メディアグランプリ

幼年期の始り


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記事:近藤頌(ライティング・ゼミ平日コース)
 
「坊や。家に帰りたいんだけど、そこのドアの鍵、開けてくれない?」
 
当時、10歳だったと思う。
学校から帰宅し、我が家でいつものようにテレビを見ていたらこう話しかけられたのだ。このことは今でもよく覚えている。
いやむしろ逆に、このことと、警察に助けを求めているのを無理やり引っ張って帰ったこと。チェーンの掛かった扉の前で半泣きになりながらそのチェーンのネジを緩めようと必死になっている姿。その時の誘拐犯でも見るような眼差し。「なんでこんなことするの!」と責めるとんがった気迫。
このぐらいしか覚えていない。
 
話しかけてきたのは祖母だった。
その後祖母が病院へ入院する間の数ヶ月間、どう一緒に過ごしていたか、どう接していたか、ぼくはまるきり覚えていない。
 
祖母の発症した病気の名前はアルツハイマー型認知症だった。
当時はまだ痴呆症という言葉だったと思う。
 
「最近なんだか、変な時があるのよね」
当時母に言っていた言葉だという。
 
症状として、まず記憶障害がある。
ただの物忘れと違うところは、忘れていることを指摘しても忘れていたという自覚がないこと。
「ああ、忘れてた」ではなく「え、そうだっけ?」という感じの受け応えになる。
 
次に、というのも変な言い方だが、同時進行的に、判断力も低下してくる。
今まで作ることができていた料理の手順や、掃除の時の捨てるものがわからなくなったりする。そんな馬鹿な、と思う人もいるかもしれないが本当にそうなっていく。
 
そしていよいよ、今いる場所がわからなくなったり、突然大事なものが無くなったと騒ぎだしたり、家にいるのに家に帰ると言いだしたりするようになる。
 
当時は本当に祖母のことを不気味に思っていて、なるべく関わらないようにしていた。
そりゃそうだと、自己弁護したい。
だって、顔を合わせれば他人行儀か盗人扱い。さもなくば誘拐犯の手下である。こちらとしてはまだそういう病気なのだということも知らず、今までの祖母と接しているつもりでいるのだ。関わっていると混乱するし、疲れてくるのだから、その疲れる原因となる人を避けるのは自然な流れというものである。
 
しかし、避けたら避けたで問題が解決するはずもない。そしてまた、ここでも言葉として現れている通り、祖母はもう自分の中では祖母ではなくなり、「問題」という無機質なものへとすり替わっていったのだった。
 
その祖母はもういない。
諸事情あって、入院した後そのまま離ればなれになり、ぼくの知らないところで亡くなったのだと随分後になって聞かされた。
 
こうなってくると、これまた自然な流れなのか、ぼくの良心とでもいうべき残りかすのような優しさが胸に張り付いて息をしづらくする。
あの時、どうすればよかったのだろうと過去の中から正解を求め出す。
 
今は多少、知識も増えた。
『ヘルプマン』(作:くさか里樹/講談社)という介護を扱った漫画作品は高校時代繰り返し読んだ。
そのおかげか、認知症の人たちが自分の家を探す旅にでたがるのも、今ならなんとなく理解できる。
認知症の人は、記憶がなくなっていくのだけれども、大概は最近の記憶からなくなっていく。つまり、今まで住んでいた家を家でないと認識しているということは、記憶の中での家とは生まれの家を指しているということになるのだ。
 
幼年期への逆走。
苦労して歳を重ねた人に待っていた末路。
ぼくは思った。
周りの人からしてみれば迷惑なこともあるだろうが、当の本人にとっては最後に子どもに戻るというのは、幾分か幸せなことではないだろうかと。
 
生活していく上で起こるしがらみ。学歴や人脈、損得勘定を利用して自分の成したいことを成す政治的な生き方に伴う鉄臭さ。その鉄臭さに重なる食費やら光熱費やら、交際費もろもろの金属臭。欲しいものが見つかって買ったはいいけれど、買ってから、なんだかため息が漏れて次の給料日までの日数を確認する生臭さ。
これらは今の自分の給料が低いことへの嫌味でしかないのかもしれないが、そんなことを何もかも忘れて、ただ「家に帰りたい」といった本能的な欲求に身をまかせるというのは、その欲求が満たされなければ苦痛だろうが、何やら気楽なことのように思えるのだ。
 
さらに思うのは、人間の記憶の消滅後の欲求というのが、帰りたいという望郷感情であるのも興味深い。
その裏には安心したいという生理的な欲求もあるのだろうが、人は潜在的にどこかに身を置きたい、滞在したい、定住したいという欲求があることに面白みを感じる。
人は生きていく上で、自分を変えていくことの必要性をなんらかの経験から学んでいく。記憶力を鍛え、名前や名前の意味することを多く蓄えていく。その中で考え方も変わっていくはずなのだ。その人が自分の意識がなくなるまで、つまり死ぬまでに成したいことを見つけて実現するための変革行動を繰り返していくことになるはずなのだ。
しかし、その記憶がなくなっていくと、残る欲求は、身の安全が保証される、安心できる安らぎの空間の確保なのだ。
 
ふと、思うことがある。
もし仮に、ぼくが認知症になったとしたら、一体どこに帰りたがるのだろうか。
 
少年時代から引越しを何回かしてきた。
そのおかげか地元と呼べるようなところが、ぼくには数カ所ある。
もしぼくが認知症になったら、きっとそのどこかに帰りたいと思うのだろう。
だが一体、どこになるのか。
その、ある種の博打感が、ぼくには少し楽しみなのだ。
 
今まで生きてきた中で、自分にとって大切な場所とはどこであったか。
人生の終末期にその自覚に目覚め、もしその場所を尋ねることができたなら、それはひとつの幸せではないだろうか。
 
このような終末観は一見寂しいことのように感じるが、そうとも限らない。
なぜなら、所詮人生なんてそんなもの、と気負わずに済むからだ。気負いなく生きられるというのは、これからを生きていくことに対しての抵抗が薄まるということでもあるからだ。
成功とか、失敗とか、借金とか、嫌いな人間とか、色々あるけれど、そもそもの土台はとんでもなく単純な構造をしている、と。
そんなふうに高をくくって生きる人生も悪くないのではないのか、と。
 
そんなことを書いているうちに
「おにいさん」と、後ろから声をかけられた。
ああ、はじまった。
 
***

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2018-03-16 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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