貧乏でケチなウチで育った花嫁が読む、母への手紙《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:あさみ(プロフェッショナル・ゼミ)
結婚式の前日。明日花嫁になるというその夜に、私は頭を抱えていた。
机の上には、途中まで書いてぐちゃぐちゃっと黒くつぶされた便箋が3枚。
何度書いても書けない。
結婚式で読む「母への手紙」である。
こんな内容じゃ惨めで笑えもしない。
幼い頃の記憶を辿り思い出せるのは、母子の心温まるエピソードではなく、母がケチで、ウチが貧乏で、悲しかったエピソードばかりなのだ。
最初に思い出したのは、4歳の私が洋服屋の前で号泣している場面。
店頭に、幼稚園のリーダー的存在、マキちゃんがよく着ていたのと同じTシャツが飾ってあった。襟元にスカーフを巻いているだまし絵が描かれた大人っぽいヤツ。欲しくて欲しくて仕方がなかった。あれを着れば私も幼稚園でリーダーになれるに違いない。
だけどどんなにお願いをしても母は「ダメ」の一言だけで、いっさい取り合ってはくれない。私は息ができなくなるほどしゃくりあげて泣いた。お店のお姉さんが困ったように笑って「よっぽど欲しかったんでしょうねえ」と言っていた。
4歳の頃の記憶だけど、そのTシャツの柄も、お店のお姉さんのその言葉も鮮明に覚えている。
「いいかげんにしなさい!」と大きな声で怒られて、引きずられながら帰った。
この記憶を最初に、私は、「欲しいもの」をおねだりして買ってもらえたことはほとんどない。何歳の頃の私も、欲しいものが手に入らなくて泣いていた。
3段フリルのスカート、キャラクターが描かれたピンクの靴、おもちゃのお化粧セット、新しいリカちゃん人形、友達と通信ができる電子手帳、たまごっち、ニンテンドー64、etcetc……。
全部友達は持っていた。手に入らなかった物は20年たっても忘れられないものなのか、それとも私がしつこい性格なのか。次から次へと悔しかった思い出が浮かぶのに自分でも驚いた。
こういうおもちゃの類だけじゃない。
学校で必要なものでさえ、買ってもらえなかった。
上にきょうだいはいないのに、服や持ち物は基本いつもおさがりだ。
小学校に入学するときの制服やお道具箱もすべておさがり。祖父母が買ってくれたランドセル以外はすべて。親切なご近所さんがくれるのだ。その人は、入学式帰りの私がおさがりの制服を着ているのを見て目を丸くした。
「えっ! 新しい制服買ってもらわんかったん!? それは洗い替えのつもりであげたんよ……。まさか新入学なのに1着も制服買わんとは思わんかったけえ……」
それを聞いて私は、やっぱり母はケチなのだと悟った。私だってみんなと同じように新しい服が着てみたい。
2年生のとき、音楽の授業で鍵盤ハーモニカが必要になり、学校で購入用のチラシが配られた。水色かピンクか好きなほうに〇をつけてお金と一緒に先生に渡す。クラスメイト達は全員そうしていた。だから私も当然「あたしピンクがイイ!」と、母にチラシを渡してお金をもらおうとした。
だけど母は。
今度は、いとこから古い鍵盤ハーモニカをもらってきてしまった。
くすんだ緑色のケースに入ったハーモニカ。
「ほら、キレイな若草色! みんなと違ってかっこいいじゃあ!」
母は陽気に言ったけれど、私はそのときも泣きじゃくった。
「こんなのいらん!! みんなと同じがいい、いいんじゃもんんんん!!」
母は「そんなにみんなと一緒がよければ、よその子になりなさい!」とピシャリ言い、私を玄関の外に出す。ご近所中に響き渡る声で「いやだあいやだあ」と叫んでも、扉の向こうからはコトリとも気配はしない。こうなるともう「ごめんなさいいいいいい」と謝って家の中に入れてもらうしかない。
最初の音楽の授業の日、ピカピカのピンクやブルーのケースを持った友達に囲まれて、私は母曰く“若草色”の鍵盤ハーモニカを吹いた。家に帰ってやっぱり号泣した。
当時私はご近所中から「泣き虫〇〇ちゃん」と言われていたけれど、泣き虫なのは私のせいじゃないと思う。すべて母がケチなせいだ。
小学5年生の裁縫箱のときもそう。
学校で配られたチラシに載っている、スケルトンのふたの裁縫箱は買ってもらえない。やっぱり泣いたけれど。私はクラスでただ一人、古い手毬柄の裁縫箱を使った。
いや……手毬柄って。今でこそレトロでかわいいとも思えなくもないが、当時の私にはダサイ以外の何物にも見えなかった。クソださかった。だって周りはみんなスケルトンよ!?
