじゃん、おバカで。
おバカだからこそ、やれることってあるんです。
おバカだからこそ、大好きなことにはとんでもない力を発揮できるんです。
B高での3年間でクラスメイトや部活の仲間とおバカをやりながらも、逆に高校でやれることはやり切った、と思えたからみんな、受験モードに入ったら集中力が違う。
おバカはおバカなりに工夫して、仲間同士で勉強会を開いたり、先生を担ぎ出して質問攻めにしたり。ギターの藤田君もアメフトの高山君も最後の4ヶ月間は「人が変わった」と先生が呆然とするほど勉強の虫になっていた。
気が付けば、定員割れ世代だった僕らの学年は、B高史上最高の大学合格者を輩出し、先生たちも目を白黒させる結果をたたき出していた。
結局、どんな結果になっても、最終的には自分が選んだ選択の結果として受け入れるしかない。高校受験のときは「母のために」という理由で自らに負けた。
でも、その状況を受け入れて高校では開き直ったら、自分らしい生き方って何だ、というものをなんとか取り戻すことができたのである。
・ ・ ・
母・春子は自分は中学しか出ていない、というのがコンプレックスだと話していたことがある。
そのため、僕の受験には異常なまでの執念を持っていた、と思う。
小学2年で初めて買った「ドラえもん」の単行本を目の前で捨てられてから、それに従うしかなかった僕。母親の作った型枠通りに固められていく寒天のような、そんな感覚に陥ったこともあった。
とは言いながらも、春子にとっては出来の良い自慢の息子だったのだろう。
そう思えば、中3の時、母は母なりに僕の受験に対してプレッシャーを感じていたのだろう。そして、先にその重圧に押しつぶされたのは母だったのだ。
とはいえ母・春子の錯乱という予想外の事態で、僕は中学3年にして道につまづき、高1にして堕落した。
でも、勉強の成績や偏差値という1つの物差しだけで、世の中を見るような心の狭い人間にならなくて済んだのは、案外、母・春子のファインプレーだったのかもしれないと、今は思っている。
そのことに気づけなかったのは僕がまだ未熟だったせいだろう。
高校に通っている間にそのことに気づいていれば、春子に罵声を浴びせることもなかったのだが……。
反省を込めて、社会人になってから母・春子にその一連の想いを伝えたところ、
「そうか、やっぱりワシャ凄いだろ。先見の明があるな」
とコタツでリンゴの皮をむきながら自慢げにどや顔をしてきやがった。このクソババー(笑)。
あんがい、そういういい加減でテキトー、それでいて打たれ強いところは母の血なのだろう。僕にもそれが結構流れているから、その後勤めていた会社がいきなり倒産しても、貯金が底をついても、そこそこ楽しく生き抜いていける術を身につけられたのかもしれない。
なんてったって、あのとき、奈落の底にたたき落とされたような風情で泣き叫ぶ母の姿を見たとき感じた絶望感以上のマイナスな感情を私はその後味わったことがないですから。
失敗しても不遇でも、おバカに生きていりゃ、人生は楽しい。
母上、あのとき、気をお狂いあそばせくださいまして心より感謝申し上げます。
おかげで、今、僕の人生は充実しています。
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