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プロフェッショナル・ゼミ

「ハズレウシロ」の魔法《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:あやっぺ(プロフェッショナル・ゼミ)

8人に1人が発症。
そのうち、再発せずに完治し、発症前と同レベルまで回復する人は、わずか25人に1人だとも言われている。
これだけを聞いて、病名がすぐにわかる人はどのくらいいるだろうか。

12年前の2005年4月。
母がこの病を発症した。
正確な発症時期は、もう少し早かったのかもしれない。
あくまでも、病名の診断を受けたのが、12年前の4月だったに過ぎない。

その病の名は、「うつ病」。
母はこの時から、約7年間、うつ病患者として生きた。
胃腸が弱く、細身で、体は決して丈夫な方ではなかったが、いつも明るく朗らかで、音楽や本が大好きだった母は、別人のように口数が減り、表情が無くなり、死にたいと口にするようになった。
父は母を入院させた。

母のうつ病の原因は、家族に降りかかった様々な出来事での心身の疲労の蓄積だったのだと思う。
結婚以来ずっと同居してきた父方の祖母が1999年8月に亡くなり、母は長年の介護疲れから解放されたのもつかの間。
わずか1年後の2000年秋。
今度は、父が「骨髄異形成症候群」という難病を発症し、このままでは余命6ヶ月だと宣告を受けた。
家族の誰もが、何かの間違いだと思った。
早くから糖尿病の持病があり、毎月定期的に血液検査を受けていた父は、この時、おかしな数値が出ているから精密検査を受けるようにと言われたそうだ。
精密検査の結果が出て、まさかの余命宣告を受けた後も、父に自覚症状は何一つなく、前後の患者の検査データと取り違えたのではないかとしか思えなかった。

後日、家族全員が呼び出されて、主治医に話を聞きに行くことになったのだが、そこでもまだ信じられない気持ちで話を聞いていた。
どれだけ信じられなくても、病名に間違いはなく、助かる可能性のある治療法はただ一つ。
抗ガン剤で正常な骨髄を取り戻してから、その骨髄を自己移植すること。
それしかないと言われた。成功確率は5割弱と言われた。
幸い、壮絶な抗ガン治療を耐え抜いた父は、その治療に成功した。

父は、病気になって以来、すっかり人が変わったようだった。
やたらと「ありがとう」と言うようになったのだ。
余命宣告を受けるほどの深刻な病自体、決してありがたいものなわけがないのに、父は日々のちょっとしたことに、以前では考えられなかった頻度で「ありがとう」と口に出すようになった。
治療中に大量の輸血を受けたことで、血液だけでなく人格まで入れ替わったのではないかと思ったくらいだ。

しかし、我が家にはありがたいこととは程遠い、困ったことばかりが続いた。
父が最初に余命宣告を受けた頃から、4つ下の弟は家に寄り付かなくなり、大学を休学しギャンブルに溺れていた。
父が亡くなるまでの数年間で、私は何度か暴力を受け、身の危険を感じたことすらあった。
弟は就活につまずき、ひきこもりのような状態だった時期もある。
突然、父の仕事を継ぐと言い出し、電気管理技術者の勉強に励んでいたこともあったのだが、結局いつの間にか姿を消してしまった。

母は、弟がいなくなって間もなく、うつ病を発症した。
私は父と弟を恨んだ。
長年同居していた父方の祖母は、躁うつ病で気性が激しい人だったので、母は家族の誰よりも苦労していた。
私は世間のよくある母娘のように、2人だけで買い物や食事に出かけることはほとんど許されなかった。母か私のどちらかが家にいて、家事と祖母の相手をしなければならなかったのだ。
祖母が亡くなり、ようやく人並みに気兼ねなく母と出かけられる時間が持てると思った矢先に父の病。
父が抗ガン治療に成功した後は、弟の失踪。母のうつ病。
母と娘の楽しい時間は、この先もう一生無理なのかもしれないとさえ思えた。

それでも、私が家事を一手に引き受け、ある意味、親子関係が逆転したような母の世話をする日々は、母が私のところへ帰ってきたようにも思えた。
しかし、約5年後となる2006年夏に、父の病が再発した。
そして、その頃には、既に弟は完全な家出状態となっていた。
私も、まるで家庭内別居のように、両親とは食事を一緒に取らず、ろくに口もきいていなかった。
母は家に一人で置いておける状態ではなく、うつ病と糖尿病の治療という一応の理由をつけて、父と一緒に入院した。

