プロフェッショナル・ゼミ

うつ病治療のきっかけは産婦人科に行くことだった《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:上田光俊(プロフェッショナル・ゼミ)

※このお話しはフィクションです

「お願いだから、病院に行ってください!」
何故、自分がそう言われているのか敦司には全く理解できなかった。
慢性的に身体がだるくて疲れやすい状態が続いていることはたしかだが、それは別段今に始まったことではない。
SEという仕事柄、作業が深夜にまで及んで、それが数日間続くということも珍しくはなかった。
徹夜になることだって、当然あった。
そんな生活をもう何年も続けている。
それは妻の涼子も理解しているはずだった。
事実、ここ数日は徹夜が続いていて、帰宅したのは3日ぶりだった。
たしかに普通に考えてみれば、この状態は異常なことかもしれない。
ブラックだと言われても仕方がないだろう。
しかし、だからと言って、それと自分が病院に行かなければならないこととは、何の関係もないことのようにしか敦司には思えなかった。
どちらかといえば、病院に行かなければならないのは自分ではなくて、従業員たちに処理しきれないほどの膨大な仕事量を当たり前のように押し付けてくる会社の上層部の人間たちではないのか。
異常があるのは、自分の身体ではなく、彼等の頭の中身の方だ。
俺はどこも悪くない。
敦司はそう思っていた。
敦司には涼子が自分に対して、何故そんなことを言ってくるのか全く理解できなかった。

「俺が病院て……、なんで?」
「なんでって……、ほんとにわからないの?」
「わからないよ。だって、別にどこも悪いところなんてないし……」
「あなた、ちゃんと食べてる? 最近のあなたの痩せ方おかしいわよ! くまは酷いし、頬はこけてきてるし、家にいる時だって、あまり食べないじゃない! 食欲ないとか言って」
「このところ仕事が立て込んでたから、ちょっと疲れてただけだよ。仕事が落ち着いたら、その内、元に戻ると思うから大丈夫だって……」
「そんなレベルじゃないわよ! 自分がどれだけ痩せてしまっているのかもわからないの? そんな状態で今のまま仕事を続けていたら、本当に倒れちゃうよ! お願いですから、病院に行ってください!」
「そんな大げさな……」
敦司は涼子の言うことに全く取り合わなかった。

涼子は心の底から心配していた。
不安で不安で仕方がなかった。
このまま夫の敦司を放っておいたら、本当に倒れてしまう。
いつ倒れてしまうのかもわからない夫を放っておくわけにはいかない。
ただでさえ、痩せていて食の細い夫が、いくら仕事で忙しいとはいえ、何も口にしない状態がこれ以上続けば必ず身体が悲鳴を上げるはずだ。
いや、本当はもうすでに悲鳴を上げているに違いない。
しかし、夫は自分の身体が、今どんな状態なのかを全く理解できていない様子だった。
ここ最近、どれだけ急激にやせ細ってきているのか自分ではわからないのだ。
夫には自分の身体の悲鳴が一切聞こえていない。
それに、涼子の心配はそれだけにはとどまらなかった。
このところ、夫に話しかけても、聞いているのか聞いていないのかわからないような状態で、何度か声をかけないと返事すら返ってこない。
いつも伏し目がちで、元気がなく、まるで生気が感じられない。
夫の身体から感情というものがごっそりと抜け落ちてしまったかのように、生身の人間らしさが全く感じられないのだ。
表情はないに等しく、能面のような顔で、目は虚ろ。
明るい部屋の中にいても、夫の周りだけは、何故かいつも空気が暗くて重たかった。
涼子には、悪い予感があった。
その暗くて重たい空気に見覚えがあったのだ。

