プロフェッショナル・ゼミ

生まれてこれないはずだった妻《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【2月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:中野 篤史(ライティング・ゼミ プロフェッショナルコース)

事実をもとにした、フィクションです。

「はっぴぃばーすでー、つーゆー」そして、拍手。
娘たちと私の歌が終わると、妻が10本のろうそくを吹き消した。年齢分のろうそくを立てると、ケーキが蜂の巣のようになってしまうので、便宜上10本に省略させて頂いた次第である。しみじみと、今この時があることを噛み締めている。しかし、半世紀前にあの事件が起こらなければ、妻の蓉子が生まれてくることはなかったし、娘たちとも出会うことがなかった。

当時の日本列島は高度経済成長期に入っていた。1965年頃からの好景気は、“いざなぎ景気”とも呼ばれている。国民の間ではマイカー、カラーテレビ、クラーの3Cブームが起きていた。しかし、妻の故郷徳之島は、わずか十数年前にアメリカから日本へ返還されたばかりで、実際の島民の暮らしぶりは質素で、まだその恩恵を受ける程には至っていなかった。

「からだの調子がおかしい……」。まだ夜が開けきらない早朝。裸電球が灯された牛舎の中で、品評会に出す牛の角を磨いていたカヨコは、吐き気をおぼえた。夏の盛りは過ぎ去っていたが、島の夏は長い。これから始まる暑く長い一日のことを考えると憂鬱になった。カヨコは、ここ最近の体調の変化が気になっていた。あまり体調が良くない。そして、すでに7人の子どもを育てているカヨコは、それがなんの兆候であるか確信していた。もはや医者にかからなくてもわかる。自分は妊娠しているのだ。

「どうしたものか。一番下の子が最近やっと手がかからなくなってきたばかりなのに……」。夫、宗義の収入だけでは、さすがに家族9人を食べさせていくには足りない。そこで、カヨコは畑仕事や、牛の飼育をして、家計を支えていた。さらに、当時の女性が殆どそうであったように、カヨコも子どもたちの面倒を全て1人でみていた。それは、生きていくために、いっぱいいっぱいの状態だった。そこへ、さらに子どもが1人増えることを考えると……。普段から楽観的なカヨコであるが、さすがに肩に重荷がのしかかってくるのを感じた。さらに、悩みの種は他にもあった。子宝の島として知られる徳之島は、子沢山の家族が多い。そんな島においても、子どもが8人というのはかなり多い方であった。良くも悪くも島の人間関係は濃く、それだけ町人同士のしがらみも強い。助け合いながら生きているコミュニティーにおいて、世間体を無視して生きていくことは難しい。

「また生まれたんだってさぁ……」。カヨコの想像の中で、町の人たちが噂する声が聞こえる。他人からすれば、さほど悪意のない世間話かもしれない。しかし、小さなコミュニティーの中で噂される側の者にとって、それは大きなストレスの原因となった。

さらに、もし妊娠したことが夫の宗義に知れれば「そりゃ、生まなぁいかんよ!」と言われるに決まっていた。宗義は、曲がったことが嫌いでまっすぐな男だ。自分がこうと決めたことであれば、世間からどのように思われても、己を貫く強さと度量を備えていた。自分たちの暮らしがさらに厳しくなろうとも、世間からどのような噂をされようとも、子どもを生むことに対して砂粒ほどの躊躇も持たないだろう。だからこそ、今の暮らしのことを考えると、カヨコは夫に妊娠したことを告げることが出来なかった。

そんな1人で悩む日が何日か続いたある日。庭で洗濯物を干していると、生垣のすぐ向こう側の道を、近所に住む幸子さんが自転車で通りかかった。島内の別の町から嫁いできた彼女が、この界隈に住み始めてもう10年が経つ。情報通の彼女は噂話も大好き。特に島の色恋沙汰の話は、この人に聴けば何でも出てくる。頭の回転が速く、話をしていると楽しいおばさんである。農協で事務を務める彼女は、これから出勤するところらしい。

「おはようごさいます」とカヨコが声をかけた。
「おはよう、カヨちゃん。今日もいい天気ね」と、自転車を止め幸子さんが返す。
「そういえば、カヨちゃん知ってる? 川向こうの達吉さんだけど、どうやら亀徳の娘と結婚が決まったらしいわよ」
「あら、そうなの! おめでたいですね」また彼女の噂話が始まった。そして、たわいのない話を2、3分したところで、幸子さんは仕事へ向かった。彼女にだけは、妊娠していることが知られてはいけないと思った。もしそうなれば、しょうもない尾ひれがついて町中に広がるに違いない。

日に日にひどくなるつわり。悩んだ末のこと、カヨコは決心した。そこに他の選択肢はなかった。この子をおろそう。そうはいっても中絶するにはお金がかかる。そんなお金は家中どこを探してもない。だから強行手段にでることにした。畑仕事や牛の育成などで暮らしを支えていたカヨコは、自らに今よりも重い労働を課したのだ。日の昇る前から起きて、牛の餌となる草を用意し、離れたところを流れる小さな川から水を運んできた。それから、長時間の畑仕事もこなした。さらに、あえて冷たい川につかり洗濯もした。しかし、それらの行動とは裏腹に、お腹の中の子は元気に大きさを増しているようだった。「こうなったら、もう病院へ行くしかない。でもお金はどうすれば……」。

