プロフェッショナル・ゼミ

駆け込み寺の仏様《プロフェッショナル・ゼミ》


*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:久保明日香(プロフェッショナル・ゼミ)

「どうなの、子供。そろそろなんじゃない?」
職場のお局さんが私にこう聞いてきた。パワハラ、モラハラなんて言われているこの時代によくまぁずけずけと質問できたものだなぁと内心感心してしまうほどだった。
私は昨年、結婚をした。となると次は出産だろう、そんな短絡的な考えからこのような問いかけをしてきたのかもしれない。

この質問の発端はある日職場に赤ちゃんがやってきたことがきっかけとなっていた。

現在産休中の女性社員が、4月から復帰するということでその手続きのために会社を訪れていた。その際、彼女は2歳になる子供と、生まれてようやく1年が経とうとする赤ちゃんを連れてきていた。同僚は「わぁー! かわいいー!」と赤ちゃんと子供の周りに集まっていた。

そんな中、私は輪の中に入っていけなかった。仕事が忙しくて手が離せなかったわけではなく、輪に入る勇気が無かったのである。
私は子供が、特に赤ちゃんが苦手なのである。こんなことを言うと人間性が疑われるかもしれないが、赤ちゃんを可愛いと思ったことがない。その理由は多分、過去にあった赤ちゃんによるトラウマのせいだと思っている。

私は昔、姉と共にスイミングスクールに通っていた。運動は好きだったし、習い始めて数年、私は人並みに泳げるようになっていた。
その日もいつものように練習を終え、更衣室にて着替えていた。
濡れた体をタオルで拭き、頭からTシャツを被る。そしてまだ濡れている髪の毛を乾かすためにごしごしとタオルで頭を拭いていた。

すると、足元に置いてあった鞄からチャリチャリ……と音がした。

鞄にはお気に入りの、牛乳瓶のふたくらいの大きさの丸いキーホルダーが3つほどついていた。そこには好きなアニメのキャラクターが描かれており、とてもお気に入りのものだった。道行く誰かが鞄に当たったのだろうと思い、鞄を横にずらそうと手を伸ばすと、足元にはどこかからか這ってやってきた赤ちゃんがいた。そしてなんと、その赤ちゃんが私のお気に入りのキーホルダーを口に含み、なめていたのである!

既にキーホルダーは唾液でべっとりと濡れていた。私はあわてて鞄を引っ張りながら、赤ちゃんに向かって叫んだ。
「やめて!」
私の大きな声にびっくりしたのか、それとも自分が見つけたキーホルダーというおもちゃを取り上げられたからなのかはわからないが、赤ちゃんが泣きだした。我々の大きな声に更衣室にいた全員がこちらを見ていた。周囲の視線を一点に集めているのは恥ずかしかったが、お気に入りのキーホルダーのためだ。今は構っていられない。
すると、赤ちゃんの母親が騒ぎに気付いて駆けつけてきた。
「あらもう、だめじゃない! ごめんねぇ、今、拭くからね」
そう言ってウエットティッシュでキーホルダーを一つ一つ丁寧に拭いてくれたのだが、そういう問題ではなかった。いくら拭いたって赤ちゃんが取った行動は私の心の中にべったりとのこって拭きとることなんてできなかった。その日、家に帰ってキーホルダーをすべて外し、そっと机の中にしまった。

赤ちゃんのしたことなのだから許してあげるべきだと思われるだろう。だけど、当時幼かった私にはそんな大きな器はなかった。そしてこの日以来、私は赤ちゃんに対して警戒心を抱くようになった。ショッピングモールへ行っても子供の遊戯エリアへ行くことを避けたし、図書館の絵本コーナーでも赤ちゃんがいるときは母親を盾にして本を選んだ。そのようにして大人になったため、赤ちゃんに対する耐性がついておらず、今でもどう接するのが正解なのかがわからない。

いつまでも避けて通れる道ではないことはわかっている。世間一般にはそれこそお局さんが言うように結婚の後は出産という流れが自然なのだろう。その現実を改めて突きつけられたその日から私は見えないプレッシャーにどう対処していくべきか、頭を悩ましていた。

そんな時、大学時代の部活動の友人とランチをする機会があった。
彼女は、名字が小林ということから一茶(いっさ)と呼ばれていた。この1月にめでたく結婚をした一茶は春から旦那様の仕事の都合で東京に引っ越してしまうことになっていた。引っ越してしまうとなかなか今までのように気軽に会うことができなくなるためその前にゆっくりランチでも……という運びとなったのである。

