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義母と私の10年戦争


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:北古賀昌子(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
有り得ない! と言われた気がした。
「何でお義母さんにそんなに言い返せるんですか?」
「年季が入ってるからね」
義弟の奥さんに「へ〜」という顔をされた。
たぶん、理解は難しいだろうな。
義母と私の年季の入った時間は、口では説明のしようがないんだ。
 
嫁ぐ前に念を押されていた。最初から同居するように……と。
友人一同は「有り得ない!」と言っていた。
これがまた、何でそれで承知してしまったのか分らないのだけれど、有り得てしまった。
正直、苦労はしたと思う。
 
いわゆる、よくネットなどで書き込まれるような嫁姑問題なんて普通にあった。
「嫁なんだから」という台詞も何度も聞いた。
家事の一切は嫁の仕事。
風呂は一番最後。
食事も少ないもの、崩れたものは当然嫁が食べる。
盆正月の準備は当然。
実家に帰れるのは、家事が一段落しての昼間の数時間だけ。実家のお泊まりは旦那付き、自分だけは許されない。
来客時には台所で下働き、おもてなしして細かな事に気付かなければ「気が利かない」と怒られる。
出産は病気ではない。全て普通に生活すべし。
 
障害を持った息子を生んでからは更に厳しかった。
周りからも、全て私が悪かったからこんな子が生まれたと言われた。
特に義父は私に怒っていた。
孫が生まれたら英才教育をすると意気込んでいただけに、相当な落胆振りだった。
私が義父の夢を潰したのだ。
 
私と旦那は恋愛で、旦那のゴリ押しで結婚に踏み切ったのに、最初は誰にも何も言い返せず、我慢ばかりの毎日だった。
そんな中、旦那だけは味方をしてくれた。その一本の糸だけが私とこの家を繋いでいた。
 
私は戦わなかった。いや、戦う方法すら知らなかったし、思いつく事もなかった。
知人の前で義母から罵倒された時、知人は「何故言って返さないのか」と言った。
でも、やはりどうすれば良いか分らなかった。
 
ある日、義母の友人が私と義母の前でこう言った。
「私はあなたの旦那さんのファンなのよ。だから、ウチの隣のお嫁さんみたいな奇麗な人と結婚して欲しかったのに!」と面と向かって言われてしまった。
そんなバカバカしい台詞に「すみません……」と謝った私を、義母は睨んでいるような気がした。
義母もそう思っていたのか……。
しばらくしてその友人が帰ると、義母はこう言った。
「何言ってんの? あの人!」
不快な表情丸出しで「あんたの方がマシよ!」
と吐き捨てるように言った。
え? 今、何て? もしかして、庇ってくれた??
義母の怒っているのは、その友人に対してだった。
私は、嬉しいと言うよりもおかしかった。ついつい吹き出して笑ってしまった。
「何?」「いや、別に……」
 
その時から少しずつ関係が変わって来た気がする。
何故かと言われても理由がつかない。ただ、その時から義母に対して静かに受け答えしていた私は、はっきりと何事にも受け答えするようになった。
年を重ねるごとにいつの間にか敬語すら話さなくなり、何か言われれば言って返し、旦那が側で見ても、ボケとツッコミを交互にやっていて、まるで親娘漫才の様だったそうだ。
 
きっと関係の変化は、私が持っていた壁を外したことにあるだろう。
本当は義母は、叩けば叩いて返して欲しかったのだと思う。
よく思い出してみると、義母は障害を持った息子を生んだ私を責めた事はなかった。
私は義父の想いにはとうとう答えることは出来なかったけれど、義母の想いは受け取る事が出来たのだと自負している。
相変らず家事は嫁、風呂は最後、気が利かない嫁。
けれどそんな嫁は、障害を持った孫の遠足や運動会の付き添いに義母を遠慮なく招集した。
義母は「こっちはキツいんだよ」と、ニコニコとやって来た。
兄弟児が生まれても同じだった。
 
いつの間にか嫁姑で過ごす時間は、遠慮も思慮も何もない言葉のやり取りになっていた。
どちらが優勢になっても、どちらが劣勢になっても、最後はどちらも声を出して笑っていた。
そして10年を超える頃には、すっかり私が優勢に立つ事が増え、やはり二人でわははと笑っていた。
その頃になると、男どもはすっかり女達には敵わなくなっていた。
 
義父が亡くなってから、義母も体調を崩した。
病名は大腸がんだった。
あっけなく告知されて、私は医師の冷たい言い方に憤慨した。
緩和ケアに入った義母に、私が出来る事は今まで通りに接することだった。
やせ細る義母に、容赦なく話した。義母も容赦なく返した。
その様子を見ながら、義弟の奥さんが「何でお義母さんにそんなに言い返せるんですか?」と聞いてきた。
「年季が入ってるからね」
 
義母が亡くなった日、モルヒネによる最後に見た義母の幻想は、孫の小さい時の姿だった。
私はずっと泊まり込んでいたが、亡くなる日に向かって義母の口数は減っていき、それでも私は話し続けた。
義母はきっと、幻想の中で私に突っ込んでいたはずだ。
 
義母が私を庇ってくれたあの日から、義母と私はすっかり親子になっていたのかも知れない。
嫁いで10年を掛けて、私は義母と良い意味での戦争に勝ち、義母を味方に付けた。
いや、それは実は反対なのかも知れない。
 
互いを自然に受け入れる事が出来て、互いを認め合うための10年は、本当に尊いものだった。
そして今年、義母がいなくなって10年満了となった。
戦争の相手は私にもいつかやって来るのだろうか。
その日を恐れながら、楽しみに待つことにしよう。
 
 
***

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2018-04-13 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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