もうその頃は母も「ウチはお金がないけえ」とダイレクトに言っていた。
両親は小さな商店を営んでいて、いつも一生懸命働いてはいたけれど、確かに大繁盛しているわけではなさそうだった。
そうか、貧乏なのか。ケチなのは貧乏だから仕方がないのか。
それに気づいた小学5年生の私は、きっとまだ子どもだったけれど、大人のフリをして自分の希望は飲み込むしかなかった。
もちろん誕生日にも、豪華なモノはもらえない。
誕生日プレゼントは毎年「りぼん」(400円くらいのマンガ雑誌です)。その他に特別なことは、いつもは魚の夕飯がその日は肉になるくらい。
「誕生日はあんたが主役じゃないんよ。ここまで育ててもらったと親に感謝する日じゃけえね」
これが母の言い分である。
ちなみにうちにくるサンタさんも母と同様にケチで、毎年私の手紙を無視して、絵本を1冊枕元に置いて帰っていった。
ああ、こんな文句ばかり手紙に書いたって仕方がない。
母も、そして巻き込まれた招待客も、私の幼いころから積もり積もった愚痴を聞かされるなんて、料理だってまずくなる。
ダムが決壊するように、悔しかった記憶があふれ出て止まらなくなってしまった。ポロポロと涙が出てくる。
手紙を書いては捨てを繰り返しながら。
あれ、
私は、これまでの人生、そんなに不幸だったのかな。
涙をぬぐいながら、もう一度丁寧に、母と暮らした日を振り返る。
楽しかったことはなかったか。
そういえば、春にはよく旅行に行った。いつも車で。しかも軽で。高速を使わず下道で。
有名な旅館の前で写真だけ撮り、手ごろな駐車場を探し、家族4人で車中泊。私と弟が大きくなると4人で寝るのは狭くなり、父は車に板を積み、寝るときだけ2段ベッドになるようにしていたっけ。今思えばあれはどういう仕組みだったんだろう。
夏はキャンプ。オートキャンプ場ではない。ただの湖のほとりで、よさげな平らな地面を探してテントを張る。しげみでとってきた葉っぱをお皿にして、ウインナーを食べたなあ。夜は電気を消すと目を開けているのか閉じているのかわからないような漆黒の闇に包まれる。トイレ行こうとテントの外に出ると、怖いくらいの満点の星空。空の「黒」と、星の「白」の分量が同じくらいの空を、私はあれ以来見たことがない。弟が「空に塩がふってあるみたい」と言った。
秋は稲刈り。祖父母の家の手伝いに駆り出されて行楽どころではない。私と弟は落ち穂を拾って田んぼを歩く。拾った落ち穂1本につき10円のお給料をもらえた。仕事をしてお金をもらえるのが嬉しかった。大人も子どもも平等って感じでわたしは胸を張っていた。休憩中には田んぼのそばにあるいちじくをもいで全員で並んで食べた。あれは毎年うまかった。
冬になると、毎週のようにスキーに連れて行ってもらった。
父も母も若い頃に買った何年も前のウェアを着て。ダボっとしたオシャンティなウェアに混ざって、ラッパズボンの父と母はゲレンデの中で浮いていてすぐに見つけられた。迷子にならずに済んだのはこのおかげ。
ご飯はレストランではなく、駐車場に戻って車の後部座席をフラットにして、持参したおでんやカレーを温めて食べた。母は雪の中で冷やした缶ビールをうまそうに飲んでいた。
そうして私は、遊園地や高級ホテルに行ったことはないまま高校生になり、受験生となった。
新聞記者に憧れていた私は、マスコミ系の勉強ができる私立の大学への進学を希望した。だけど、私は高校に入る前から母に言われていたのだ。「ウチの財力では、大学に行きたければ国公立しか無理よ」と。
進路の話をするとき、いつも母とケンカをしていた。
「行きたい」「無理」「夢を応援してくれんの! 勉強したいことがあるんよ!」「最初っから無理って言っちょったじゃろ」その繰り返し。18歳になった私は、やっぱり泣いていた。幼い頃と何にも変わっていない。
いよいよ志望校を決めなければいけない三者面談の前日。
父と母は1つの通帳を差し出した。表紙には私の名前がかいてある。
開いてみると、総額は250万円。0歳の頃から祖父母や親戚にいただいたお年玉や進学やお誕生日のお祝いがそこにすべて入れてあった。入金額の1行1行に、鉛筆でいつ誰からいただいたお金かのメモが添えられている。