当時の島では、中絶手術を受けるのに2万円のお金が必要だった。昭和40年頃の高卒公務員の初任給は約3万円。現在と比べ、公務員が高給を得ていた時代のことだ。内地(本土)と収入の格差ある島では2万円の価値はさらに大きい。ただでさえ質素な島での暮らしぶり。さらに7人の子どもを育てている家庭にとって、2万円は大金だった。お金の工面をあれこれ考えていたカヨコは、いいことを思いついた。

小学校しか出ていないカヨコであったが、生来頭の回転ははやく記憶力もすこぶるいい。幼くして、家族を養うために働きに出ていたカヨコは、世あたりも上手だった。カヨコは、日ごろから付き合いのある農協から借金をすることを思いついたのだ。景気が良くなる兆しが見えていた島で、人から信用の厚いカヨコにとって、農協から借金をすることは、さほど難しいことではなかった。しかし、ここでひとつ問題が出てきた。農協には幸子さんが勤めている。いらぬ情報が夫の宗義の耳に入るのを恐れたカヨコは作戦を考えた。

「お姉ちゃん、お金借りてきたよ!」。妹の吉江が、勝手口の外からカヨコを呼んだ。吉江は、姉からローンの手続きとお金の受取を頼まれていた。吉江が姉の家に着いた時、姉はちょうど昼ごはんの支度をしているところだった。魚をまな板にのせ、捌いていた姉は、包丁を握る手を止めた。そして、タライの水で手を洗い、エプロンでぬぐうと、湿り気の残る手で吉江から茶封筒を受け取った。

妹がお金を届けにきてから2日後のことである。「あれっ、ない! 封筒がない!」。カヨコは封筒を探していた。今日は、14:00から病院を予約している日だった。それなのに妹から受け取った封筒は、どこを探しても見つからない。料理の途中で受け取ったので、探すのが厄介になるほどの場所へ封筒を置くはずがない。しかし、どれだけ思い出そうとしても、しまった場所を思い出せなかった。「どうしたものか……」途方にくれるカヨコであった
。お金の行方、お腹の子、さらに夫の宗義に秘密にしていることを考えると、胃を冷たい手で強く絞られているような感覚が襲ってきた。結局、家中さがしても茶封筒は出てこなかった。さらに悪いことは続いた。農協でお金を借りたことが宗義にばれたのだ。

「宗義さん、こんばんは」
「こんばんは、幸子さん。お元気そうで」
「あなたも、元気そうで。そういえばこの間、吉江ちゃんが農協へ来てましたよ」
「へぇ、吉江さんがですか? なんでまた……」彼女の旦那さんは、大工のはず。
「どうやら、カヨちゃんのお使いだったようで。ローンのお名前がカヨちゃんでしたから。宗義さんのところも、農機を購入されるんですね。」
「あぁ、まあ」と、気のない返事をした宗義には、それ以上幸子の話は届かなかった。

その夜、子どもたちが寝静まり、夫婦二人だけになった時に、宗義に問いただされたカヨコは全てを打ち明けた。そして、激怒した夫から返ってくる言葉を待った。
「そりゃ、生まなぁいかんよ。お金のことはどうにかなるだろう」
てっきり怒鳴られることを覚悟していたカヨコは、夫から返ってきた言葉に肩透かしをくらった。カヨコは、胃を締め上げていた冷たい手が開放され、温かみが戻ってくるのを感じていた。

あれから半年がたった6月の朝。家の縁側で、日焼けした夫が、近所に住む親戚のおじちゃんと話している。

「ゆかりという名前はどうだろうか?」宗義が言う。
「いや、ゆかりはやめた方がいい。沖縄の闘牛で最近ゆかり号という牛が優勝したらしい。女の子なのにあんまり強くなられてもかなわんから、ゆかりはやめた方がいい」と、おじちゃん。カヨコは、畳の上で生まれたばかりの子どもに乳を飲ませながら、二人の会話を聞いていた。

実はこの話には、まだ続きがあった。消えたお金の行方だ。8人目の子どもが生まれた、次の正月。カヨコは、赤ん坊に白い産着(うぶぎ)を着せるため、箪笥から出してきた着物を出してきた。畳の上に置かれた包みをとき、留め糸を外そうと着物を手に取ったカヨコは、なにかの違和感に気づく。「あれ? 着物の中に何かが入っている……」。留め糸を外し、着物の袖の中に手を差し入れる。指先に触れた感触は、何かの紙のようだっだ。それを引っ張り出して、手に握られているものを見た彼女の目は、大きく見開かれた。今自分の手にあるのは、あの茶封筒だったのだ。
「なぜ、こんなところに?」彼女はつぶやいた。そして庭へ出ていた夫を呼んだ。
「あんたー。こんなところから、あの封筒がでてきた!」
宗義をよぶカヨコの声は、平屋を抜け1月の澄んだ空気へ吸いこまれていった。本当なら生まれてこれないはずだった子。その子の名は「蓉子」である。

***

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