メディアグランプリ

ちょっぴり面倒くさくて恋しい、無限ループの日々


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記事:くもとゆき(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
「あのー、大家の中田やけど、水道代は部屋のポストに入れといてな」
「ああ、はい。仕事から帰ったら入れておきますね」
知ってます。何せ本日3回目のお電話ですから。そんな言葉をぐっと飲みこんだ。
困ったな。大家さん、ボケてるんじゃないだろうか。
 
メゾンナカタは私が探していた条件にぴったりの物件で、不動産屋さんでは初めからメゾンナカタ指名で行ったので、契約まではとてもスムーズだった。
「ここは管理会社を挟んでいなくて、大家さんが直接管理されているマンションです」
という不動産屋さんの説明も、その時は深く考えていなかった。
「水道代は大家さんがまとめて払っているので、2か月に一回、大家さんの部屋のドアポストに水道代を入れてください」
という説明も、昭和っぽくて風情があるなあ、くらいにしか思っていなかった。
大家の中田さんは70代くらいの可愛いおじいちゃんだった。
 
仕事終わりでスーパーに寄って家賃を振り込んだ。期日の月末まではまだ余裕がある26日。買い物中にケータイにまた着信。両手が塞がっていて1回目は出られず、2回目に何とか出ることができた。
「大家の中田やけど、水道代のことなんやけども……」
「今から帰りますから、部屋のポストに入れておきますね」
「そうですか。おおきに」
家に帰るまでにも何回か着信があったけれど、出ずに放っておいた。着信履歴に「中田やすし」の名前がずらっと並ぶのはちょっとしたホラー。家族でも友人でもない。私が住むマンションの大家さん。少しでも恐怖を和らげるために親しみを込めて、私は彼のことをこっそり「やすし」と呼ぶことにした。
 
これで電話もなくなりますように、と、マンションに帰り着いて水道代の入った封筒をやすしの部屋のドアポストに投函した。やすしは別に家があるのだけれど、マンションの一室を仕事部屋のようにして使っているそうだ。
 
お風呂から上がったところでダメ押しの電話。
「大家の中田やけど……」
何回も聞かされた言葉が続いたので、さっき帰宅したのでドアポストに入れておきましたよ、と伝える。
「ああ入れてくれはったんか。おおきに。ほんならまた確認してみるわ」
 
これで電話の無限ループから解放される。そう思って翌朝出社した私だったけれど、賃貸の神様は私にそんな平穏を与えてはくれなかった。昼休憩の少し前にケータイにやすしからの着信があったのだ。水道代受け取った確認の電話かな。そう思って昼休憩の時間に折り返してみた私は、やすしの言葉に膝から崩れ落ちそうになった。
「大家の中田やけども、くもとさん、水道代は家賃と一緒に銀行に振り込んでくれたんやろか」
「ええと、家賃は昨日、銀行振込しました。水道代は、ちゃんと部屋のドアポストに入れましたよ」ゆっくり、一語一語、噛みしめるように伝える。
「そうですか。すんまへんなあ。もう一回確認してみますわ」
 
やばい、ウチのマンションの大家さん、ボケてるかもしれない。
昼休憩でそんな話を部署の女の子たちにしてみたらみんなやすしに興味津々で、あっという間にアイドル的存在になってしまった。この職場に転職して2か月、やすしのおかげで同僚たちと今までより距離を縮められたような気がした。
仕事中で出られなかったけど午後にもさらに二回、やすしからの着信があった。
 
夜に電話してみて分かったことは、やすしは別の部屋の住人と私を間違えて認識していたようで、その別の部屋の住人が水道代の支払いを忘れていたことが無限ループの原因だったらしい。そりゃあいくら催促しても水道代が来ないわけだ。
 
やすしの中でやっと万事解決したのか、それから電話はぱったりとなくなったのだった。
 
新居での暮らしに慣れたころ、母が遊びに来ることになった。車で来るというので、やすしに電話して敷地の駐車場で来客用のスペースはあるかと尋ねた。やすしは優しく教えてくれたので、私は丁寧にお礼を言って電話を切る。ふと水道代騒動の無限ループがフラッシュバックした。うん。なんか嫌な予感がする。
 
