プロフェッショナル・ゼミ

受け取ったものを、次に渡す。人生って、そういうものなのかもしれない《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:ノリ(プロフェッショナル・ゼミ)

「この、人殺し!!」

それまで神妙な顔をしていた女は、列に並ぶ私を見つけるなり鬼のような形相でそう叫ぶと、ツカツカとこちらに近寄ってきた。髪をつかまれて、あっという間に倒された私に馬乗りになって顔をぶつ女の後ろから、たくさんの人が駆け寄ってくるが、女は私をぶつ手を止めない。
――なにこれ? ドラマ?
私は床に強く打ちつけてぼんやりする頭で、真珠が飛び散るのを見ていた。

「これちょっとワケありでさ、急ぎなんだ」
「急ぎって、いつまでですか?」
「うーん、なんとも言えないんだけど……なるべく早く! 頼む!」
「なるべく早くって……。どの仕事もそうじゃないですか!」
部長が私の机にやってきたときは、またまたせっかちなお客様がやってきたと思った。

私は小さな印刷会社で、「ページもの」の編集を担当している。「ページもの」というのは、チラシやポスターなど、一枚ものの印刷物「ペラもの」に対して、ページがつづられた冊子の形になっている印刷物のことをいう。
冊子、とは言っても、地方都市の小さな印刷会社だ。書店の店頭で見るような「本」ではなく、会社案内や学校案内、製品カタログや、団体の記念誌、事業報告をまとめた冊子などを扱っている。そんな中で私が担当しているのは、一番「本」らしい姿の「ページもの」、自叙伝、いわゆる自伝だった。

「え! またですか?」
「そうなんだよ、頼むね!」
大きな地震があった影響もあるのだろうか。震災前は、せいぜい年に2、3本の受注だった自叙伝が、ここ数年、月に一度は見積もりや相談など、何かしらの話が持ち込まれるようになった。私はいつも印刷物のデザインや、印刷データを作る仕事をしているのだが、自伝のオーダーが入るときにたまたま手隙だったことから、いつの間にか社内の自伝担当になっていたのだった。そのうち、ライターの経験もあるからと、編集も合わせて頼まれるようになり、いつしか、社内でこう呼ばれるようになっていた。

自伝屋。

「もう! やめでくださいよー!」
からかわれるたびに、私は困っていた。だって、ダサすぎる。時代劇? ラーメン屋? それとも骨董品屋? そしてそんな名前、みんなすぐに飽きるだろうと思っていた。しかし、自伝のオーダーが増えていることで、私が担当する機会は増える一方だった。ついに部長は面白がって、どこで作ってきたのかご丁寧に木彫りのプレートを用意してくれ、私の机の前に、みんなから見えるよう、掲げてくれたのだった。

「自伝屋・大森」

まいった。これにはまいった。自伝屋なだけでなく、私の名字までもが入っているではないか。しかし、木彫りになったその文字を見ていると、かっこ悪いと思う反面、まんざらでもない気持ちも湧いてくる。これまで「デザイナー」だとか「編集」だとか「ライター」だとかの肩書きを名乗ったことはあるけれど、「自伝屋」とは、ちょっと、面白いじゃない。
ジデンヤか……、悪くないかも。自伝を売る人? いや、自伝自体はその人のものだ。「自伝屋」である私は、その人が自伝を作るための伴走をするようなものなのかもしれない……。気がつけば私は、「自伝屋」としての自覚を深めているではないか。それは、名前をつけられることで、新しい商品に命が吹き込まれるのと似ていた。
――ああ、部長め。
彼は、そんな私をしっかりとわかっていらっしゃるのだった。

そんな私の「自伝屋」に、部長から「なるべく早く!」という、「ワケあり」のオーダーが入る。
――どんなせっかちなお客様なんだろ。

最近、中学や高校で「自叙伝を書こう」という宿題が出されると聞いた。しかし、自叙伝は基本的に、晩年、人生を振り返って作るもの。印刷する部数にもよるが、まとまったお金も必要になる。だから、お客様のほとんどは、余裕のある高齢の方だ。

言いにくいことだが、クセのある高齢の方は多い。そして「自分の人生を自伝にしたい」、そう思う人は特にクセが強いかもしれない。「自伝屋」の看板はできたてほやほやだけれど、これまでの経験で、それなりに苦労はしてきたし、ちょっとやそっとのクセの強さでは、私は驚かないでいる自信はある。しかし、部長の様子はいつもと違っていた。

