メディアグランプリ

私は無意識のカメレオンだった


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記事:マキ(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
うぃーん、うぃーん、うぃーん。
体の調子に異変を感じたヒロインが両手をあげた状態でCTスキャンに吸い込まれていく。
内臓の状態を360度しっかり検査されていた。そしてお決まりの医者とヒロインが話すシーンにかわった。

映画の半分の時間は1人しゃっくりあげてまで涙しながら見た映画、「湯を沸かすほどの熱い愛」の1シーンである。この映画は分かりやすい展開で心の描写が丁寧で共感できるシーンが多くタイトルと内容が絶妙だった。

たまたまこの映画を続けざまに見ることになった。転居と転職ダブルパンチの友人を訪ねて久しぶりの福岡を訪れ、前日共通の友人お勧めで見た映画が良かったと連呼していたら2回目をその友人と5件の博多の夜の店をめぐった後見ることになった。友人の反応を横目でこっそり見つつ、のめり込まずふんわり楽しんでいた。2回目はなぜかこのCTスキャンのシーンで360度見られるというイメージが頭にこびりついていた。それはおそらくその日友人とさらけ出すことや伝えることについて話したからだった。

福岡の友人は新卒から10年以上勤めた会社を辞めて転職しカルチャーショックで今とても苦しい時期にいる。カルチャーショックの1つ目は社内のFacebookでさらけ出すことを求められるからだという。社内のスケジュール管理がGoogleカレンダーではなくて、Facebookの非公開ページで行われる。

転職初日そこで顔写真を出して自己紹介文を掲載し各拠点からコメントが来る。外出時はそこで株式会社〇〇さんにところに打ち合わせに行ってきます。と書く。いってらっしゃいと温かいコメントが皆さんから来る。もちろん会社メンバーとはFacebookで全員お友達となり休日もいいねをしあうようになる。これがもともとFacebookで日々をさらすことが苦手な彼女の第一の関門だったのだ。

「うわー。わかる。それ。私も苦しいわ。それ」
「せやろ」
彼女とは共通点が多く私は心から共感した。

「あのさ、360度自分を人にさらけだせる?」
「そんな体に自信あるわけないやん」
色白でふくよかな胸の持ち主の友人はボディラインのほうの意味に受け取ったようでこそばゆそうにはにかんだ。
「ちゃうちゃう。そういう意味じゃなくて。例えば、学生時代の友達、会社の同僚や取引先、勉強会とか習い事で出来たコミュニティとか、親兄弟、ごはんやさんでたまたま仲良くなった人とかどこの誰とも自分は同じでどこから見られても平気?」
「……」

「私は平気じゃなくて、FacebookとかTwitterとかだんだんアップできなくなった。で、それぞれのコミュニティで出会った人同士をあわせてもその人たちはなんかテイストが違うから仲良くならんと思うねん。だからそれが出来る人ってすごいなと思う」
と私は初めて人にそんな話をした。

「うわー。そんな気がする。どこでもその場に合わせようとするからやんね。ほんまの自分を全部知っているのは自分だけってことでしょう」

ほんまの自分を知っているのは自分だけ。そんなかっこいい話ではない。私はただのカメレオンだった。その場その場で無難な自分がいる。意識的にしているわけではないが気がつけばいつの時代もコミュニティによりちょっとずつ自分がちがうから自らそうしているのだろう。自分の意見とコミュニティでのキャラクターのずれが大きくなると苦しくなる。

Twitterを始めてしばらくは自由につぶやいていたけれど、ある勉強会で出会ったメンバーにどんどんフォローされると仕事で驚いたことや愚痴や世の中に対する考えがつぶやけなくなった。気が付けば面白いもの、きれいなもの、美味しかったもの無難なもので埋め尽くされついにつぶやきは1年以上なくなった。

Facebookが日本で広まり始めた頃どんどん友人が増えていきプライベート専用でたまに休日についてアップしていた時期があったけれど、友達の友達が会社関係だと気がつき、別々のコミュニティの友人同士が実は友達だったなんてことが続々と見え出すともうどんどん自分を見せられる範囲は狭くなり私はついにいいねと遠方の友人とのメッセージのやり取りだけをする人になった。

「今の転職先の会社で言われてんけど、目標に向かって努力することも大事やけど、そのまんまでもいいのだということをまず自分が受け入れなあかんしある程度自分をさらせなあかん」
「わかるけど難しいよね。それ」
「うん」

もはやどちらが悩みを聞いて元気づけようとしているのか分からなくなった。

スイッチが入っているときは必要となればカメレオンのようにくるくるとその場に合わせられる範囲で合わせていくこと。器用でいいじゃないかという人もいる。時と場合によってはとても大切なことだと思う。私はどこでも無意識にそれをしてしまい考えを明確にすべき場でその場で求められているだろうことと違う意見がある場合言いだせなくなる。

仕事の場では意見を明確に伝え推し進めることが増えている。相手にできるだけ寄せる私を知る人々はそんな私にであうと、え? となっているのを感じる。

360度どこから見られても健康的同一のキャラクターの人なんていないだろう。素でどの角度からみても同じ人格である人は素晴らしいと思う。もしくは仕事上自己ブランディングが十二分に出来ているのだと思う。どこかでそれを羨ましく思うけれどもそうなるまで自分をさらせないのならほとんどの人は一生人に自分をさらせないような気がする。

いろいろな側面があって1人の人間だと思う。さらすことが出来ている人たちだって多様な側面を持っている。私との違いは時と場によって異なる役割をこなす中で日々の想いを分かりやすく表現できていてどの側面にも上手くつなぎ目があるように思う。厳しい側面も優しい側面も強そうなのも弱いのも出来る部分も出来ない部分もその人自身なのだ。

同じ時間を共有していてエピソードを知っている人達以外には私は人が聞いたら面白くもなんともないだろう話や重たい気持ちになるだろう話、自慢だと取られるかもしれない話はしたくない。でもそのエピソードを話さなければ、伝えたいことに説得力がでないことや話を広げられないこともある。今はまだ相手にとってプラスではない部分を取り除いてわかりやすくもしくは面白く共有できない。

自分の感じたことをどれだけ同じ温度で人に伝えられるか、相手を思ってわかりやすく表現できるかとういことを常に意識するようになった。

今の日本の平均寿命を考えると自分の人生の折り返し地点もそう遠くない未来になってきた。360度どこから見られてもよいは苦しいけれど無意識のカメレオンからチラリとでも時や場所相手を問わず考えや経験を分かり易く言葉や文章にできるようになりたいと思う。そうすれば少しずつ人生が変わる気がする。

 
 
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2017-08-04 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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