メディアグランプリ

忘れられない人がいる。それはまるで、『一滴の美しい雫』のようだった


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記事:西川二奈(ライティング・ゼミ 平日コース)

 
 
 その女性は、わたしの斜め前を歩いていた。自転車を引きながら、5歳くらいの男の子を連れていた彼女は、明らかに仕事で疲れたような顔をしていた。髪が長くて、スーツを着こなすキャリアウーマン風のその女性からは、そばにいるわたしのところにまで深いため息が聞こえて来そうで、そんな彼女のことが気になって、何となくわたしは、彼女のことを眺めていた。
 彼女の隣を歩いていたはずの男の子が、彼女の癇に障ることでも、したのだろうか。
「ちょっとあんた、イイ加減にしなさいよ!」
 とつぜん、そんな叫び声が聞こえて来た。そして、次の瞬間、その男の子が言ったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……お母さん、ごめんなさい……」

 とても美形な男の子が口にする「ごめんなさい」は、お母さんの機嫌を直すにはこの言葉を連呼するしかない、ということを知っているかのような無機質な言い方で、「ごめんなさい」の5文字を口にすることに何のためらいもない、そんな雰囲気の言い方だった。
 しかし、そんな男の子に向かって、さらに彼女が言ったのだ。
「ごめんなさいって、あんた、いったい何なのよ!!!!!」

 「ごめんなさい」の5文字をなかなか言えず、「ごめんなさいは?」とお母さんに言われている子どもなら、何回も見たことがある。だけれども、「ごめんなさい」と言って、さらに怒られている子どもなんて見たことがなかったから、わたしはとにかく、驚いた。
 そして、その男の子は、もう一回言ったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……お母さん、本当にごめんなさい……」

 おそらく、仕事も子育てもいっぱいいっぱいで、イライラしてしまうことが良くないことだなんて100も承知。でも、どうすることもできなくて怒鳴ってしまうのだろう。そんな彼女が、本当に痛たまれなかった。
 わたしの場合、この親子を見て、男の子がかわいそうだと思ったわけではない。
わたしなんかがその男の子に思いを馳せるより、その男の子が本当に必要としているのは、お母さんの愛だと思うから、そこはわたしの出る幕じゃない。
ただ一人、わたしにはどうしてもその女性が忘れられなくて、それから何日経っても、「あの人、どうしているのかな……」と思うほど、わたしにとっては衝撃的な出来事だった。

 それから、何日くらい経った頃だろうか。わたしの目から、ついに涙があふれ出た。何度となく、よみがえるその光景が忘れられなくて、一気に押し寄せてきたその感情。
 なんでこんなに涙が出るのか、わからない。なにがここまで苦しいのか、わからない。でも、そんな理由を探し当てることなんて、おそらく何の意味もなく、わたしが泣くことで、まるで彼女に思いが届くんじゃないかと思えたほど、わたしは声をあげて、ただただ、一人で泣いていた。
 しばらく泣いたあと、ふと、夕暮れが綺麗な空を見上げた時に、わたしは気がついた。「そうか……、あれは、わたし自身の姿だったのか……」

 髪が長くて、ヒールでかつかつ歩いて、ちょっと口調がきつくって…。わたしは今、子どもを産んでいないけど、会社勤めをして毎日のようにイライラしながら過ごしていたあの頃の自分が、もしも子どもを産んでいたのなら……。仕事と家事の両立を満足にできない自分にイライラしていたのに、そこに育児も加わったら、と思うと……。そんな自分と彼女が重なりあって、「そうか……、あれは、わたし自身の姿だったのか」と、そう、思わずにはいられなかった。

* * *

 もしも願いが叶うなら、この広い世界で、もう一度その彼女に会ってみたい。
わたしはこの数年間で、毎日のようにイライラしていた精神状態から本当にいろいろな変容を味わった。だから、まるで自分を見ているかのような錯覚を覚えた彼女にも、そんな変容が訪れるよう、強く願わずにはいられない。
 人との出会い、本との出会い、ネット上の出会いなど。何でもいいから彼女に新しい風が吹き込まれ、彼女なりのペースで素敵な変容が訪れることをわたしは、今も、願っている。
 そして、そんな彼女に会えたら、聞いてみたい。
「あの頃は、つらかったよね?」
「でも、今はもう大丈夫だよね?」というように……。

 お母さんが変容することで、表情ひとつ変えずに「ごめんなさい」と言っていたあの男の子も、5歳の少年らしく無邪気に笑っている姿を見ることができたなら、それは、どんなに素敵なことだろう。
 もしも、願いが叶うなら……。いや、きっとこの願いは叶うよね、と……。わたしは今日も、遠くの空から、祈っている。

 
 
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2017-10-13 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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