うつ病……。

涼子の兄はうつ病を患っていた。
兄の陽和(よしかず)は2年前にうつ病を発症していた。
グラフィックデザイナーだった陽和は、なりたかった職業に就くことができて、数年前までは仕事も順調で充実した日々を送っていた。
しかし、ちょっとしたミスがきっかけで会社の大事なクライアントからの信頼を失ってしまったらしい。
それからというもの、そのミスを挽回しようと、以前にも増して仕事に没頭するようになり、昼夜を問わず働き詰めの毎日を送るようになった。
それに追い打ちをかけるように会社の業績が悪化し、従業員が何人も辞めていくような事態にまで発展した時、その穴埋めを兄が一人で仕事を抱え込むような形で背負いこんだのだ。
その結果、ある日突然、兄は朝起きた時から動けなくなっていた。
無断欠勤など今まで一度もしたことがない真面目で責任感の強い兄から、会社に何の連絡もないことをおかしく思った会社の上司は、何度連絡を入れても反応がないということで両親に連絡を入れてくれていた。
それで、兄が一人暮らしをしているマンションに母が訪ねてみたところ、ベッドで目を見開いたまま呼吸が浅くなって動かないでいる兄を発見したのだ。
その様子を見て、慌てて母はそのまますぐに兄を病院に連れて行った。
そして、そこで診断された病名は、うつ病だった。
身体的には何の異常も見られなかったため、心療内科を受診したところうつ病だと診断されたのだ。
母がベッドの上で横になっている兄を発見した時、兄は「俺がやらないと会社に迷惑かけるから……」と何度もブツブツ呟いていたらしい。
涼子はそれを聞いた時、兄がうつ病になってしまったということが本当に信じられなかった。
兄の陽和は、どちらかといえば活発で人付き合いも良く友達も多かった。
真面目で責任感の強い兄は、誰からも信頼されていたし、心を病んでしまうようなタイプの人間には到底思えなかったのだ。
でも、事実は違った。
これは後で調べてみてわかったことなのだが、うつ病になりやすい人の特徴が兄の陽和の性格とよく似ていたのだ。
真面目で責任感が強く、几帳面で仕事熱心、気配りができて、ついつい限界まで頑張り過ぎてしまう。
それが兄だった。
うつ病になりやすい人のタイプは、精神的に弱い人というよりもむしろ強い人に多いらしく、そういう人が限界を超えてしまう程頑張り過ぎてしまった結果、うつ病になるケースが多いのだという。
うつ病と診断された兄は、その後仕事を休職し、両親がいる実家で通院しながら自宅療養することになった。
基本的には母が一人で兄の面倒を見ていたのだが、母一人では負担が大きいだろうと思って、涼子もこまめに実家に顔を出すようにしていた。
その時に見ていた兄の様子が、夫の今の状態と酷似していたのだ。
目は虚ろでくまが酷く、頬は痩せこけ、無表情だった。
兄の身体から感情というものが全て抜け落ちてしまって、ただ肉体だけがそこにあるといった状態にしか感じられなくなっていた。
あれは兄の抜け殻だ。
兄の心はどこかに行ってしまったのだ。
あるいは誰にも気付かれない場所を見つけて、じっとそこに身を隠しているのかもしれない。
自分を守るために。
涼子にはそうとしか思えなかった。
兄は、家の中のどこにいても、常に周りの空気が暗くて重かった。
その暗くて重たい空気を、今の敦司も同じように抱え込んでいるようにしか見えない。
敦司には、絶対に兄のようにはなって欲しくなかった。
今ならきっとまだ間に合う。
涼子は自分にそう言い聞かせていた。
なんとかして、夫を病院に連れて行かなければ……。
心療内科で診てもらわなければ……。

「畑中さん! 大丈夫ですか?」
敦司は最近職場でそう言われることが極端に増えていた。
仕事中もぼーっとしてしまっていることが多く、同僚から何度も名前を呼びかけられないと反応できない。
以前だったら、考えられないようなちょっとしたミスも目立って多くなっていた。
少しでもミスを減らそうと作業の確認をしたところで、その内容をすぐに忘れてしまう。
ついさっき言われたことが覚えられない。
覚えられないのは、なにも仕事のことばかりではなかった。
今、自分が何をしようとしていたのか、どこに行こうとしていたのか、何故今ここにいるのか、何を考えていたのか、そんなことですらすぐに忘れてしまう。
今日は何曜日なのか、今日は仕事があるのかそれとも休みなのか、それらのことを思い出すのがとても困難になっていた。
敦司自身も、自分の異変に気が付いていた。
何かがおかしい……。
こんなはずじゃなかった。
今までこんなことは一度もなかった。
このままいけば、もしかしたら自分の名前でさえも思い出せなくなってしまうんじゃないだろうか。
敦司は、それを考えると怖くなった。
自分がこれから一体どうなってしまうのか。
今までのように仕事を続けていけるのか。
今日のことですら忘れるようになってしまうのか。
そう思うと、敦司は強烈な不安に襲われた。
敦司が抱えている不安はとても暗くて重たかった。
しかし、敦司にはそんなことを考えている余裕はどこにもない。
目の前には膨大な量の仕事が待ち構えていたし、少しでも手を弛めてしまうと、仕事がさらに巨大化して襲い掛かってくるのだ。
敦司にはこのまま働き続けるという選択肢しか見えていなかった。
それ以外のことが一切考えられない状態になっていたのだ。

「お願いだから、病院に行ってください!」

妻の涼子からは、何度も同じことを言われていた。
「あなたはもう正常な判断ができる状態じゃない!」とも……。
しかし、敦司は妻の言葉を無視し続けていた。
自分がおかしくなりつつあるという自覚がありながらも、敦司は自分の症状を放置したまま、今までと何も変わらない生活を続けていたのだ。
敦司には、もうすぐそこまで限界が近付いていた。
そして、そのきっかけは案外すぐにやってきた。

