メディアグランプリ

部長


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事: Toshi(ライティング・ゼミ日曜コース)

 
 
なにかにつけて、よく飲む部署だった。だれだれの送別会、歓迎会、あるいは単なる飲み会。
新入社員のころ、僕は社会人としてぜんせんダメだった。ひどく悩んでいた。苦しかった。当たり前のことだけれども、学生の生活よりも圧倒的に自由がない。それは地獄だった。いますぐやめたい、と本気で思っていた。朝から晩まで測定とレポート。残業をして雑用をする。
その日の飲み会でも部長はいつも上機嫌によくしゃべっていた。たまたま僕は部長の隣に座っていた。
なんの拍子だったか、「やらなくてはいけないことは、やらなくていい」と部長は僕に言った。おそらく、僕が愚痴のようなことを言ってしまったのだろう。
「よかったね。新人くん」と、Kさんがいった。「明日からは雑用はしなくていいって。これは部長のおすみつきだもんねえ」
Kさんは僕をよく助けてくれた。設計補助業務をしている。年は五十くらい。広くて乾燥した大地のような性格。彼女の仕事の評判はとても悪い。ぜんぜんできないらしい。だけど、新入社員の僕はまだ何もできないので、彼女の仕事の何が悪いのかさえわからなかった。
彼女は僕に優しかったし、おもしろかった。残業時間に「はら減ったな」とつぶやいたら、カバンからおもむろに惣菜パンを2つ出して、僕にくれた。僕が会社の文句を言うと、もっとあからさまな文句を重ねてくれた。
彼女の居心地の悪さと僕の居心地の悪さが、同調していたのかもしれない。境遇はちがうけど似たような仕事、似たような役割。
部長はかなり酔っていた。
「じゃあ本当に僕は明日からなにもしませんよ」と僕は言った。
「いいよ。むしろやっちゃいけない」
「いやいや、でもそんなわけにはいかないんですよ」
会社で成功している部長だからいえることが、そのまま新入社員にあてはまるわけはないでしょう。そういうことを言えるのは、苦行を乗り越えた人の特権ではないのか。それを新入社員にあてはめるのは無理がある。そう思ったけど口にはできなかった。
あの日は皆、よく酔っていた。
あやふやなものが引っかかったまま飲み会は終わった。そのあと、この話題は忘れていた。そのまま新人くんの日々は過ぎていった。
 
僕がやっと会社に慣れてきた頃、Kさんがとつぜん会社を辞めた。噂によると、リストラに近い説得があったのだという。上司が説得して、彼女はその場で泣いたらしい。Kさんは、いつの間にかいなくなっていた。送別会はなかった。説得した上司というのは部長だったかもしれない。そう思うと、ぼんやりと、なにかひっかかるものがあった。
その1ヶ月後、部長が会社を辞めるという連絡があった。
屋形船で部長の送別会があった。部長は、天ぷら鍋の並ぶテープルの間を抜けて、皆の前に立ってあいさつをした。思うところがあって東南アジアの小さな会社に転職するという。「みなさん、これまでありがとう」という部長は、とても幸せそうな顔をしていた。
噂では出世争いに負けたということになっていた。僕はこのときの部長の顔を見ていると、それは違うのではないかと感じた。
船のデッキで、僕は恐る恐る部長に話かけた。
「やらなくてはいけないことは、やらなくていいんでしたよね」
「もちろん」と部長は、意外なほどすぐに答えた。まるで数年前の飲み会の続きのようだった。
「なぜでしたっけ?」僕は訊いた。
「言ってなかった?」
「覚えていません」
「そう」と言って、部長は毛の薄い頭をかいた。水面にビルの光がゆれている。黒い夜空を黒い鳥が横切った。「なんだっけかな。まあ、別にたいしたことじゃない。そもそも、やらなくてはいけないことって、そう言っている時点で、やりたくはないことでしょ。どこかで意味がないとか、必要ないとか思ってるのよ」
「そうですね」
「そういう、やらなくてはいけないことってのを、我慢して、頑張ってやってしまうとね、すぐにまた、いやな仕事がどんどん入ってくるんだよ。そしたら、どんどん受け身になって、だめな人生になってしまうんだよね」
それから部長は、訊いてもいないKさんの話をはじめた。Kさんは、いま好きなことをしていて、たぶんとても幸せなはずだ、そんな形もある、と。
「よかったです。それをきけて」
「なにが」
「ずっと謎の言葉だと思っていましたが、飲み会での話ですし、わざわざあらためて訊くのも、違う気がして勝手になんとなく解釈していたんです。けど、僕は結構正しくできていた気がします」
それから僕は、訊かれてもいない僕のことを話した。部長の謎の言葉のおかげでなんとかここまでこれたこと。僕は、少しずつ、実はやらなくてもいいのではないかと思う意味のない仕事に対して上司や先輩に質問をすることができるようになっていった。意外なほどその疑問は真面目に受け止められた。それで、無駄な仕事が徐々に減っていき、同時に少しずつ気分的にも楽に会社生活を送れるようになっていった。最近、僕はサブプロジェクトリーダーになったのですよ。そのプロジェクトの機種で、部長が昔に設計した部品が、いまだに使われようとしていますよ、と。
部長は、「そうなんだ。まだあれ使われてるんだ。ありがたいけどね。でもそろそろ、あんな古いのに負けない、もっといい部品作らないと。だって進化していないってことになるじゃない」と満足げに言った。僕は、それは本当だなあ、と思ったから、「それは本当ですね」とこたえた。そして、訊いた。
「Kさん、お元気ですか?」
部長はまたすぐに答えた。
「とても元気だよ」
 
 
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2017-09-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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