結局、父は2度目の抗ガン治療は芳しくなく、年末には肺炎をこじらせ危篤状態となった。
2007年1月3日、息を引き取った。
父の死後、弟はしばらくの間は家のことをしてくれていたのだが、またもや途中で姿を消した。
母は、父の死から3年ほどは、うつ病が続いた。
その間に、いなくなった弟から母宛に、自殺を考えていろいろ死に方を調べたけれど、死にきれなかったから死ぬ覚悟が決まるまでは、どこかで働くと書かれた手紙が届いたのを見せられた。

長年あんなに求めていた、母と2人きりの水入らずの生活は、息苦しいものだった。
うつ病の母が私の帰宅をじっと待っているのは、仕事の面でも影響が大きく、精神的にもきつかった。
優しく接しなければ病気に悪影響が出るのがわかっていても、できないことが続いた。
母には、弟のことを気に病んでばかりいても、誰も幸せにならないと言い聞かせた。
どこかで人の縁に恵まれて、生きる希望を見つけることを、ただ祈り続けることしかでkない。
それが、自分たちにできる唯一で最善のことであり、皆が一番救われることだと信じていた。

母は、賀茂川の散歩を毎日欠かさなかった。したいことがないからと、一日に何時間も散歩をしていた。アルコール中毒の「アル中」ではなく、歩き中毒の「ある中」だった。
リハビリのつもりで私が勧めた、大学の公開講座として月2回開かれている法話を聴きに行くようになった。
少しずつ気分の良い日が増え、クラッシクコンサートに出かけたりできるようになった。
合唱サークルに入って、毎週歌うようになった。
近所の学童保育の介助ボランティアで、発達障害の子供たちのお世話をするようになった。

2011年頃から、母は驚異的に元気を取り戻した。
長年、家族の介護・闘病・死、自身の心身の病でいろいろ苦しんだ分、これから第2の青春を謳歌するのだと、ようやく思えるようになったと母は言った。

ある日の夕食時に、「私の人生、まさか第3楽章があったとは……」

と嬉しそうに話す母に、

「アンコールまであるかもしれへんから、ますます鍛えて準備しとかなあかんな」

と切り返した私。

その時のやり取りを、母は、児童館でのボランティアで話したらしく、職員の皆さんから感動・感心され、拍手喝采だったと話してくれた。
母がクラシックコンサートに例えて発した言葉に、同じくコンサートに例えて、アンコールという表現で返したまでのことだった。別に笑いを取る必要もないのだが、単に相槌を打つだけではつまらないので、多少のユーモアは添えただけだった。

何がそんなに感心されるのか、何とも不思議で正直ビックリでしたが、心から人生を楽しみ、その日々の母娘の会話が、周りの人にまで笑顔や感動をおすそ分けできているのだとしたら、娘としてもこんなに嬉しいことはないと思った。

「3年経ったら、きっと元気になれるから」

と、夫に先立たれた友達に励まされた言葉が、本当だったとしみじみ思うと、母は言った。悲しみや苦しみを乗り越えた先に見える景色は、きっと絶景だ。
それは、雨上がりに架かる虹のように。
そんな景色を、母とともに、たくさん見たいと心から思う。

人間万事塞翁が馬。
父の病と死、そして母の病と復活。
私はこれらのつらい出来事から、本当にたくさんのことに気づかされ、学ばせてもらったと、今では感謝している。

3年ほど前、とある懇親会の席で、たまたまお隣の席になった初対面の男性とお話ししていた時のことだった。
私が、月2回学んでいる事業家仲間の私塾のことを話題にしたところ、そこで学んだ中で
一番勉強になったことは何かと尋ねられた。
正直、一つに絞って答えるのはめちゃくちゃ難しいなと思い、とても悩んだ末に出てきたのが、

「感謝レベルを深めることの重要性。塾は、自分の感謝のレベルを、毎回チェックできる場。」

ということだった。
私が答えるまでは、割と共感して聴いて下さっていた相手の男性は、私の答えを聞いた後、どうも納得がいかないような表情に変わられた。
そこからは、お酒を飲むのもそこそこに、「感謝とは?」のような熱いトークが延々と繰り広げられることになった。

