プロフェッショナル・ゼミ

赤い本とiPhoneの為に大事な物を失った男《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

 
記事:山田THX将治(プロフェッショナル・ゼミ)
 
既に初老と言っていいその男のF1好きは、仲間内では有名である。
それは知り合って直ぐに、その男の行動で知ることが出来る。何故なら、その男は下戸だという‘特権’を使って、移動は常に車で行う。愛車は“HONDA”だ。
しかも、どんなに長く車の運転をしても、全く苦にならないそうだ。こんな車好きは、F1好きに決まっている。
 
例年の行動で、その男は秋の一時‘遅い夏休み’と称して、三重県に出掛ける。そこには鈴鹿サーキットが在り、毎年F1グランプリが開催されるからだ。当然の様に、今年も車で出掛けて行った。
何でも、初めて鈴鹿でF1グランプリが開催された30年前から、毎年の様に大枚叩いて行っているらしい。余程のファンでなければ、出来ない行動だ。
 
聞いたところによると、男のF1好きには、両親の親心が関連しているらしい。
男が小学校に上がる頃、前回の‘東京オリンピック’の記録映画を観に連れて行ったそうだ。その際に上映されたニュース映画に、“HONDAのF1初優勝”を報じるものが有った。
男の記憶では、
「HONDAって、向かいの八百屋のお兄ちゃんが乗っているバイクでしょ? 何でバイク屋がF1に出ているの? しかも、どうやって金メダル(オリンピックの影響)を取れたの?」
拙い知識で、父親に尋ねたらしい。答えがどうだったのか、残念ながら記憶に無い。しかし、その頃からのF1好きなので、まさに“三つ子の魂百まで”を地で行っている訳だ。
 
男は、今年も例年通り開幕一日前、鈴鹿に近い名古屋入りを計画していた。流石に400㎞を越える移動は、還暦を前にした男には危険と判断してのことだ。そして、グランプリ初日の午前中を、有効的に行動しようと考えての事だった。
その上、今年は10月4日の出発まで、天狼院のゼミで課せられた課題に取り組んでいた。必死に締め切りを守らんとしてだ。
しかし! そんな健気な男に問題が持ち込まれた。
それは、その男が数年前と違っていて、池袋に在る“天狼院”の常連となっていたことだ。当然ながら、店主とも顔見知りとなり、店主の著書をそのプルーフ版まで貰える様になっていた。
その男と同じくF1好きの店主は今年、男に鈴鹿サーキットにおいて、そのプルーフ版を使い著書を宣伝する様に申し付けた。男も快諾した。
出発の前週、店主の著作の‘赤い’プルーフ版を渡されたのだ。なんでも、後にマーケティング記事を書く為と、最終の校正を兼ねての事らしい。ロングドライブ前なので、そんな本は放っておいて睡眠を優先すべき時期だった。
ところが! 困ったことに、手渡された“赤い本”は超絶面白く、俗に言う“徹夜本”に類する出来栄えだった。
男は泣く泣く、安全の為徹夜を諦め睡眠を選んだ。心残りだった。
 
案の定、出発して直ぐに困ったことが起こった。
運転の休憩に入ったサービスエリアで、うっかり赤い本を開いてしまったのだ。当然、切りの良いところまで読まざるを得なくなり、気が付くと予定に時間を大きく過ぎてしまっていた!
男は、急いで車を発進させた。懸命に車を走らせていたら、予定の名古屋を大きく越えてしまっていた!
‘なってこった!’と思ったが、既に遅かった。高速度道路は、インターチェンジまでは、引き返すことが出来ない。仕方が無いので、名古屋を通り越した‘ついで’に、京都まで行ってみることにした。京都にも、天狼院が在るからだ。
男は、この機会に京都天狼院にしかない、“和三盆ソフトクリーム”を体験してみようと思ったのだ。
行ってみると、顔見知りの京都天狼院の女将とスタッフに歓待された。丁度良い休憩も取れた。
お蔭で、戻った名古屋での一日目は、充実して過ごせたという。御世話になった人を訪問し、記事の続きを書き、知り合いにも逢い、そして“赤い本”も読み進めることが出来た。
 
