メディアグランプリ

俺たちは表現をするために生まれてきた


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記事:遠山 涼(ライティング・ゼミ特講)

 

言葉は、一体何から生まれるのだろう。

「あのDQN国家のミサイル、どう思う?」

「特に何とも思わないんだが」

「それな。もう飽きちゃてオワコンだから草も生えんわ」

「でもあの国、マジでアメリカ倒しちゃう可能性、微レ存?」

「それソースどこよ? アメリカ軍の強さはチート」

「それな。別にあの国滅んだらメシウマだし、ま、多少はね?」

 

ネットで使われる俗語、通称ネットスラングによる日本語への侵略は、もうずいぶん進んでいる。

はじめにアニメや漫画に入り込んできたらしい。「萌え」あたりから市民権を獲得し始め、「リア充」「コミュ障」など、少しずつ私たちの世界に忍び込み、今では当たり前のように居座っている。

元々はいかがわしい業界の隠語だった「JK」なんて、今やティーン向け女性誌の表紙にまで登場し、女子高生本人たちまで自らをそう呼んでいたりする。

 

私が大学生になった2008年頃にも、もうすでにネットのスラングや、特定のアニメの言い回し、わざとオタクっぽい口調で会話をする人たちが、少なからずいた。

ちょうど多くの大学生がスマホを持ち始めた頃で、ネットとの距離がグッと縮まった時代だったのかもしれない。

 

言語学部の友人たちですら、そんな会話や言葉遣いをする人はたくさんいて、私は彼らの話し方を嫌っていた。

なんだか彼らの話す様子が、とても不自然な気がした。マンガやアニメを見過ぎてダメになった人のようにも見えた。どこかで見たり聞いただけの言葉をそのまま使い、彼らが自分の言葉を失ってしまったようで、気味が悪かった。

 

私の嫌いな言葉遣いをする友人Aに、かつて私は単刀直入に聞いてみた。

「どうしてそんなキモい喋り方なの?」

友人Aは、意外にも、少しも悪びれる様子もなく答えた。

「仕方なくない? だってネットとかマンガとか、みんなとの会話でも普通に使われてるんだから、それ毎日毎日聞いてたら、自然とそういう言葉遣いになるって。そもそも言葉って、そういうものなのでは?」

 

言葉とは、そういうものなのだろうか。

だとしたら、たとえば私が使うような言葉たちは、いつどうやって生まれたのだろうか。

 

幼少の頃、私が初めて使いこなせるようになった言葉は、すべてカタカナだった。

その原因はウルトラマンだった。近所の書店で買ってもらった怪獣図鑑。バルタン星人。キングギドラ。ゼットン……。かっこいい怪獣たちの名前はほとんどがカタカナで、その読み方を両親に教えてもらいながら図鑑を読んでいた。いつしか、ひらがなでは自分の名前すらまともに書けない幼稚園児が、カタカナを使って親戚のお兄さんに手紙を書けるようにまでなっていた。

カタカナのみで埋め尽くされた便箋は、一見すると怪文書のようでもあったかもしれない。

 

もう少し言葉を使いこなせるようになった私は、小学生の頃には「死ぬまで殴るぞこの野郎!」などと怒鳴る少年に育った。

当時ハマっていた少年マンガ「幽遊白書」の主人公である浦飯幽助は、粗暴な不良少年という設定だった。

そんな主人公のセリフを両親の前で口にすれば、当然厳しく叱られた。しかし、当時の私にはどうして自分が叱られるのか理解ができず、親によく反論した。

「だって、マンガでそう言ってたんだもん!」

 

そのようにして、言葉を覚えてきたのかもしれない。

もちろん大人になればなるほど、そこまで露骨にマネしたり影響されたりすることは無くなった。しかし、本質的には変わっていないのだろう。

今でもドラマや映画、小説や演劇を見るたびに、そのセリフや言い回しから、私自身の口調は多少なりとも影響を受けているに違いない。

 

きっと、避けられないのだろう。

ネットスラングを日常会話でも使う彼らも、自分では普通の日本語を話しているつもりの私も、自分だけのオリジナルな言葉のみで話しているかといえば、そうではない。

家電メーカーが製品を作るために多くの部品を他社から仕入れるように、私たちは普段見聞きしている言葉や言い回しを自然にインプットして、それを材料に言葉を話したり書いたりしている。

 

だから、彼らに罪はない。ネットスラングを多用した会話をする友人たちがキモいのではなく、むしろそのインプットの仕入れ元に罪があり、その仕入れ元から垂れ流されている会話や言葉遣いがキモいのだ。

 

そう考えると、少し前向きな気持ちになる。友人たちのことをキモいと思う必要がなくなったことに、私は安心した。

しかし、一点の曇りが残っており、私はその曇りをつい凝視してしまった。

 

友人Aの言葉を思い出す。

「みんなとの会話でも普通に使われてるんだから」

仕入れ元はネットだけではない。

きっと友人Aの友人たち、友人B、友人C、友人Dの言葉からも、友人Aは影響を受けていたに違いない。そして友人Aも、彼らに同じく影響を与えていたはずだ。

 

人の口や手を伝って、言葉遣いは伝染する。

何の気なしに発した言葉や文字が、誰かの耳や目に届くとき、それは誰かにとってのインプットになってしまう。

言葉はいつでもそうやって誰かに向かって飛んでいき、誰かの目や耳に突き刺さる。

突き刺さった言葉は、自然とその人の中に吸収されて、その人の言葉遣いに影響を及ぼす。

 

ひょっとすると言葉だけではないのかもしれない。身振り手振り、表情や外見、においや振る舞い、ひとつひとつの行動まで、その全てが誰かに対してのアウトプットになる。たとえ意図的に表現しようとしたのではなくても、全てのアウトプットは必ず誰かのインプットになる。

誰にも聞かれていない独り言や、誰もいないところでの行動ですら、同じだ。少なくとも自分だけはそれを見聞きし、少なからず影響を受けているはずだからだ。

 

高校時代に聞いたある教師の言葉で、印象に残る言葉がある。今ならその意味が分かる。

「俺たちは表現をするために生まれてきた」

表現とは、絵を描いたり、歌を歌ったりすることだけではない。何かを言ったり、ちょっと動いたり、ただじっと生きて存在しているだけでも、それを見たり聞いたり知っていたりする人に向けた、ひとつの表現になる。

生まれた瞬間から私たちは泣く。存在した瞬間から<そこにいる>と誰かに思わせてしまう。

つまり、私たちは誰しもが生まれながらにして、表現者なのだ。

たとえそれを望まなくても、だ。

 

画家やミュージシャンだけではない。サラリーマンや主婦、フリーターやニートですら、何らかの表現をしており、生きているだけでアウトプットをしてしまっている。

そしてその全ては、誰かのインプットになる。そのインプットを材料に、また誰かがアウトプットをする。そのアウトプットはまた誰かにインプットされ……といった具合に、表現の渦は止まることなく流転し続ける。

人間が滅びないうちは、きっと永遠に繰り返されるだろう。

私たちの生きる日常やふるまい、人生、生き方が、未来の人たちのインプットになる。

地球の未来は私たちのアウトプットに掛かっている。これは少しも大げさな話ではない。

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2018-01-24 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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