「それが、打ち合わせの場所なんだけどさ……」
考えてみれば、高齢のお客様を相手にしながら、今までこうしたお客様に会わなかったのは、奇跡的だったのかもしれない。私が出向いた打ち合わせ場所は、会社の応接室でもない、お客様の自宅でもない、仕事場でもない、大学病院の病室だった。

岡野光男さん、65歳。病院の個室のベッドで、挨拶を交わした優しそうなおじいさんは、地方の進学校から、東京の大学を出て、材木店に就職。地元の父親の危篤で田舎に戻り、建築会社を継ぐも、倒産。苦労の末に、自分の建築会社を設立。最近、一人娘に社長職を譲り、自身は会長職に就いていた。

自伝を出したい。

そう決意する人には、その人なりのタイミングがある。60や70歳といった年齢の節目に、それまでの人生を振り返る人。中途半端な歳だなあと思ったら「親父が死んだ歳を越えたから」というお客様もいた。
一番多いのは、ある仕事を辞する、会社を退職するタイミングだろう。それまでの職業人生を振り返ってまとめ、退職記念品として配る人もいる。岡野さんも、ちょうど社長の職を娘に引き継いでいた。そして岡野さんにはもう一つ、今しかない、理由があった。

末期のすい臓ガン。

私が病院に呼ばれた理由だった。彼の余命は、半年ないという。放射線治療は続けているものの、聞けば、彼の入院する病棟は、治療のための病棟ではなかった。「緩和ケア」と言って、穏やかな最期を迎えるための処置が施される病棟だった。

部長の言葉の真意を知った私は急いだ。
とにかく急いだ。
他の仕事の依頼がなかったわけではない。けれどこっちは、冗談でもたとえ話でもなんでもなく、本当に「命」がかかっている。仕事はできるだけ他の人に振ってもらい、どうしても私が関わる仕事に関してだけ、少しでも予定を引き延ばしながら対応していた。

「講演会で話した内容を、本にしてほしい」
自分で書きたい人が圧倒的に多い自叙伝の依頼の中でも、岡野さんのオーダーは少し変わったものだった。しかし、病気のため、あまり長く打ち合わせ時間が取れなかった私にとっては、講演会のテープを本に起こすという作業は、かえって都合がよかった。彼の話し声を存分に聞き取ることができたからだ。

話し方の癖からキャラクターをつかみ、性格を読み取り、文章の言葉遣いに生かす。話していることの内容を整理し、章にまとめ、全体の流れを組み立てる。全体を通して、岡野さんの思いが通じるか、伝わるかを考え、調整する。

「ハウスメーカーに負けないように、工務店や大工さん、職人さんへのエールにしたい」
「日本の伝統でもある木造建築、木造住宅に携わる素晴らしさを伝えていきたい」
そんな岡野さんの思いを伝えるのには、この順番でいいだろうか。
この内容でいいのだろうか。
この言い回しはどうだろうか。

本来なら、こうした内容について、お客様と何度かすり合わせをするところではあるが、今回の状況ではそうはいかない。私は自問自答を繰り返しながら、具体的な技術から、職人さんに伝わる知恵、哲学的な思想まで、岡野さんが木造建築に関わった人生の中で得たことを、まとめていく。

テープ起こしが終わった後も、私はたびたび彼の講演を聞いた。知りうる限りの彼の思いをすべて、私の中に取り込んでやろうと思ったからだ。そして一文字でも多く、原稿に出し切ろうと思ったからだ。
毎日があっという間に過ぎていった。私は椅子に座っているだけなのに、いつも息があがっていた。常に原稿用紙の上で全力疾走をしている思いだった。

――そうか、社長を譲った娘のために、まとめたいんだな。

毎日原稿に、そして岡野さんの人生に向き合う中で、私はふと気がついた。表向きは工務店や大工さんの応援とは言っているけれど、やっぱり一人娘はかわいいのだろう。社長として活躍する姿を見守るためにも、自伝を出したかったに違いない。仲のいい親子なんだな。そう思った。

「よくやってくれた!!」
仕上がった原稿は、単行本にして約200ページ分に及んだ。うかがった病室で岡野さんは私の手を強く握って、労をねぎらってくれた。彼の手は骨ばって細く、そして少し冷たかった。私はいくつかの訂正を持ち帰り、岡野さんにはあとがきを書いていただく約束を取り付けた。
「では、来週の金曜日に、おうかがいしますね」
「待ってるよ」
岡野さんはベッドの上で小さく手を振っていた。

