メディアグランプリ

30年前の自分に習って。


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記事:山田裕嗣(ライティング・ゼミ平日コース)

 
 
「先生、トイレに行きたいです」
 
この一言をどう言えば良いのか分からず、頭が真っ白になった。
そのときの絶望的な気持ちは、今でもよく覚えている。
 
5歳のときに、親の仕事の関係でアメリカに引っ越すことになった。
親から「アメリカ」への引越しを告げられたときには、その場所がどれくらい遠いかなんてさっぱりわからず、「one, two, three」とか「cucumber」とか、適当な英単語を父から教えてもらっては、姉と弟とはしゃいでいた。
 
アメリカに行って、最初はホテルに仮住まいをした。
両親は色んな手続きなどで忙しかったはずだが、5歳の私にとっては、車に乗ってあっちこっち移動したり、レストランで食事したり、スーパーでやたらと大きいショッピングカートを姉弟と取り合ったり、ちょっとした旅行みたいな時間だった。
 
そんな旅行気分は、現地の小学校に通い始める日から急に日常へと変わっていった。
登校初日。両親と、同じ小学校に通う姉と一緒に、ちょっと薄暗くて、天井の高い廊下を歩いて校舎に入っていったシーンは、鮮明に記憶に残っている。
その後、両親と一緒に、教室に案内された。
教室はオープンスペースになっていて、ロッカーや簡単な間仕切りで区切られた広くて明るいスペースだった。
ところどころにある太くて四角い柱には、アメリカの国旗とテキサス州の州旗が必ずセットで掛かっていた。
 
そして、次に覚えているのは、「トイレに行きたいです」と言えなくて、オシッコを漏らしそうになりながら、絶望的になっている場面。
教室中のクラスメイトの目が自分に向けられている。どんな表情をしているのかを確認する余裕なんてなかった。
両親は既に帰ってしまった。
眼の前に居る先生は困り果てていた。それはそうだ。何一つ言葉が通じない新入生が、勝手に泣きそうになってるんだから。
結局、そのときは隣のクラスに居た日本人の生徒が来て、先生に通訳してくれた。そのおかげで、初日からお漏らしなんていう最悪のスタートは避けられた。
 
そんな「事件」から始まったアメリカでの小学校生活は、言葉が通じないことが苦痛で、とにかく辛く切ない日々になった……と言いたいところだが、実は、全くそんなことはない。
 
その後に思い浮かぶのは、休み時間にだだっ広い校庭で夢中になってサッカーやアメフトをしてたことや、ハロウィンに仮装してお菓子のお城を作って遊んだこと。
楽しいことばかりではなくて、日本人であることを遠回しにからかわれて嫌な思いをしたこともあったし、スクールバスの中で座席を巡って上級生と口論したこともあった。
 
ただ、そのどれもが、当たり前に「英語で話す」ことの上で成り立っている。
abcすら知らなかった5歳児が英語を話せるようになるまでには、それなりに勉強が必要だっただろうし、それなりに苦労もしたはずだ。ただ、本当に、その途中のことは一切覚えていない。
「トイレに行きたい」が言えなくて絶望した次には、「上級生と口論」できていたのである。
 
このときの体験について、「どうやって英語を覚えたんですか?」と聞かれたときに、何回かネタとして人に話したことはある。逆に言えば、そんな程度のもので、特に強く印象に残っていたわけでもない。
ただ最近になって、「今までに経験がない状況」に臨むには理想的なスタンスだった、と思うようになった。
 
昨年の末に、色んな縁とタイミングがあって、自分の会社を立ち上げた。しかも、妻と一緒に。
それぞれ全く違う事業をやるのだが、深いところで共通点があるテーマだという面白さと、夫婦でそれぞれ会社を作るのも勿体ないしめんどくさい、という極めて現実的な理由から。
 
もともと、新しいことを試すのは好きな方なので、「経験がない状況」は決して珍しいわけではない。
それにしても「ゼロから会社を立ち上げる」と「妻と一緒に仕事をする」が同時にやってくるのは、さすがに新しい。
 
夫婦で働く以上は、「仕事の生産性」と「保育園の送り迎え」は同じテーブルの上で扱われる。
事業内容も、テーマとしての深いところでの共通点は見えているものの、それをどうやって事業に落とし込めば良いかもさっぱり分かっていない。
とにかく、仕事も家庭も、分からないことだらけの状況になった。
 
ロジカルに状況を整理して、目標を決めて、マイルストーンに落とし込み、日々進捗を管理する。そんなビジネス書にありそうな問題解決のプロセスでは、色んなことが上手く行かない。
そんな経験が通用しない状況で、どう取り組んでいけば良いのか。
 
5歳で、英語が全く分からなかった自分は、「目標を立てる」なんてことは決してしなかった。「進捗管理」も「問題解決」も。
では、何をしていたか。
英語を覚える過程を「一切覚えていない」のは、与えられた目の前の環境に、ただただ没頭していた、ということだったのだろう。
目の前のあらゆる会話、あらゆる出来事を、純粋に「体験する」ことに徹して、そこから最大限に吸収していった。
そんなことの積み重ねをしている中で、知らぬ間に英語も覚えていった。
 
大人になり、それなりに知識や経験があると、「効率の良い方法」を探してしまう。特に私は無駄なことが嫌いなタチなので、その傾向は強い。
ただ、本当に「良くわからない状況」にあるときは、もっと純粋に、もっとシンプルに、目の前の状況を体験し尽くして、そこから学ぶことに徹したほうが良さそうだ。
少なくとも、「効率的な問題解決」を目指すよりは、今の状況では筋が良さそうに思える。
 
ということで、日々の新しい状況に心から没頭して、そこから見えてくる次の可能性を探し出してみたいと思う。
30年前、言葉の通じない世界でもたくましく成長していった、5歳の自分に習って。
 
 
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2018-02-23 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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