プロフェッショナル・ゼミ

僕は40歳を過ぎてから初めて卒業旅行に行くことにした《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【2月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:上田光俊(プロフェッショナル・ゼミ)

「解雇!?」
その日はたしかに朝から社長の様子が少しおかしかった。
表情が硬いというか、強張っているというか、とにかく普段とは違う表情をしていたのだ。
月初めの朝礼ということもあるのかもしれない。
体調が少し優れないのかもしれないし、プライベートのことで何か考え事でもあるのかもしれない。
しかし、本当のところは僕にはよくわからない。
そんなことは誰にでもあることだし、僕がいくら考えたところで答えは出ない。
ただ、社長をまとう空気感というのか、雰囲気が普段とは明らかに違っていたのだ。
それでも僕は、社長の機嫌がすこぶる悪いと、その日の社内の空気が著しく悪くなるので、それだけは勘弁してもらいたいなと思った程度だった。
僕は、普段とは違う社長の様子について、これ以上考えても仕方のないことだと思いなおし、その日の朝礼に出席するために、事務所内でいつものように整列した。

僕たち社員は、毎朝8時半までに出勤する。
それから、各階に分かれて社内の掃除をしてから朝礼、その後9時から業務に入るというスケジュールになっていた。
同僚たちが掃除を終えて、ぞろぞろと事務所内に入ってくる。
朝礼は当番制になっていて、その日の朝礼を担当する社員が僕たちの前に立ち、それに続いて役職者が順番に整列する。
その他の社員は、役職者に続いて、コの字になるような形で事務所内に整列した。
いつもと同じメンバーに囲まれ、僕はいつもと同じ立ち位置に整列していた。
そして、朝礼が始まった。
前日の売上報告、累計売上報告に入金明細や業務内容を当番が順番に読み上げていく。
一通り、報告が終わった後、今度は営業メンバーがその日の自分たちの業務内容のスケジュールについて、これもまた順番に確認していった。
あとは、社長からの連絡事項や指示を待つだけだった。
「それでは、社長の方からよろしくお願いします」
そう朝礼の当番が言った後、一瞬の沈黙があった。
何だろう……。
やっぱり、何か変だ……。
この違和感は何だろう……。
僕は、いつもと何も変わらない朝礼というこの空間内に、何か得体の知れないものを感じ取っていた。
「皆さん、あらためておはようございます」
「おはようございます」
気のせいか……。
僕は自分が抱いた違和感について、ただの気のせいだということにしようとしていた。
普通だったら、このまま社長から連絡事項や指示があるだけだ。
いつもと何も変わらない。
考え過ぎだ……。
そう思いながら、僕は社長からの次の言葉を待っていた。
しかし、次の瞬間、社長の口から出てきた言葉は僕たち社員を驚愕させるのに十分だった。

「今日は皆さんに大事なお話しがあります。色々と考えた結果、私は決断しました。当社は今期をもちまして、アパレル事業から撤退することを決めました」

な、何!?
今、なんて言った?
事業から撤退するって、それってつまり……。

そう。
その時、僕は約16年間続けてきたこの職を失うことが決定したのだ。

僕が勤めているこの会社は京都市内にあるアパレル企業だった。
社員は20名程度と規模は小さかったが、創業以来無借金経営を続けており、赤字を出したことは今までに一度もない。
「超」が付くほどの優良企業だということは間違いなかった。
たしかに、ここ数年売り上げは伸び悩み、それとは反比例するように経費は増え続け、このままの状態が続くようだと赤字に転落してしまう可能性だってあった。
それに、年々、アパレル業界は厳しさを増している。
一時期は売り上げも営業利益も右肩上がりだった同業他社も、廃業や倒産に追い込まれるケースだってたくさんあった。
それでも、同じ状況下で売り上げを伸ばしている企業は数多くあったし、やり方次第では、この会社だっていくらでも黒字経営を続けていくことは十分に可能だと思っていた。
企業としての体力もノウハウも人脈も業界内での知名度も申し分ないと思っていた。
それなのに……。
僕は困惑していた。
ただ驚いていた。
僕はその時自分が何に困惑しているのか、はっきりと自覚することができなかった。
自分の今後のことについてなのか、それとも何故この会社がアパレル事業から撤退しなければならないのかということについてなのか、僕にはよくわからなかった。
わかったことと言えば、僕が感じていた違和感の原因はこれだったのかということだけだった。

