「恩師」として思い出すのは、口が悪いおじいちゃん
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記事:前岡舞呂花(ライティング・ゼミ 平日コース)
あなたに「恩師」と聞いて思い出す人はいるだろうか。
学校や教育の場において「先生」という立場は子どもに大きな影響力を持っていたように思う。
中でも特にいい影響を与えてくれた先生は「恩師」として、卒業しても、大人になっても、心の中に残り続ける。
今私が恩師として書こうとしているその人は、学校の先生ではない。
いや、実際には元・体育科の先生で、最終的には校長先生にもなったらしいのだけれど、私はその頃の先生を知らない。
石下先生は私の通う「子ども囲碁教室」の講師だった。
週に3回、放課後の時間、コミュニティーセンターの畳の部屋で教室は開かれていた。
講師とは言っても、集めていた年会費は1000円。ほぼボランティアである。
無償で時間を割けるくらい囲碁も子どもも好きだったのだろうと、今なら思いを馳せることができる。
囲碁には「石の下」という手筋があって、
詰碁でその手が出てくる度に、石下先生は「わしの名前よ」と嬉しそうだった。
私は幼稚園から中学を卒業するまでの9年間、先生の生徒だった。
一度だけ、石下先生が学校の先生だった頃の写真を見たことがある。
ピシッと整列した白黒のクラス写真。
その中で先生は、前列中央で股を大きく開いて座り、ぴんと背筋を伸ばしていた。
リーゼントヘアー、さらには色の入っているらしい眼鏡をかけ、なぜか竹刀を携えて。祖母によると、当時から名物先生であったということだが、
仏頂面で写真を見せる目の前のおじいちゃんと、写真の中にいる若かりし頃の先生を見比べたところで大したギャップはなく、写真の中にいるのが「知らない人」ならば、こんな教師がいていいのかと思うところだが、「石下先生」ならば特に驚きもない。
口は悪い人だった。もし学校だったらPTAが黙っていないだろう。
悪ふざけが過ぎた生徒を叱るときのセリフは、「喉の奥に手突っ込んで内臓引きずり出しちゃるぞ」であり、もしかすると語感が気に入っていたのかもしれない。それでも、70過ぎの大人が凄み、芯から染みついた広島弁をもって怒る姿は子供心に本当に恐ろしかった。動物園のようだった教室を一気にお通夜のようにしてしまうだけの迫力が、石下先生にはあった。教室の中で先生は絶対的な恐怖だった。
それでも、先生に怒られたことで理不尽だと感じたことはなかった。
厳しいけれど、正しい先生だった。
しかし私が一番感謝しているのは、
石下先生が囲碁教室の先生だったということ、そのものだ。
小さな子どもの世界は狭い。
周りで起きるひとつひとつも、今よりずっと重要なことに感じられていた。
小学生の頃は1学年10人のクラスの中でうまく友達を作ることができなかった。
本当に善悪の区別がつかない年齢というのを、私たちはみんな通ってきている。
小学生というのはまさにその時期だ。
例えば、簡単な言い合いで相手に「死ね」と言えてしまう時期。
私にはそれが苦しかった。
泣き虫だったので、特に低学年の頃なんかは、3日に1回は泣きながら家に帰っていた。
そんなとき、もう一つ居場所があるのはとても拠りどころになっていた。
私にとってそこはずっと避難所の役割を果たしていた。
それが「子ども囲碁教室」だった。
さまざまな学校から、さまざまな学年の生徒が集まり、
石下先生に守られた空間は、
時々風紀が乱れることもあったけれど、その場合先生によって正しく叱られた。
友達もできた。学年が上がるにつれて、年下の面倒も見るようになった。
囲碁教室にいる自分のことは、好きだった。
そして、その空間を作ってくれる石下先生が好きだった。
石下先生だったからこそ、あの空間があったのだ。
私は、囲碁教室での自分の居場所をより強固にするために、囲碁を勉強していたのかもしれない。純粋な動機とは言えないが、私の原動力だった。
中学2年の時には、団体戦ではあるが全国大会にも出場した。
その頃には、週に3回の囲碁教室とは別に、先生の家にも訪れて対局していた。
「孫のようなものだ」と言ってくれたのが嬉しかった。
しかし、動機を裏付けるように、中学卒業と同時に囲碁教室を辞めた後、
ほとんど囲碁を打つ機会を作らなくなってしまった。
ちらほらと先生に会う機会はあったけれど。
囲碁は楽しい。勝つことも、負けることも、考えることも。
しかしそれ以上に、私にとって、あの空間そのものが重要だったのだ。
教室を辞めてしばらくして、石下先生が亡くなったという連絡が届いた。
お葬式には式場に入りきらないくらいの参列者がいた。
石下先生が、学校の先生だったときの生徒もたくさんいた。
そんな中でも、お葬式の間、挨拶をする大人たちから子ども囲碁教室の話が何回か出てきて、少しほっとした。
今の私は、避難所としてのどこかは必要としていない。
それは、あの9年間で強くなったからだ。
繊細だったあの時期に、先生に出会えてよかったと心から思う。
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