男の化粧の仕方
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:よひら (ライティング・ゼミ平日コース)
「いらっしゃいませ。おひさしぶり」
扉をあけるとすぐに声をかけられる。平日、開店直後のお店にはまだお客さんはいないようだった。さいごに来たのはまだ年が明ける前だったけれど、覚えてもらえていたことが嬉しい。ジャケットを脱いだら、ネクタイを少しゆるめカウンターに座る。メニューは渡されない。
「今日はどんなのにする?」
「なんでもいいけど、なにか元気がでるので」
「かしこまりました」
彼がするすると準備をはじめるのを眺めながら、ここに来るまでのことを思い出す。
その日は初めての面接を終えたところだった。結果がでるのは後日とのことだが、おそらくだめだろう。自分なりに対策を立てていたつもりだったけれど、周りの気迫は自分なんかとは比べ物にならなかった。砕けた自信が、心臓だか胃だか分からないところで粉々になっている。カラカラと鳴る音がなんともさみしく、とてもじゃないがまっすぐ帰る気分になれなかった。
ちょっと遠回りになるけど寄っていこう。そう思い、帰路とは違う路線を使って足を向けたのがここだった。半地下の仄暗い照明、ずらりとならんだ色形大きさ様々なボトル。
ここなら一人で飲んでいても目立ちはしないし、ちょっと話し相手が欲しければ彼は接客のプロだ、マジシャンのように面白く飽きない話のひとつやふたつはハトのように軽快に飛び出てくる。
通いだして数年、友人とわいわい飲むときは居酒屋にいくことが多いけれど、落ち込んだりひとりで飲むときはよくここに来る。
「お待たせしました、どうぞ」
ぼんやりしているうちに目の前に背の高いグラスが置かれる。ヤマブキのような色とゆらゆら昇る気泡がかわいらしい。お礼をいって口をつけると、見た目とは裏腹に苦い。驚いて彼に聞くとハーブを使ったお酒を使っているとのこと。まだ早い時間でなにも食べていないだろうから胃にやさしいものを選んでみました。という気遣いに嬉しくなる。自分のことを考えて作られた一杯をゆっくり、丁寧にしまっていく。
「どう、おいしいかな」
「おいしかったです。相変わらずなにを頼んでもおいしい」
「また適当に言ってくれればなんでもつくるよ」
ぽつぽつと今日あったことを話しながら二杯、三杯と飲み進めていくうち、いつのまにか胃の中がだいぶあったまっている。溶鉱炉のようになった胃のなか、粉々になった自信がすこしずつまた元の形をとりもどしていくのを感じる。どうやら僕の自信は胃にあったらしい。
手洗いで鏡を見ると、落ち込んでくすんでいた顔色は飲み進めていくうちチークでもしたみたいに明るくもどってきていた。
それを見ていると、ずらりと並んだボトルのなかからお気に入りを見つけていく過程が化粧のように思えてきた。
女性が今日なりたい気分によって口紅やアイシャドー、チークを選ぶように多くのお酒のなかからお気に入りをみつけてくる。今日はカクテルかな、ワイン、ウイスキーもいいかもしれない。最初はなにをどれくらい使ったら自分に合うかわからないから失敗もするけれど、過ぎてみればそれも笑い話。
苦手でも大丈夫。ときにはプロのアドバイスを聞きながら、数々のアイテムを組み合わせる。ドレッサーに向き合っているときは心がはずむし、目つきは真剣そのものになっていく。知識がついてきて、自分がなりたい気分にぴったりはまった仕上がりをつくることができればもうその日は最高の気分になれる。
友人同士で情報の交換をするのも楽しい時間だ。あそこの店で売っていた限定品は、ひとつひとつ手作りのこだわりをもっているみたいだよ。とか、あそこの新作ためしてみた? なんて言い合いながら常にレーダーを張っている。
ときには大人に近づけるように背伸びすることもあるかもしれない。ウイスキーは真っ赤な口紅のようで、その妖艶さに憧れるけれどまだ似合わないかな。
今日のように落ち込んだり、よしっ! と気合をいれたり、しんみり大人の時間をすごしてみたくなることがこれからもなんども来るかもしれない。そんなときはまたここに来よう。
本物の化粧をしたことはないけれどそんなことを考えていたらチークをした顔は鏡のなかで自然と微笑んでいた。今日の仕上がりは完璧のようだ。
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