プロフェッショナル・ゼミ

「生きる」ということ《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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宅野美穂(プロフェッショナル・ゼミ)

「当たり前」に「絶対」なんてない。

15の冬、私は人生における「現実」を目の当たりにした。

中3の時、同じクラスに心臓に病を抱えている男子がいた。
S君といった。
運動制限があるため、体育は常に見学。
体育祭の時も、組体操のような比較的心臓に負担のかからなさそうな演目には出ていたものの、基本はクラス席で応援。
ムカデ競争やリレーなどの団体競技には出られなかった。
それでも精一杯、声を張り上げて私たちを応援してくれた。

「激しい運動はできないけど、応援だったらできる!」

S君はそれが当然かのように言っていたし、私たちも自慢の応援団長として彼を称えていた。

体育には参加できなくても、勉強は普通にできた。
私とは成績が近かったので、試験の度に点数の勝ち負けを競っていた。
国語では勝てていたかもしれないが、他の教科では負けっぱなしだったかもしれない。

人柄も良かった。
S君は一見、眼鏡をかけた真面目男子。
ヤンキー映画では、下手したらパシリ役にもなりそうな風貌。
だけど、意外にも性格はサバサバしていて、ちょっとやんちゃな男子とも仲良くしていた。
もちろん、真面目なグループの男子とも仲が良かった。
女子にも優しかった。
彼を嫌う人は、クラスにも、学年にもいなかった。

みんなに、愛されていた。

心臓が悪いなんてことも忘れるくらい、普通の中学3年生としてクラスのみんなと過ごしていた。
私たちも、S君とともに高校受験を乗り越えて、卒業を迎えるものだと思っていた。

……あの日までは。

1995年、冬。
私たちは、学校の周りを走っていた。
この時期になると行われるマラソン大会。
体育の授業は、大会に向けてひたすらマラソンの練習。
長距離が苦手な私にとって、地獄以外のなんでもなかった。
しかし、負けず嫌いでもあったため、少しでもタイムを伸ばそうと真面目に練習に取り組んではいた。

S君は、座って見学していた。
運動制限があるのだから、当然である。
私たちも、全く気にしていなかった。
それが普通だと、受け入れていたからだ。

ある時から座って見学するのではなく、学校の周りを歩くようになった。
もちろん、私たちのように走ることはなかったが、自分のペースでトコトコと歩みを進めていた。
その姿を見た私は、何も疑問を感じなかった。
なんだかんだで中3男子、「じっとしているのがしんどくなったのだろう」くらいにしか、考えていなかった。
……その考えがいかに甘かったか、後々、私は思い知ることになる。

マラソン大会前日。
最後の練習ということで、私は気合いを入れて走っていた。
このままいけば自己最高記録も出せるんじゃないかというくらい、調子が良かった。
ふと前を見てみると、S君が走っていた。
一瞬、見間違えたのかと思ったが、追い越す時に見てみると、やはりS君。

……走って大丈夫なのか?

さすがに、心配になった。
しかし、S君は淡々と走っている。

女子の私が追い越すくらいだから、そんなにスピードは出ていないのだろう。
成長期だし体力も付いてきて、少しなら走れるくらいにまで元気になったのだろう。

我ながらものすごくポジティブに考え直し、自分自身も最速記録がかかっていたのでS君に声をかけることもなく、私は走り続けた。

次の周回でS君を目撃した場所を通った時、前方に人だかりができていた。
男子たちが焦っている。
先生を呼びに行くクラスメイトの姿も見えた。
……嫌な予感がした。
予感が外れてほしいと願ったが、叶わなかった。

S君が倒れていた。

顔は、真っ白を通り越して土気色。
生まれてはじめて見る、人の顔色だった。
しかし、私は何もせずにその場を通り過ぎた。
直感で、「自分にできることはない」と思ったからだ。
自分でも「冷たいな」と思うが、仕方がない。
今思うと、あまりの出来事に現実を直視したくなかったのだと思う。

ちょっと無理しちゃって、貧血を起こしちゃったんだ!
病院で点滴を打てば、また今まで通り、一緒に過ごせる!

とにかく、なんとか前向きに考えようと必死だった。
マラソンのタイムなんて、どうでもよかった。
走り終えて校庭に戻ると、女子たちが泣いていた。

「死んじゃったらどうしよう!」

泣きじゃくるクラスメイトの言葉を聞いて、やっと私は事の重大さを理解した。

……彼は、死ぬ、のか?