案の定、である。数時間後、やすしからの着信。
「大家の中田やけども、くもとさん今日電話くれはったやろ? あれ、何の話やったっけな。申し訳ないんやけども忘れてしもうて。大事な話やったらいかんからかけ直したんやけど……」
来たー! 予想通りの展開! おかしさから笑いがこぼれてしまう。
「来客用の駐車場のことでお電話して、中田さんから教えていただいたのでもう大丈夫ですよ」
「そうですかあ。すんまへんなあ。宜しくお願いします」
 
数時間後。
「大家の中田やけども、くもとさん今日電話くれはったやろ? 何の話やったっけな。申し訳ないんやけども忘れてしもうて。大事な話やったらいかんから……」
「来客用の駐車場のことでお電話して、先ほど教えていただいたのでもう大丈夫ですよ」
「そうでしたか。すんまへんなあ」
 
更に数時間後、着信2回。
いけない、また無限ループにはまりこんでしまうところだった。心を鬼にしてその日はやすしからの電話に出ることをやめた。別の急ぎの用件で電話がつながらないなら近所のやすし邸から駆けつけてくるはずだし。結局数回の不在着信を残して、やっと無限ループへの誘いは終了した。
 
私がメゾンナカタに入居して2年半が経った。私は今、段ボールの山に埋もれながらこの文章を書いている。来週に引っ越しを控えているのだ。
 
1か月前に退去したい旨をやすしに伝えた。管理会社を挟んでいるのなら解約通知書のフォームがあるのだろうけど、管理会社を使用していないメゾンナカタの契約書には1か月前までに通知すること、としか書いていない。電話口のやすしによると、口頭での通知で全く問題ないとのことだった。いやいや、口頭で全く問題ない、なんてそんなわけない。絶対に「退去日はいつやったっけなあ」の無限ループに巻き込まれるに決まっている。そのトラップに気付いた私は、ネットで解約通知書のテンプレートをダウンロードして2通作成。やすしからも押印してもらいその内1通を彼に渡した。さすがに2年半住んでいれば、無限ループ対策も慣れたもの。そう思っていた。
 
「大家の中田やけども、くもとさん、退去日はいつやったっけなあ」
やすしの前では解約通知書も効力を発揮しなかったのである。
 
「17日ですよ。先日解約通知書渡したので見てくださいね」
「ああ、そうでしたか。おおきに」
この無限ループから抜け出して私は新生活を始められるのだろうか。若干の不安に襲われながらも、粛々と引っ越しの準備を進めた。無限ループには囚われたままで、解約通知から数日間は毎日のように「退去日はいつやったっけな」の電話がかかってきた。
 
「退去日は17日で合ってたやろか」
いつからか、電話の頻度が3~4日に一回になり、内容も「いつやったっけ」から「17日で合ってたやろか」に変わっていった。
「17日で合ってますよ。どこかにメモしておいてくださいね」
「メモしてあるんやけど、合ってるか不安になってしもうて。17日やね」
 
退去まで2週間となると、その電話すらかかってこなくなった。解約通知書を渡しているのだからそれが当たり前なんだけれども、あの面倒くさかった無限ループの日々が今では少し恋しくなっている自分がいる。おそらく私の人生、最初で最後の大家さんが身近な生活。無限ループの日々という、ちょっと変わった2年半を体験できて良かったと今では思う。やすしにはこのまま長く大家さんを続けてもらいたいなあと願い、同じく無限ループの日々に暮らすメゾンナカタの住人たちの今後の幸せも願わずにはいられない。
 
でもきっと、退去が完了して諸々の費用精算が済むまではまだ油断ならない。
「大家の中田やけども……」
最後の無限ループを、ちょっぴり期待している。
 
 
***

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2017-07-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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