10月5日、予定通り早朝に名古屋を出発した男は、途中で知り合いを拾い、想定時刻に鈴鹿サーキットに到着した。
グランプリ初日の楽しみは、サーキット・コースとピットと呼ばれる作業場を見学出来ることだ。男と同じ様に、日本全国からF1好き達が数多く集っていた。
東京から来た者ばかりか、一年振りに逢う仲間も来ていた。ピット前で写真を撮りながら、グランプリ中の行動を決めることが、毎年の男の常だ。
東京から来た仲間の一人が「明日の晩、焼肉を喰いに行かないか?」と誘ってきた。風貌に似合わず普段は肉類を殆ど口にしない男だが、肉の本場三重県(松阪牛で有名)だから行ってみようかと考えた。
しかも、指定された焼肉屋さんは、隣町の亀山に在り店主がかなりのF1通らしく、珍しいドライバーのサインや写真を持っていて、それを見せてくれるらしいのだ。その上今回は、“アイルトン・セナ”“ミハエル・シューマッハ”“ミカ・ハッキネン”という伝説的ドライバー3名のサインが入った、タイミングシートを見せてもらえ、しかも、そのコピーを来店者全員にプレゼントしてくれるというものだった。
タイミングシートとは、その日のラップタイムをプレスリリース用に、一枚のシートにまとめたものだ。関係者の一部しか、眼にしないし、ましてや持ってはいない物だ。
これは、行かない理由が全く見付からない。男は快諾した。
 
内心浮かれていた男は、天狼院店主からの依頼を思い出した。11月に発行予定の『殺し屋のマーケティング』の宣伝を、ここ鈴鹿ですることだった。
しかし周囲は、その全員がレース馬鹿揃いで、観客席で赤いプルーフ版を取り出しても、誰も注目してはもらえなかった。
せいぜい「えっ!! もしかしてフェラーリの本?」位にしか考えてもらえなかった。フェラーリのチームカラーと同じ、赤い本を読んでいたからだろう。
仕方が無いので、赤い本の告知はSNSを頼ることにし、コースの所々でアップ用の写真を撮ることにした。
夜は夜で、締め切りが迫っている天狼院への提出記事を夜遅くまで書いていた。
当然、睡眠時間が削られた。赤い本を少しでも読むと、睡眠がもっと削られていった。
 
速読を体得していたその男なら、既に読み終っても良さそうな時間を“赤い本”に費やしていたが、著者である天狼院店主の教えで、小説は熟読することと教授されていたので、今回はそれに従うことにしていた。
また、それ以上に“赤い本”は面白過ぎて時間を特に掛けて熟読せずにはいられない内容だった。
 
明けて金曜日。テストのフリー走行が行われる日だ。
男は熱心に観客席から観ていたが、睡眠不足がたたり、ついつい眠くなって来た。フリー走行は、本番のレースと違い、意外と緩慢なものだ。
午前のフリー走行が終わる頃、空模様が怪しくなって来た。そういえば、天気予報は、午後からの降水確率は80%と告げていた。雨足はますます強まっていた。男は、スタンド下の雨に濡れない場所で昼食を取ろうと考えたが、同じ考えの者達でスタンド下はごった返していた。
男は諦めて、車に戻り車内で昼食を取ることにした。雨足が強くなって来たので、暫く待機することにもした。買ってあった弁当を食べ、昨晩の睡眠不足を解消しようと昼寝をするつもりで居た。
その時、天狼院店主との“赤い本の告知”を思い出し、膝元に置いた赤い本の写真に告知文を付けて、SNSへアップした。
急に気温が下がってきて、雨に濡れたことも有り、男は少し寒気を覚えた。直ぐに、昼寝してしまえば良かったものの、そこはあの“赤い本”である。開かずにはおけなかった。開いてしまったら最後、睡眠不足など忘れて時間が許す限り読みふけってしまった。
それほどまでに、『殺し屋のマーケティング』は面白かった。
 
日が暮れて、すっかり暗くなっていた。
雨が降っていたせいもあり、男は周囲の暗さに気を留めていなかった。そこまで“赤い本”を、読み込んでいた。
焼肉屋へ行く約束をしていた仲間が、小降りに成った雨の中、走り寄って来て窓をコンコンと叩いてきた。
「寒いよ。早く入れてよ」言うが早いか、仲間が二名車に乗り込んで来た。
目指す焼き肉屋さんは、男が宿泊するホテル(松阪)とは方向違いの亀山だ。そこで、別の友人二名乗せ、程無く店に着いた。予約時間には十分間に合っていた。
店の玄関口で、待っていると友人の一人が「そういえばさぁ、あの“赤い本”は何なの?」と聞いてきた。見てみたいとも言ったので、男は車に取りに戻った。
「『殺し屋のマーケティング』って、マーケティングの本なの?」この秋から、オーストラリアに留学する若い女性が聞いてきた。
「話すと長くなるから、送ってあげるよ。住所が決まったら、LINEしてくれ。兎に角、面白い事だけは保証するよ」
若い娘は、パラパラと赤い本のページをめくっていた。
 
座敷に通された一行は、早速、松阪牛を堪能した。仲間のビールも、ガンガン進んでいた。暫くすると、手が空いた焼肉屋さんの店主が、男達の席にやって来た。
自慢の写真やサインを、一つ一つ説明しながら見せてくれた。
そして、男たちが期待していた、伝説ドライバー3人のサインが入ったタイミングシートのコピーを、一人一人に手渡してくれた。
アイルトン・セナと同世代の男は、ひときわ感慨深げにそのシートを見詰めていた。帰らぬ(セナは、1994年レース中に死去)同世代のヒーローを思い出し、涙を浮かべているようにも見えた。
 