この男性Aさんは、「感謝しています」を簡単に口にする人の言葉が、嘘くさく聞こえて信じられないとおっしゃった。
例えば、「あなたに会えて良かった。本当に感謝しています」と言われても、社交辞令で言っているだけにしか思えない。
自分は「ありがとう」は言えるけど、「感謝しています」とは軽々しく言えないとおっしゃった。

昔の私は、まさに同じようなことを思っていたことがあった。
スポーツ選手がインタビューなどで、家族や関係者に感謝の言葉を繰り返すシーンを見ていて、本当に心から思っているのだろうかと疑問に感じていたこともあった。
今思えば、ものすごく失礼なことなのだが、好感度アップを狙って言っている人もいるのではないかと、勘ぐっていたこともあった。
そんな風に思っていた自分が、今ではとても恥ずかしい。

私自身、自分で企画・主催したイベントを通じて、嬉しいことや悲しいことをいくつも経験した中で、感謝のレベルが深まっていく感覚を覚えるようになった。
自分で、感謝以外に言葉が浮かばない状況を何度も経験して、初めてスポーツ選手などの気持ちが、自分にも少し理解できたような気持ちになったのだ。

私は、Aさんに、自分も実は昔は同じことを思っていたと正直に伝えたうえで、どうすれば嘘くさく聞こえなくなるか、相手が本気で言っていると思えるようになるかについて語った。

「ここでは、第三者として他人の会話を聞いている時ではなく、自分自身が相手から『あなたに会えて本当に良かった。感謝しています』と言われた場面を仮定します。
もし、自分自身が、いつどのような時でも、目の前の人に全力で、理想的な最高の自分で、素晴らしい対応ができている状態であれば、相手の方が本気で感動して、心から感謝していると言われても信じられるのではないですか?」

私は熱く真剣に語った。
そして、さらにこう続けた。

「今、現実にできているかどうかはともかく、常にその究極を目指して目の前の人に接するよう、意識を高く持ち続けたいと思います!」

Aさんは、最初よりもずいぶんと納得したような表情になられた。

私が月2回学んでいる塾では、毎回、各塾生が、「あり方・感謝・貢献」を盛り込んだ活動発表をしながら学びあっている。なぜ、「感謝」や「貢献」を話すのか ということについて、以前、塾長は以下のような理由を話してくださった。

「成功状態になった時(すなわち、自己実現した時)に、当たり前にできていることを
先取りして、毎回発表している」

のだと。

どんなことにでも感謝でき、自分のあり方を通して、世の中のお役に立っている。
という状態になっていれば、嘘くさく聞こえることはもう無いはずだ。

そういえば、【ありがとう】の反対語は、【ごめんなさい】ではなく、【当たり前】なのだという話を聞いたことがある。

嬉しいことをしてもらって感謝できるのは当たり前。
もちろん、そんな時に感謝を伝えないのは論外だ。
どんなに悲しいことや試練があっても、全ては自分を成長させるために起きていることだと感謝して受け止めることができると、次のステージへと進めるのだ。
本当に大きく成長するためには、感謝のレベルを上げていくことが欠かせない。

とはいえ、いくら頭では分かっているつもりでも、弱い人間なので、次々に試練が与えられると、感謝の気持ちを持ちづらいこともある。
無理やりに頭だけで思い込もうとしても、心が納得していなければ消化不良を起こしてしまう。

そんな時、私はちょっとした「コトバ遊び」をするようにしている。
どうしてもすぐに「ありがとう」と言う気分にはなれない時は、【ハズレウシロ】と呟いているのだ。
新種の生物の名前などではない。私が考えた造語だ。
「ありがとう」の反対が「当たり前」なら、「アタリ・マエ」の反対は「ハズレ・ウシロ」と呼べるのではないか?
という、ちょっとしたなぞなぞのような、私流の遊びゴコロ翻訳である。

こんなややこしくて、他人から理解されない言葉を呟いているうちに、もやっとした気持ちがだんだんと無くなり、素直に「ありがとう」と口にした方がいいという気分になってくるから不思議だ。
「ハズレウシロ」の魔法を、ぜひお試しあれ!

***

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