「そんなはずはない!」と否定したかったが、できなかった。
周囲の誰も、状況を楽観視していない。
S君は、救急車で運ばれていった。
彼が走っていた姿を目撃した、あの時。

「走って大丈夫なの?」

一言、声をかけていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
私は心底、後悔した。

教室に戻っても、クラスはパニック状態だった。
女子は、大半が泣いている。
男子は、泣いている人間もいたが、不安を消すかのように強がっている人間もいる。
とにかく、異常だった。
担任のI先生は付き添いで病院に行っていたため、給食の時間は副担任のA先生、通称ジミーが来てくれた。
ジミーは、私たちの動揺を少しでも和らげようと奮闘してくれた。
しかし、ジミー自身もどうするのが正解なのか、分かっていなかったのだろう。
申し訳ないが、パニックが収まる気配はなかった。

そんな状況にもかかわらず、私は給食当番だった。
しかも、S君とは同じ班だった。
そして、同じ班の女子も一人、体調を崩して保健室。
7人でこなす仕事を5人でしなくてはいけない。
私たちは、給食室に向かった。
途中、もう一人の女子、Kちゃんがうずくまってしまった。

「こんな状況で、給食とか無理だよー」

分かる。
なんで自分たちが給食当番なんだ!
S君のことが心配なことには変わらない。
だけど、自分らが当番を全うしないと、クラスみんなが給食を食べられない。
妙な使命感に駆られた私は、Kちゃんにそのまま伝えた。

「気持ちは分かるけど、みんなが給食、食べられないでしょ」
「S君もがんばってるんだから、とにかく行こう」

当時、私は学級委員をやっていた。
だから、心のどこかで「自分がしっかりしなきゃ!」という気持ちがあったのかもしれない。

一人くらい落ち着いた人間がいないと、クラスがダメになる。

本能的にそう思った私は、自分だけでも冷静でいようと決めた。
たぶん、こんな風に切り替えることができたのは、良い意味でS君との繋がりが薄かったからだと思う。
彼と同じクラスになったのは中3の時のみ。
それまでは同じクラスになったことはなかったし、小学校も違った。
だから、同じクラスになったことがある、同じ小学校の出身であるといった他のクラスメイトよりも感情移入せず、比較的、客観的に状況を見ることができたのだろう。

その後、無事(?)に給食を終え、午後の授業に向かった。
5時間目は美術。
美術室に移動し、先生の到着を待った。
待っている間、泣いている人は少なくなっていたが、やはり不安なのか、みんないつもよりも口数が多かった。
美術のU先生は生活指導担当でもあったため、怒るとそれなりに怖い。
「こんなに騒がしい状況で大丈夫か?」と不安に思っていたところに、U先生が現れた。
なんとなく落ち着かない、ふわふわした状況の中、U先生が口を開いた。

「みんなが動揺しているのは分かる。仕方ない。だけど、取りあえず一旦、落ち着こう」

サッと空気が変わった。
みんなが、「あ」となったのが分かった。
パニック状態だった私たちを一言で集中させるなんて、やはり、ベテラン教師である。
事件後、一発目の授業だったので、「なんとかしよう」と考えてくれていたのだろう。
幸い、美術の授業自体が制作メイン。
集中力が必要なことも相まって、私たちは落ち着きを取り戻した。

6時間目は、確か国語。
担任のI先生の授業である。
I先生は戻ってきているのか?

少し不安を残しつつ、美術室から教室に戻った。
I先生は、ちゃんと来てくれた。
少し疲れているように見えた。
それでも、私たちを不安がらせないようにという気持ちからなのか、I先生は普通だった。
いや、本当は泣きたかったに違いない。
私の記憶が正しければ、当時のI先生は28歳くらい。
その若さで、教え子の命がどうなるか分からない状況なんて、胸が張り裂けそうだったはずだ。
だけど、I先生は私たちに涙を見せることはなかった。
プロである。