「このままこの事業を続けていっても、今までのように収益が見込めないと判断し、赤字を出し借金をしなければならないような状況になる前に、事業を撤退することを決めました。今後のことにつきましては、役職者を残し、他の社員の皆様については年内で解雇という形になります」
冗談だろうと思った。
何かの悪い冗談だと思いたかった。
年内で解雇って、残り2ヶ月しかないじゃないか。
いやいや、それはないだろうと思った。
大体、事業撤退とか自主廃業とかで社員を解雇する場合、最低でも半年くらいの猶予があるものなんじゃないだろうか。
せめて、どんなに遅くても3か月前には社員に伝えるべきだろう。
それが、残り2ヶ月しかないって。
実際にはもう2ヶ月を切ってるし。
それは、あまりに急過ぎやしないか。
冗談を言うにもほどがあるってものだろう。
でも、それは冗談でも何でもなく、紛れもない事実だった。
僕は、瞬間的にこの職を失いたくないと思った。
それは、僕が職を失って収入がなくなることを恐れたからではない。
僕はこの会社が好きだった。
勿論、理不尽なこともたくさんあったし、もう辞めてしまおうかと思ったことだって何度もあった。
それでも、16年間もこの会社で働いていると、自然と愛着も湧いてくる。
それに何より、僕はこの会社で働いている仲間のことが好きだったんだと思う。
僕は自分がこの会社から去らなければならないということを、そう簡単には受け入れられそうにはなかった。
自分が会社から解雇される。
それは、そうされるのが当たり前かのように、突然告げられるものなのかもしれない。
僕はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
それはきっと僕だけではなかったと思う。
僕と同じように、突然の事業撤退宣言に驚き困惑している同僚たちも、何も言えずにその光景をただ茫然と眺めていることしかできなかったに違いない。
「皆さん、本当に申し訳ない……」
社長はそう言いながら頭を下げ、その日の朝礼は終わった。

朝一から仕事に対するモチベーションを削がれてしまった僕は、その日の仕事を早めに切り上げて帰宅することにした。
正直言って、何もする気が起こらなかったのだ。
僕は必要最低限の仕事だけを終わらせて、定時でこの会社を出た。
どこの一般企業でも同じようなものかもしれないが、この会社では残業が当たり前になっている。
定時で帰るなんて、いつ以来だろうか。
いつもの僕だったら、こんなに早く家に帰れるとなると、子供の顔見たさに浮足立って帰宅するだろうに。
今日ばかりは、その足取りはとても重かった。
少しでも先延ばしにしたかったのだろうと思う。
今日、会社から告げられたこの事実を、今度は僕が妻に伝えなければならないのだから。
妻になんて言えばいいんだろか……。
どこから話せばわかってもらえるだろう……。
これを言ったら、妻はなんて言うのかな……。
考えても、考えても、答えは出て来そうにはなかった。
そうやって逡巡しているうちに、気が付いたら僕は自宅に着いていた。

「ただいま」
「おかえりー!」
妻と子供たちが、いつものように僕を迎えてくれた。
いや、帰宅時間が早かった分、いつもよりも何割か増しのテンションだったかもしれない。
子供たちが駆け寄ってくる。
僕は、自分でもわかるくらいの不自然でぎこちない笑顔を作りながら子供たちを抱きかかえた。
それから、久しぶりに家族5人で晩御飯を食べて、子供たちをお風呂に入れた。
子供たちを寝かしつけるまでは、とにかく、普段通りに振舞おうと何も考えないことにした。
21時過ぎ。
子供たちが寝静まった後、僕はそうっと寝室から出てきた。
リビングに行くと、妻はまだ洗い物の途中だった。
僕は妻の洗い物が終わるまで、とりあえず何もせず、何も考えずに過ごすことにした。
どう言おうか、どの順番で説明したらわかってもらえるか、いくら考えたところで、伝えなければならないことは一つだけだ。
余計なことを考え過ぎて、回りくどい言い方になってしまった方が、却ってややこしい。
僕はありのままを伝えるしかないと腹を括っていた。
はっきりと言うしかない。
「会社を解雇されることになりました」と。