一茶は、あだ名の通り、静かな場所で落ち着いて俳句を考えているような、そんな大人びた雰囲気を持つ女性だった。そんな彼女は部活動内で駆け込み寺のような存在だった。部員は駆け込み寺に逃げ込み、仏様にすがりつくように一茶に相談を持ちかけていた。恋愛、友人関係、部活動の運営方法……。相談の守備範囲は多岐にわたっていた。落ち着いた雰囲気に加え、心理学を先行していた一茶には誰もが悩みを打ち明けやすかったのかもしれない。そして的確なアドバイスを受けた相談者達はいつも、一歩前に進むことができるようになっていた。

「最近どう? お仕事とか、プライベートとか、順調?」
この彼女の一言が私を自然と駆け込み寺へといざなってくれた。
丁度数日前に「子供はどうなの?」と聞かれたことを思い出す。赤ちゃんを可愛いと思えないなんて言ったら、一茶に驚かれるかもしれない。困らせてしまうかもしれない。だけど、一茶ならこの悩みを解決してくれるのかもしれない。かすかな希望にすがる様にして、私はこの悩みについて打ち明けた。

「実は私、子供が苦手で。もちろん、いつかは欲しいと思ってるんだけど、赤ちゃんを可愛いと思ったことが無くて、なんだろう、言い方が悪いけど“得体のしれないもの”だと思っちゃうんだよね」
世間のお母さんたちは本当にすごいと思う。何をどうすれば赤ちゃんを一人前の大人にまで成長させられるのか。
この私の悩みに対する一茶の答えは、肯定的なものだった。
「そのほうがいいと思うよ。子供に幻想を抱いて、こんなはずじゃなかったのに! って生んだ後に上手く育てられなかったり、鬱になったりする親もいるっていうし、その点、“得体のしれないもの”っていう認識があるほうが、子供との距離感がうまく取れるんじゃないかな」

ただ励ますのではなく、私の意見を踏まえた上での返答だと感じた。心の中で固まっていた何かがほぐれていくのがわかる。そのおかげで私の口から本音が無意識に姿を表した。

「あとは……自分の時間が無くなるって聞くでしょ。それが、今は怖い」
赤ちゃんを育てたことのある人の記事や、ブログ、話から共通して言えるのは圧倒的に時間がなくなるということだった。寝られない、自分の身なりを整える暇もない。そんな生活に耐えられる自身がなかった。私はまだ、趣味にだって時間を割きたいし、お洒落だってしたい。仕事だってもしかしたらこれからやりがいが出てくるのかもしれない。

この本音を声に出して伝えたことで頭の中で何かがカチッと噛み合ったことに気づいた。あの日、スイミングスクールで出会った赤ちゃんの事を思い出したのである。
私のキーホルダーをなめていた赤ちゃんは自分の手の届く範囲にあったおもちゃを私に取られそうになった。だから大声で泣いたのかもしれない。やっと見つけた自分のものを奪われて怖かったのかもしれない。今の私だってそうだ。やっと見つけた自由な自分の人生を、時間を奪われるのが怖いのだ。

私はあの時の赤ちゃんと同じだった。体は大人でも、心は赤ちゃんのままだった。
このことに気付いた時、なんだかものすごく恥ずかしいと思った。こんな悩みを一茶に打ち明けてしまったことに対し、なんだか申し訳ない気持ちを抱いた。

それでも、一茶は私にこう言ってくれた。
「そっか。まぁ、旦那さんと相談にはなると思うけど、“生んでも大丈夫だな”っていう心の準備が整った時、上手く子供ができればいいね。自分の心に余裕がないと、たとえ自分の子だったとしてもいつか上手くいかなくなる日がくるんじゃないかな。他人に何を言われようとも気にする必要なんてないよ。人は人、自分は自分。それよりも、今を存分に生きて、楽しんでいたら、子供に対する考え方も変わるかもしれないし。ほら、昔は食べられなかったピーマンが、気付いたら食べられるようになってたりするじゃない? あれと一緒だよ」

いつか、私も赤ちゃんと向き合える日が来るのだろうか。今の時点ではわからないし、自信なんてない。だけど、この日、今まで人に言いづらかった悩みを一茶に話してみて心の中がほぐれて整理された。急がなくていいんだよ、自分のペースでいいんだよ、と言ってもらえた気がした。私は今を生きていていいんだと思えたことで心につかえていたものがぽろりと取れた。一茶の口から紡ぎ出される言葉はこのように人に希望を与えてくれるし、進むべき方向を示してくれるのである。

「今日は本当にありがとう。なんかちょっとすっきりした」
「ホント? お役に立てて良かったよ。何かあったらいつでも連絡してきてね」
改札の前でそう言った一茶は、仏様の様な穏やかな笑みを浮かべていた。離れてしまうのは寂しいけれど、この先ずっと会えないわけではない。この先、どうしても解決できないような、人に言えないような悩みにさいなまれたときは、駆け込み寺のような大きな器を持った仏様に会いに行こうと思う。

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