I先生は言葉を選びながらも、正直に伝えてくれた。

容体は、厳しい状況であること。
S君の両親が付き添っていること。
……S君は、生きることを諦めていないこと。

「Sは今、がんばっている。だから、私たちも信じて待とう」

そんなことを言われたら、待つしかない。
その時から、私たちは「死」への不安と「生」への希望との狭間で戦うことになった。

家に帰ると、母がいた。
学校から連絡があったかどうかは、定かじゃない。
私は、数時間で起きたことを話した。

「S君、死んじゃったら、どうしよう」

気が抜けたのか、母の前でだからなのか、思わず言ってしまった。
口にするのが怖かったのかもしれない。
学校では言えなかった本音が出てしまった。
涙は、出なかった。

「大丈夫よ」

母は、そう言った。
何が大丈夫なのか、母自身も分かっていなかったと思う。
だけど、それしか言うことがなかったのだろう。
その日は習い事があったが、とてもじゃないが行く気になれず、休んだ。

夜、連絡網が回ってきた。
言われたことは2つ。

マラソン大会は中止になったこと。
明日、臨時の全校朝礼があること。

それを聞いた私は、悟った。
だけど、きちんと大人の口から聞くまでは納得しない。
そう決めて、布団に入った。
熟睡できたかどうかは、覚えていない。
マラソン大会のことなど、もう頭になかった。

翌日、これから自分が何を聞かされるのか、ある程度、覚悟を決めて体育館に向かった。
周りでは色々と噂が流れていたが、聞く気はなかった。
とにかく、然るべき人間から聞くまで認めない。
前日の夜の決意のまま、朝礼が始まるのを待った。

朝礼が始まると、校長先生が壇上に立った。
そして、告げられた。

「3年○組のS君が、亡くなりました」

私たちの学年の辺りから、泣き声が聞こえた。
1、2年生たちがどんな様子かは分からない。
私はというと、「やっぱりか」という諦めなのか、悲しみなのか、なんとも言えない複雑な感情に襲われていた。
受け入れたくないけど、受け入れなくてはいけない。

クラスメイトの死。

15歳の子どもが経験するには、あまりにもキツい現実である。

朝礼が終わると、すぐに帰宅指示が出た。
同じクラスのAちゃんと隣のクラスのTちゃん、いつものメンバーと一緒に帰った。
突然、感情が溢れてきた。

「S君が死んじゃったよ……!」

それまで、ろくに涙を見せてこなかったにもかかわらず、泣いた。
同じく、クラスでも比較的しっかりしていたAちゃんも泣いた。

「ツラいよね……」

Tちゃんは泣いている私たちを、そっと抱きしめた。

そこからは、あっという間だった。
母と一緒にお通夜に参列した。
弾ける笑顔のS君が、いた。
遺影は、数週間前に撮影した卒業アルバムの個人写真。
撮影した時は、こういう場で使われることになるとは思っていなかったはずだ。

翌日の告別式は、クラス全員が参列した。
みんな、泣いていた。
私はその状況においてもまだ、現実感がなかった。

本当に、もういないのか?
もう、点数の見せあいっことか、できないの?
学校に戻ったら、実は教室にいるんじゃない?

人はショックを受けすぎると防衛本能が働いて涙が出なくなるというが、まさにそんな状態だった。

告別式が終わった後、教室に戻って給食を食べた。
その日は、カレーライスだった。
火葬に付き添ったI先生の代わりに、副担のジミーがいた。

「S、お前も食えよ」

クラスメイトのY君が、そう言って机に置いた。
ジミーが、泣きそうになっていた。

S君が骨になるのを見届けたI先生が戻ってきて、ホームルームが始まった。
みんな、泣きすぎてげっそりしていた。
そんな様子の私たちを見て、I先生は言った。

「みんな、いっぱい泣いたね」
「だけど、Sはこんな状態のみんなを見たくないと思う」
「だからもう、泣くのは止めよう」

そういう、I先生が涙ぐんでいた。
それを見た私たちは、最後にもうひと泣きした。

それからの私たちは人が変わったかのように、高校受験に向けて勉強モードに突入した。
卒業後は、それぞれの進路へ向かった。
今では、私たちはアラフォーのいいおっさん、おばさんになりつつある。
今までも、この先も、自分らが歳を重ねる中にS君はいない。
だけど、ありきたりの言葉ではあるが、私たちの心の中に、15歳の姿のままS君は生きている。

生きることが当たり前な日々が、いかに幸せか。
15歳で学んだ、人生の価値。
S君、教えてくれてありがとう。

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