「コーヒーでも飲む?」
妻はたまっていた洗い物を終えて、コーヒーを淹れてくれた。
「熱いから気を付けてね」
そう言いながら熱々のコーヒーが入ったマグカップを2つ持ってきて、こぼれないようにゆっくりとテーブルの上に置いた。
二人して、ふうふうとマグカップに息を吹きかける。
しばらく、熱々のコーヒーを冷ます動作を続けた僕たちは、その後も何も言葉を発することなく沈黙していた。
妻は僕が何か言い出すのを待っているかのようだった。
帰宅した時の僕のぎこちない表情に、何かを感じ取っていたのかもしれない。
妻はその原因を僕に聞こうとはせずに、待ちに徹していた。
「ふうふう、熱い! これ、まだ熱いね」
僕は、なかなか冷めそうにないコーヒーを、とりあえず口にしてみた。
猫舌の僕には、まだ飲める温度ではない。
でも、僕はそうすることで無意識的にこの沈黙を破ろうとしていたのかもしれない。
「気を付けてって言ったのに」
妻がやっとその口を開いてくれた。
もう、このタイミングで言ってしまおうか。
言いやすそうなタイミングを見計らっていても、そんなタイミングが来るとも限らないし、どうせ伝えなければならないことなのだから、さっさと言ってしまった方がいいに決まっている。
僕は静かに深呼吸をした。
「あのさ、ちょっと話しがあるんだけど……」
「はいはい、何?」
「実は……」
その後がなかなか続かなかった。
これは自分でも想像していた以上に言いにくいことなのだと、その時初めて気が付いた。
どうしても、そこで言葉が途切れてしまう。
「実は……」
もう一度繰り返す。
妻は、僕がその続きを話し出すのをそのまま待っていた。
「実は……、今日社長から話しがあって、うちの会社が今期限りでアパレル事業を撤退するって。それで、社員は役職者を残して全員解雇ってことになった。つまり、年内いっぱいで失業することになったよ」
「えっ!? どういうこと!?」
「これからどうするの?」
「私たちはどうなるの!?」
「子どもが3人もいるんだからね! しっかりしてよ!」
僕は妻からそう返ってくると思っていた。
当然だ。
子どもが3人もいて、不労所得があるわけでもなく、これからも家族を養っていかなければならない40歳過ぎの男が失業したのだ。
そう言われるのは当然だと思っていた。
妻にしたって、まさか自分の亭主が40歳過ぎで、突然失業するなんて思ってもみなかったことだろう。
何よりもまず、子どもたちのことや自分たちの今後の生活のことを考えるだろうし、そういう反応になるのは仕方のないことだと思っていた。
しかし、実際に妻の口から出てきた言葉は、僕を驚愕させるのに十分だった。

「そっか。じゃあ、旅行行けるね!」

りょ、旅行!?
旅行ですか……。
あの……、今は旅行の話しをしているのではなくて、失業することになったっていう話しをしているんだけど……。

僕は自分の耳を疑った。
まさか、ここで「旅行」という言葉を聞くとは思ってもみなかった。
僕が何も言えないでいると、妻は続けてこう言った。
「ハワイにする? それともグアムにしようか?」
どうやら妻は本気で、どこに旅行に行こうかと考えているようだった。
「卒業旅行みたいなものじゃない?」
妻は旅行の話しを止めようとしない。
「私は行ってないんだけど、大学を卒業すると大抵卒業旅行とかに行くじゃない? 失業した時だって同じだよ。だから、今回のは失業旅行ってことになるね」
ああ、そうか。
僕は失業すると同時に、この会社から卒業することになったのか。
たしかに、今後のことを考えると、この年で職を失うということはとても怖いことだ。
しかし、その事実はもう変えることはできないし、それを受け入れていくしかない。
だとしたら、それを受け入れた後、自分は失業したと思いながら生きていくのか、卒業したと思いながら生きていくのかとでは、これからの人生で大きな差を作ることになるかもしれない。
気持ち的にも、卒業したと思っていた方がよっぽど気が楽だ。
僕は今日、とても重い気分で一日を過ごしてきたけれど、妻のその一言で救われた気がした。
妻だって、今後のことを心配していないわけではないだろう。
本当は子どもたちのことや、自分たちの生活のことを真っ先に考えたかもしれない。
不安を感じたことだろうとも思う。
でも、妻はそれを口にすることなく、旅行の話しに切り替えてくれた。
僕は妻のたった一言で救われたのだ。
僕は今までも、妻と結婚して良かったと思っているが、この時ほど、彼女を選んで本当に良かったと思ったことない。

僕たちはその後、失業旅行について色々と話し込んだ。
ハワイはさすがにちょっと遠いから、グアムの方がいいんじゃない?
とか、
海外じゃなくて、国内のどこかでゆっくりしようか?
など。
あれこれ話しているうちに、夜も遅くなってきたので、失業旅行について、まだ結論は出ていなかったが、僕たちは今日のところはもう眠ることにした。
僕の隣で横になっている妻は、なかなか寝付けない様子で……。

「どこに旅行に行こうかなあ。考えるだけでワクワクする!」

そう言いながら、目を輝かせていた。
もしかしたら、本当に旅行のことしか考えていないのかもしれない。
まあ、それでもいいや。
彼女と結婚して本当に良かったと思っていることに変わりはないのだから。
さてと、どこに旅行に行こうかな。

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