「大森! 大変だ!」
水曜日、会社にかかってきた電話は、岡野さんの死を知らせるものだった。
正直、早い、そう思った。
しかし、覚悟はしていたことだった。私と部長を驚かせたのは、早すぎた死ではなかった。

岡野さんは、家族に内緒で自伝の制作をすすめていたのだった。そのため、自伝を作ることが体にさわったのだと家族、特に社長を継いでいる娘が激怒。原稿は破棄、制作にかかった金額も支払わないと言いがかりをつけてきた。
「あとがきは……」
「本の完成は……」
「そもそも岡野さんの思いは……」
私はいろんなことが気になって頭がいっぱいになったけれど、まずは故人を弔いたい。
部長と先方との間で、まったく折り合いがつかない話し合いが行われている様子をうかがいながら、なんとか情報を聞きつけ、葬儀へと潜り込んだ。そこまではよかった。
一度、病院の廊下ですれ違った私の顔を覚えていたのだろう。お焼香する時間になって、私は喪主をつとめていた岡野さんの娘に見つかり、殴りかかられたのだった。

「岡野礼子です」
ちょうどベッドに空きがあったそうだ。頭を強く打った私は、精密検査のために入院していた。二日目の午後に、その女はやってきた。私を葬儀で殴った女、岡野光男さんの娘だ。

お互いに小さく頭を下げた。私は無言で、ベッドの脇の椅子を勧めた。腰掛けてしばらくすると、礼子は重い口を開いた。
「父は死んだ時、ペンを握っていました」
そんなことだろう、と、私は思った。
「書きあがったあとがきの横に、父の字が、こう、あったんです。『オオモリサマ、アトハヨロシク』って」
「できてたんですね。あとがき」
ホッとした私を見ると、礼子はいらだちを強めた。
「……なんで、なんで、あなたなの!?」
礼子は震えている。
「それはあとがきを……」
「許せない!」
「えっ?」
「あの人は、父は、パパは、人生の最後に、ママでも私でもなく、あなたのことを考えながら死んだなんて!!」
「そんな」
「私はくやしくてくやしくて!!」
――ああ、この人はきちんと、お別れができなかったのかもしれない。
「……バカですね。礼子さんは」
「岡野さん、いや、光男さんの原稿、読みましたよね?」
礼子は小さくうなずく。
「私は確かに光男さんの人生を一度、この体の中に通して、それからこの原稿を書き上げました。ほんの一ヶ月くらいの間でしたけれど、私は完全に光男さんでした。いや、光男さんよりも光男さんそのものになっていたように思います。しかし、私は自伝屋です。主役は光男さんと、光男さんの思いを受け取る人。私はその横で、応援しながら走ってきただけです。この本が、本当は、誰のためにかかれたのか、礼子さんならわかりますよね」
私は礼子が持ってきていた封筒の中から原稿を取り出した。一番上の紙に印字されているのは、駅伝が好きな光男さんの希望でつけられた自叙伝のタイトルだ。私はそれを、礼子の元へと差し出した。

「木造建築――未来への襷(たすき)」

礼子は私のベッドの足元の布団に顔を伏せて泣き出した。

――あーあ、世話の焼ける親子。でも、これでやっと、お線香上げられるな。
礼子の嗚咽を聞きながら、葬儀を途中で抜けざるを得なかった私には、それだけがうれしかった。

「ねえ、『ジデンヤ』って、なに?」
ひとしきり泣き終えた礼子が聞いてきた。
「え? そこ聞いてました?」

その後、無事原稿は印刷に回され、光男さんの自伝は完成した。そして少し遅れてしまったけれど、光男さんの希望通り、葬儀に参列したすべての人の手元へと届けられることになった。
そして彼が誰よりも一番、襷を渡したかったであろう、礼子のデスクには今、光男さんの写真と一緒に、本が飾られている。

――人生って、受け取ったものを持って、行けるとこまで全力で走って、次に渡す。そういうものなのかも。

岡野さんの襷は、いつの間にか私の元にも届いていたようだ。
私は「自伝屋・大森」の仕事が、ちょっと誇らしく思えていた。

※この話はフィクションです。

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