提供された松阪牛は、流石に美味しく、男達は時間を忘れて興じていた。アルコールは、益々進んでいた。
一人だけ下戸で、ハンドルキーパーの男は、前日からの睡眠不足がたたって、ウトウトし始めていた。
数十分経っただろうか、そろそろお開きの時間となり、男が揺り起こされた。一人で素面(シラフ)の男は、寝起きにもかかわらず会計と割り勘計算を任された。
元々寝起きがあまり良くない男は、若干朦朧とする頭でそれらを済ますと、玄関先から外を見た。焼肉屋さんに入った時は止んでいた雨が、再び降り出していた。男は、車を回してくるので、仲間達に濡れぬ様玄関先で待つように言い、一人駐車場へと向かった。走ってだ。
 
男は、既に老眼が出てきても何ら不思議が無い歳だ。しかし、老眼鏡を使わずとも新聞が読める程、老眼は進んでいなかった。
だが、歳には抗えなかった。暗くなると、目が見え辛くなっていた。
田舎の事なので、街灯も無い駐車場を小走りに進んだ男の目に、コンクリートの輪留めが目に入らなかった。
走っていた男は、右の爪先を輪留めに引っ掛けてしまった。この躓きを踏み止まる程、男の運動神経は若くなかった。男はもんどりうって転んだ。
運悪く男の手には、全てのデータが入ったiPhone、先程もらったばかりのタイミングシート、そして、例の赤い本が握られていた。どれも、放り出せない大切な物だ。柔道の心得が有る男は、本来ならきれいに‘受け身’が取れる筈だった。しかし、両手が塞がっていては致し方なかった。
全部を諦め切れなかった男は、左手の甲を使いギリギリの受け身を試みた。ところが、男には運が無かった。伸び切った男の顔面にあたる場所に、次の輪留めが有ったのだ。
男は、口を輪留めに強打してしまった。
口の中に、みるみる血が溜まって来た。男は、血の塊を吐き出すと、自力で立ち上がり、手と口を洗おうと焼肉店に戻った。
若い頃ラグビーもやっていた経験がある男にとって、この程度のケガは大したことない部類だった。その男にしては。
 
玄関先で待っていた仲間達は、思わず叫び声をあげた。
それはそうだろう。左手の甲を泥だらけにして、口から血を流した男が雨の中をトボトボと帰って来たのだから。
 
「山田さん。どうしたんですか!❓」
4人の仲間は私を、素早く介抱してくれた。手に持っっていたiPhoneとシート、そして『殺し屋のマーケティング』を手から取り、汚れていないことを確認してくれた。手と顔を洗おうと、私は洗面所に向かった。心配した一人が、付いてきてくれた。
手と顔を洗い、鏡で痛みが走る口をよく見てみた。
何ってこった!
出血が止まらない口に、不思議な空間が空いていた。他人より大き目で目立つ前歯が、一本だけ半分に折れていたのだ!
赤い本とシートとiPhoneの為に、前歯を一本失ってしまったのだ!
 
途方に暮れていても仕方がないので、洗った口を借りたタオルで押さえながら、仲間の所へ戻っていった。病院行った方が良いよという仲間に、
「ラグビーやってりゃ、こんなの日常茶飯事よ」
強がって言ってみた。当然、病院には行かなかった。
「バカ言ってんじゃないよ。プレー中ならマウスピースはめてるでしょ! はめてりゃ、前歯を折らないでしょ!」ラグビー経験者の仲間が叱って来た。
 
それでも私は、出血が止まらない唇をタオルで押さえながら運転し、仲間達を送って行った。なんといっても、飲酒していないのは私だけだったからだ。
 
それでもその晩は、ホテルに帰り、氷で唇を冷やしながら、私はPCに向かった。記事の締め切りが迫っていたからだ。
 
次の朝、既に私の“転倒して前歯折った事件”は、鈴鹿サーキットに居る仲間達に知れ渡っていた。誰から、SNSで拡散したのだろう。
全く勝手なことをされたせいで、逢う人ごとに、口を半開きにして折れた前歯を見せなくてはならなくなっていた。
思いの外、元気そうな私を見て、若い仲間達は
「もう歳なんだから、無理しちゃだめだよ」
「来年からは、暗い所は一人で歩くなよ」
「いつもやかましいから、ケガした位が丁度良い」
等と、勝手なことばかり言って来た。
皆、本心では心配しての言葉なので、有難かった。
でも、それからの数日間は、まともに物が食べられず苦労した。
 
前歯を失っても守った『殺し屋のマーケティング』。
この痛みが無くなる位、有名になってもらいたいものだ。
 
東京に戻り、結局行くことにした歯医者の診療椅子に座りながら、私はそんなことを考えていた。
 
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