思うぞんぶん失望せよ、暗転すれば場面が変わる
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:中村美奈子(ライティング・ゼミ 平日コース)
「倒産することになった。給料も払えない」
私が退職する二日前。たった三人の社員が揃った朝、その学習塾を経営する社長は言った。
子どもたちはどうなるの? 塾は社長のものではなく、通っている生徒のものなのに。
真っ先に私は思った。この個人指導の学習英語専門の塾で、中高生をメインで教える仕事に就いていたのは、ほんの一年間のことだった。
社長の考え方に入社直後から不信感しかいだかなかったにもかかわらず、なぜ働き続けるのだろうと思いながら、飛ぶように日々が過ぎていた。生徒一人ひとりに情がわき、この子たちが合格するのを、進級するのを、見届けようと思ってしまっていたからだ。
しかし、次の仕事が決まり、引き継ぎのメドを立て、あと少しでここを離れる、と思った矢先、経営が立ちゆかなくなったことを、二月のこの日、打ち明けられた。
70歳の社長は、自分の人生の全てであるこの城を、閉じることで頭がいっぱいだった。
給料は随分前から遅れていたし、完全に見通せていたはずだ。まわりに負担の少ない終わらせ方をする踏ん切りがつかずこうなってしまったに違いない。
生徒たちのことを、だって仕方がないだろう、と思っているのが伝わってきて、私は怒りを抑えられない。体が震えてくる。
「塾閉鎖のお知らせの手紙、文面を打ってくれないか?」
いつもの事務仕事のように言う。
「いやです」
ぼんやりした頭で私が返すと、いつも穏やかだった年配女性の先生が、
「それだけは社長の直筆で書くべきです」と強く言った。
私はキャパオーバーになりそうな頭を、必死で回転させた。
これまで感じたことのない、やり場のない怒り。何度も爆発しそうになった。
あともう少しで期末試験だと泣きそうな顔、入学式だと笑っていた顔が思い浮かぶ。
十代のこの時期に、裏切られた、という傷として刻まれやしないか。
それだけが怖くてならない。
勉強の指導を頼っていたのに、という物理的な不都合もあるだろうけれど、いてくれると思っていたものがある日突然姿を消すことの、心への打撃のほうが大きいのではないか。
誠意だけ、何とか伝えられないだろうか。もちろん怒りは大きいけれど、塾は前触れもなく消滅したけれど、これまでもこれからも、あなたのことを応援していることに変わりはないのだと。
それは私のエゴであったとも思う。
でもせずにはいられなかった。
私は受け持った生徒と親御さん全員に宛て、それぞれに手紙を書いた。
状況と、調停が行われる見通しの時期も含め、綴った。
そのうち数名の母親から返事がきた。
「ただただ驚いております」「これから大事な時期だったのですが・・・」
戸惑いを共有できたことにまずはホッとしつつも、もっと怒り狂ってくださってもよいのですよ、と私は胸の内で思っていた。
そして、塾に対する期待が大きかったと思われる生徒や、返事の来ない生徒のことが、無理もないよと思いながらも、気になってしかたがない。
家では全くしゃべらないのに、先生のところではたくさん話してくるようで、貴重な場所なんですと、こっそり話してくれたお母さん。徐々にやる気を見せ始めていたあの高三女子はどうしているだろう。
大学に入ってからも英語習いに来ること、できますか? と真っ直ぐな表情で尋ねた弓道少年は、その真っ直ぐさゆえに、きっと失望している。
気づくと、私は、「自分があの社長と同類だって思われているのでは」という不安に苛まれていた。何という自己中心的な。でも言い訳もできない。この職場を選び、離れなかったのは、自分なのだから。
そんなとき、私が入塾からずっと担当してきた高校一年生の男子生徒の母から、返事が届く。「何かあればこちらへ」と私が書いておいたメールアドレス宛に連絡がきた。
「もし先生さえよければ、進級までの数回、勉強を見てもらえないでしょうか」と。
あれ、こんな教師崩れを必要としてくれるの?
「できるなら、中学生の妹も一緒に・・・本当は春から通わせたかったんです」
もちろん、これは“違反”らしい。しかし、私は救われた気がした。
ファミレスで、好きなメニューを仲良く選ぶ兄妹の顔を眺め、私の頭はなおも、「私にできることって何だろう?」と同じところをぐるぐる回っていた。
広げられたそれぞれのテキストを見て、たった数時間の授業が、彼らの新学期をすべて支えるほどの力にはならないだろうことは、明らかだ。
けれど、この時間は、きっと必要な時間。会うはずもない所で、タイミングで、望まれて生まれた時間なのだ。
そう自分に言い聞かせ、なるべく今後役に立ちそうな、学習習慣のつけかたなどの話をした。しかし何も足りていない。
ソファに並んだ兄妹が嬉しそうにこちらを見ている。
何で? 私、何もできていないのに。
最後の授業を終えて、兄妹のお母様に不甲斐ない気持ちでご挨拶をした。
お母様は満たされるような笑顔で私に何度もお礼を言う。
兄妹からカードをいただき、涙をこらえて歩き出す。
できることをするしかない。悔しい気持ちは消えないけれど、同時にやれることを一つひとつする。進み始めることができた。
「そのお母さんは、子どもたちに、大人に裏切られたって思いをさせないようにしたんだね、きっと」
その後、知人に言われた。
ハッとすると同時に、そのお母様、私にチャンスをくれたのかもしれないと、気づいた。
必死で伝えようとした手紙。そのずっと前の、面談や、遡って入塾のときのこと。
ああ、そうか。皆、この状況を別のきっかけにしようとしているのだ。私が抱え込むことは、傲慢だ。
兄妹の笑顔を思い出す。
そして、教室で見た、一人ひとりキャラクターも多種多様な彼ら彼女らを思い出す。
見届けたいと思いながらも、いつしか塾は生徒のものだとわかっていたではないか。
数ヵ月後に裁判所で、親御さんたちに会い、生徒たちの近況を聞くことができた。
「結局都内の大学ではなく地方に行き、元気でやっていますよ」
「別の塾へ行くことになりましたが、けっこう合っているみたいです」
久しぶりに見る社長は、うつむいて誰とも目を合わせない。不思議と、彼は彼の人生なのだ、と思えてきた。
失望したとき、解決方法は一つしかないと思い込んで、のたうち回るが、自分ではない誰かが、思わぬ方向から道を照らし出すことがある。暗闇の中に浮かび上がる、いくつもの色違いのスポットライトのように。ある人には美しく見え、ある人には目障りに映る。でもその積み重ねで、ステージが徐々に彩られていく。
これはそれ以降、いくつもの場面で実感した。たとえば交渉事で行き詰まりそうなとき。企画書を書き直すとき。
一人で抱え込み、思い込むことから一歩、その絶望を他の人にとって希望に変えるすべを考えてみる。
あの手紙を書いたことは、“正しく”はないかもしれないけれど、のたうち回ったその果てに、見える世界が変わり始めたのは確かだ。
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