「畑中さん! ここ、どうなってるんですか?」
会社に、敦司が開発チームメンバーの一員として担当していた主要取引先の販売管理システムが、突如ダウンしてしまったとの連絡が入った。
連絡を受けた敦司は、チームのメンバーたちと一緒に原因究明と復旧に対応することになったのだが、敦司がプログラミングした箇所にシステムエラーの原因となるバグが見つかったのだ。
しかも、それは今までの敦司なら考えられないほどの単純なミスだった。
開発チームのメンバーたちとの連携が普通に取れていれば、そのミスは簡単に防げるようなものだった。
それがわかった時、敦司は心の底から自分が信じられなくなっていた。
愕然としたのだ。
自分にはこんな単純なこともできなくなっているのか……。
自分の症状に異常があるということを認識してからは、あれほど注意していたというのに……。
チームの一員として責任を果たせるどころか、俺はみんなの足を引っ張っているだけじゃないか……。
そう思いながら、敦司は、自分が脱力していくのをぼんやりと感じていた。
立っていることさえままならない。
足元がふらついてくる。
敦司は、自分の身体が自分のものではないような、そこから自分が抜け出していくような感覚になっていた。
視界がうっすらと霞んでくる。
周囲の話し声や、誰かがキーボードを叩く音もどんどん遠く、そして小さくなっていった。
まるで救急車が自分のそばを通り過ぎていくように。
敦司は、今自分が何をしようとしていたのか、どこにいるのか、何故今ここにいるのか、何を考えていたのか、そのほとんどを思い出せないような状態になっていた。
それほどまでに思考能力が急激に低下していったのだ。
もうダメかもしれない。
自分にもとうとう限界が来たんだ。
身体中から力が抜けていくのを感じながら、敦司はふとある事に気が付いた。
自分の近いところで何かが振動しているようなのだ。
敦司は自分の周辺を見回した。
それらしきものは見当たらない。
その振動は、どうやらもっと自分の身近なところにあるらしかった。
敦司はそれがどこにあるのか、身体中を手探りで探した。
そして、ようやくジャケットの内ポケットの中にそれを見つけ出した。
それは、妻の涼子からのLINEだった。

「仕事中にゴメン。妊娠したかもしれない。近いうちに一緒に病院に行ってもらえませんか?」

その文面と共に、妊娠検査薬に陽性反応が出ている画像が添付されていたのだ。

「こ、子ども……? 俺に子どもが……」
敦司は、今、自分の身に何が起きているのか、理解するまでにかなりの時間を要した。
それが何を意味しているのか、どういうことなのか、しばらくの間ちゃんと認識できなかったのだ。
しかし、敦司は自分の中で、ある思いが力強く湧き上がってくることだけは、はっきりと感じ取っていた。
それは、

強烈な喜びだった。

そういうものがあったということすら忘れかけていた喜びという感情が、敦司の中からあふれ出してきたのだ。
敦司はただ嬉しかった。
こんな自分にも、子どもができた……。
本当に子どもができたんだ……。
そう思うと同時に、敦司は今までずっと目を背けてきた自分の問題と向き合う覚悟が、あっさりとできている自分に気が付いた。
俺は、もうこんなことをやってる場合じゃない……。
ちゃんとしなければ……。
そして、

「わかった。一緒に病院に行こう。今日は早めに帰るよ」

その場で、そう涼子にLINEした。

「記憶障害ですね」
涼子は夫の敦司と共に病院にいた。
今日は産婦人科ではなく、夫に付き添い、心療内科に来ていたのだ。
妊娠検査薬で陽性反応が出たその数日後、涼子は夫に付き添ってもらい、産婦人科を受診していた。
妊娠検査薬だけでは、本当に妊娠しているのかどうかまではわからない。
たとえ陽性反応が出たとしても、それで必ず妊娠しているということにはならないのだ。
本当に妊娠しているかどうかは、結局のところ産婦人科で診てもらわなければならなかった。
それで、夫に付き添ってもらい産婦人科で診てもらった。
その結果、涼子は妊娠していた。
嬉しかった。
自分が本当に妊娠しているということがわかった時、涼子は心の底から嬉しかった。
なかなかできなかった新しい命……。
お腹の中に宿った小さい命を、夫の敦司は自分と一緒に喜んでくれた。
それもまた嬉しかった。
それから、夫はようやく自分から病院に行くと言ってくれたのだ。
涼子はほっとした。
これで、夫は兄のようにならなくて済む。
朝起きたら、ある日突然ベッドの上で動けなくなっていた、ということにはならない。
きっとこれでもう大丈夫。
そう思えるようになっていた。
しかし、それでもまだ心配だった涼子は、夫に付き添って、一緒に病院に付いて行くことにしたのだ。
勿論、涼子も夫の敦司も心療内科に行くのは初めてだった。
夫は生まれて初めて心療内科を受診した。
そこで言われた夫の症状は、

「記憶障害」

というものだった。
それは、数時間前に起こった出来事そのものが思い出せなかったり、記憶の一部が完全に飛んでしまうという症状らしかった。
そして、先生はそれに続けて、さらにこう付け加えた。
「旦那さんはうつ病です。記憶障害はうつ症状の一種です。このまま仕事を続けていられる状態ではありません」
夫はうつ病だと診断されたのだ。

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