生まれ変わっても、また私に生まれたい
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記事:藤井彩(ライティング・ゼミ日曜コース)
生まれ変わっても、また自分に生まれたいですか?
今、そう質問されたら迷わず「はい」と答える。 だが、もしタイムマシンがあったとして、3年前の私に同じ質問をすることができたなら、「絶対に嫌」と答えるに違いない。
3年前、私は絶望のどん底にいた。
その頃の私は8年間勤めた歯医者を辞め、その年の2月に、全く畑違いの通信販売の会社に転職したばかりだった。とは言っても別にその仕事がどうしてもしたかったわけではない。
いわゆるOLというものに憧れていたというのもあったが、一番大きな理由は母から逃げるため、実家を出るために、歯医者より給料の良いところで働く必要があったからだ。
とは言っても、母は別に暴力を振るってきたりしていたわけではない。私はずっと母になんでも話してきたし、母も私になんでも話していた。
周りからは仲のいい親子ねと言われ、私もそう思っていた。
母はとてもしっかり者で、よく気のつく人だった。私が考える前に母は私に答えを渡し、私はそれを実行する、そんな人生をずっと続けていた。
そして、そんな人生に疑問を感じることもなく生きていた。
出かける時には、どこへ、誰と、何時頃帰宅するのかと、事細かく聞かれた。
買い物をして帰れば、買ってきたものを全てチェックされ、それについて批評された。母は、私のことを私以上に把握していて、私がやること、考えることは全てお見通しだった。
20代まではうるさいなあと思いながらも、そんな母の干渉を受け入れていた。
年を重ねれば、干渉も減るだろうと漠然と思っていた。
しかし、弟が大学院を卒業し、就職のため家を出て行ってからは減るどころかどんどんエスカレートして行った。そして一向に減る気配のないまま、気づけば私は30歳を超えていた。
いくらぼーっとして抜けている私でも、これはヤバイと思った。このままでは私の人生は母に支配されたままになってしまうという危機感に襲われ、母の支配から逃れるために家を出ることを決めた。そのためには今の給料ではやっていけないと転職を決めたのだ。
恥ずかしながらそれは私の、人生初めての決断だった。
そしてその決断により、私と母の歯車が少しずつ狂い出した。
それまでも、もちろん母と衝突することはあったが、いつも私が折れていた。母には逆らえなかったし、私の中の正しいの基準は母だったからだ。
しかし、この時は違った。もうこれ以上支配されてなるものかと私も必死だった。
母はそんな私の変化を過敏に感じ取ったのだろう。そしてそれを受け入れられなかった。
母は不眠症になり、そのうち、その病名は鬱病に変わった。
父がいない代わりに一家の大黒柱として働いていた母だったが、働くことも難しくなり、日常生活も営めなくなった。
母は本当に強くて、何でも自分でやってしまう人で、また、それができてしまう人だった。自分というものがなかった私にとって、母は憧れの人でもあり、決して追いつくことのできない存在でもあった。
そんな母が病気になってからというもの、別人のように変わってしまった。
あんなに自信に満ち溢れていた人が、何も決められない、何もできない。
自分の基準から外れている人やものに対して厳しく批判していた人が、ひたすら自分を否定する。自分の存在そのものをひたすら否定し続ける。
常に何かに怯えているような表情で、こちらの言葉はまるで耳に届かない。
目の前のこの人が本当にあの母なのかと疑いたくなるほど、まるで別人と化してしまった母に、なす術もなくお手上げだった。
まさか自分の家族が、まさかあの母が鬱病になるなんて。
確かに私は今まで、適当に生きてきた。死に物狂いで頑張ったことなんてなかったし、自分の人生の選択すら母親に任せっきりだった。
だけど、こんな仕打ちを受けなくてはいけないようなことはしていないはずだ。
なぜ私ばっかりこんな目に遭わなければならないのか。
あの頃はいつもこんなことばかり考えていた。
そう、この後に及んで私は自分の人生を人のせいにしていた。
病に伏せる母に寄り添うこともなく、むしろそうまでして私を支配したいのかと憎らしくさえ思っていた。
そして母が鬱病と診断されてから半年、母は亡くなった。
慣れない仕事で終電で帰る毎日。その日もいつもと同じように外で食事を済ませて、ちょうど日が変わる頃、家に着いた。
母はたった一人で亡くなっていた。その母の姿を見た時、取り返しのつかないことをしてしまったと激しく後悔したけれど、もう遅かった。
3年前の9月、まだ暑い日だった。
母が亡くなったのは自分のせいだと自分を責めた。なぜ、あんなに一生懸命生きていた母が亡くなって、自分で何も決められない、何もできない自分が生きているのだろう?私が代わりに死ねばよかったのにとさえ思った。
そうするうちにだんだん眠れなくなってきた。お腹も減らなくなり何も食べたくない。今まで食べることが人生最大の楽しみだったのに、食事は生きるための義務になった。何をしていても心が休まることはなく、心配してくれる友達の言葉も頭の中をを素通りしていった。
「ああ、そうか。お母さんはこんな苦しい世界にいたのか」
初めてあの時の母の気持ちを理解できた。
あんなに強く見えていた母は、私に必要とされていたからこそ、その強さを保っていられたのだ。本当の母は自信がなくて弱い人だった。
私と同じだったのだ。
それに気がついた時から私の第二の人生が始まったのかもしれない。
私にはありがたいことに手を差し伸べてくれる友人や親戚が周りにたくさんいた。そしてヨガがあった。
殻に閉じこもっていた私に辛抱強く声をかけ続けてくれた人たちのおかげで、暗闇の中に光を見つけることができた。
ヨガを学びながら、自信がなくて弱い自分ととことん向き合い、そんな情けない自分を受け入れられた時、その光の中に道を見つけることができた。
今、私は歯医者でアルバイトをしながらヨガインストラクターをしている。
正社員じゃなきゃ働いているとは言えないと思い込んでいた、あの頃の私が、今の私を見たら何と言うだろう。
自信をなくしたり落ち込んだりすることは、もちろん今でもたくさんある。
失敗だってたくさんする。だけどそういう私も全部ひっくるめて私なのだということを知っている。それがあの3年前の私との決定的な違いだ。
母の死は人生最大の悲しい出来事だったけれど、母はその身をもって私に新しい人生を与えてくれた。今度こそ私は自分の人生を生きようと思う。
自分が経験したことをヨガを通じて伝えていくことが、私が第二の人生だと思っている。それは私にしかできないことだ。
だから私は、生まれ変わっても、また私に生まれたい。
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