いつもお年玉やお祝いは自由に使わせてもらえず、母に取り上げられていたから、きっともう無いのだろうと思っていた。なんなら貧乏だから生活費に充てられているかもしれないとさえ思っていた。だけど父と母は、この日のために、1円も手をつけず、コツコツと私名義の通帳にお金を入れていたのだった。
それに加えて毎月少しずつ少しずつ父と母は貯金をしてくれていた。
母が言った。
「このお金で大学に行きんさい。国立じゃったら足りるじゃろう。じゃけど、あんたが行きたい私立じゃったら140万円足らん。とりあえず父さんと母さんがなんとかするけえ、働くようになったら返しんさい。利子はサービスしちゃる」
私は「ありがとう」と言っただろうか。覚えていないけれど、おそらくぶっきらぼうに「わかった」と言っただけだったような気もする。
おかげで私は、第一志望の私立大学に4年間通うことができた。
ケチでない親なら「もう140万円はええよ。あんたが有意義やったんなら」と言うのかもしれない。だけど母はキッチリと社会人1年目から借金を徴収し、私は5年をかけて完済した。
こうして、ゆっくり振り返って気づいたのは、
母はケチで、そしてお金がなくて、
欲しいものは買ってもらえなかったけれど
やりたいことは、やらせてもらったということ。
「欲しい」は一切ダメだったけれど、「やりたい」には必ず答えてもらっていた。
「やりたくない」を強要されたりもしなかった。
大学時代、友達と旅行の計画を立てていたときなんかに「47都道府県ほぼすべての県に行ったことがある」と言うと驚かれた。みんな高級ホテルやリゾートや海外には行ったことはあるけれど、それは数回。私ほど多くの場所には行っていないことをそのときに初めて知った。
そして私は「なんにもない場所でも遊べる」ことをよく感心された。遊具がなくても、設備がなくても、アトラクションがなくても、観光スポットがなくても、そしてお金がなくても、「やりたいこと」や「楽しいこと」はいつだって創意工夫次第で作り出せる。
母のケチから身に着いたこの特技は、今の私のベースになっている。
大学で勉強する中で夢は変わり新聞記者を目指すのはやめてしまったけれど、商品の企画開発の仕事についた私は、この特技でお金を稼いでいる。
働くようになって初めて、お金の価値観や相場感というものを肌で感じるようになった。ウチは思っていた以上に貧乏だったんだということも分かるようになった。
そんな中で、母はいつも「欲しい!」と泣きじゃくる私と闘い、なだめ、ときには叱り、代わりに「体験」を与えてくれていたように思う。それは忍耐がいることだっただろう。工夫がいることだっただろう。
お金を使うことの方が、簡単なのだ。
感謝の手紙を書こうとしているのに、愚痴がどんどんあふれてくるようなゆがんだ性格にはなったけれど、私は思い出で満たされて幸せに育ててもらった。
結局私は、ネットに乗っている例文のように美しい思い出話や感謝の気持ちをつづった手紙はどうしても書けなかったのだけれど、母のケチエピソードをまじえて、最後はこう締めくくった。
「母さんはいつも、欲しいものは“ダメ”って言うし、鍵盤ハーモニカもお古だったけれど、私がやりたいことがあるときは“がまん”と言わずに、どうしたらできるか考えてくれました。制限のある環境の中で私の意志を尊重することは、お金を出すよりもきっと大変だったよね。私が進学や就職や結婚の節目で自分の選んだ道に自信が持てたのは、どんなときも父さんと母さんが私の意志を最大限に尊重してくれたからだと思います。蝶よ花よではなかったけれど、大切に育ててくれてありがとう」
結婚式の当日、普通の花嫁らしく泣きながら手紙を読み終えた私に、母はにやりと笑ってこう言った。
「あんた、鍵盤ハーモニカの話とか、くだらんことよう覚えちょるね。母さんみんな忘れちょったわ」
ええ、その程度のモノですよ。私の恨みって。
なかなか素直にはなれないけれど、感謝の方が断然大きいですから。
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