効率よりも大切なこと
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記事:遠藤貴子(ライティング・ゼミ 平日コース)
「順番だよ」
低い声がした方を見ると、バスの運転手さんがたしなめるような目でわたしを見ていた。運転手さんはわたしの腕を軽く掴んでいて、このまま行かせないよという強い意図を感じる。彼はわたしに、ちゃんと順番を守りなさい、と注意していたのだ。
わたしはこのとき、20歳。バスには順番に乗ることぐらい、ちゃんとわかっている年齢だった。しかしわたしがバスに乗ろうとしていたのは生まれて初めて訪れたイギリスのロンドン。運転手さんには、小柄な日本人のわたしが中学生ぐらいに見えたのだろう。
イギリスにいたのは、大学の英語の授業について行けなくなって慌てて夏休みに語学学校に通っていたからだった。最初は不安でいっぱいだったが、学校のある地方の小さな町は海に面していて、夏の景色が美しかった。町の人たちも礼儀正しく親切だったので、わたしはこの国での生活がすぐに気に入った。特に何にでも律儀に列を作って待つ習慣は日本人に通じるものがあり、親しみを覚えていたのだ。そのイギリス人がわたしに順番を守れと言うなんて。
その日はロンドン郊外のハンプトンコートという中世のお城に観光に行っていた。あいにくの大雨だったが、初めて見るヨーロッパの古城の広さや、おとぎ話の挿絵のような甲冑や美しい出窓に圧倒された。
大興奮でお城を出た後、市内に戻るバスを待った。バス停には他にもたくさんの人が立っていた。雨はまだ音を立てて降っていて、しばらく止みそうもない。バスが来ると、みんなホッとしたように乗り込み始めたので、わたしもイギリス人と思われるおばあさんの後に続いた。
ロンドンのバスは今では現金を受け付けず、料金は前払いのカードなどを使ってキャッシュレスで支払うことになっている。が、当時はまだ乗りこむときに現金で支払うしくみだった。わたしの前にいたおばあさんは、バスのステップをゆっくり上がって運転席の横に立つと、バッグに手をかけ、ゆったりとお財布を探し始めた。後ろに人が並んでいるのはまったく気になっていないようだった。
わたしはその日、バスや地下鉄に乗り放題の観光用1日券を持っていた。わたしの後には乗りこむ人がたくさん続いている。自分が先に車内に入った方が効率よく乗車できるだろう、とわたしはごく自然に考えた。そこで自分の1日券を運転手さんによく見えるように高く掲げて、おばあさんの横を通り抜けようとした。そのときだった、運転手さんが順番だよと言ったのは。
子どものような注意を受けたのはものすごく久しぶりだったし、イギリスの生活に慣れてきたという気持ちもあったせいか、すぐには意味がわからなかった。
やがて注意を受けていると気づくと、今度は、乗客を効率よくバスに乗せることより順番を守ることの方が大切、という考えに衝撃を受けた。確かにイギリスでは何にでも行列を作って辛抱強く待つけれども、たった一人のおばあさんのために、大勢の人が大雨の中でじっと待たなければならないというのか。時間が無駄になってもきちんと正しいことをしなさい、ということなのか。お年寄りには優しくしなければいけないよ、という意味もあるのだろうか。
なんて正しくて人間らしいんだろう。それまで効率が最優先のように言われて育ってきたわたしは、人間にはもっと大切なものがあるじゃないかとガツンと頭を殴られた気がした。
そしてわたしは恋に落ちた。イギリスへの恋だ。効率が悪くても正しいことを行うべきという不思議に不器用な感覚が、わたしの心を電流のように走り抜けた。
帰国後、わたしはマニアックなイギリス好きになって何度も訪れたが、同時に他のヨーロッパの国に旅する機会もあった。するとイギリス以外の国では、列を作って順番を待つことがあまりないことがわかった。なんとなく立っている人たちの中から、それぞれ自己主張をして前に進んでいくのだ。すると人に譲ることに慣れている日本人のわたしにはいつまでも自分の番が来ないことが多く、不公平な気分になって、ものすごくストレスがたまる。その度に運転手さんに腕を掴まれたあの日のことを思い出し、他と比べてもやっぱりここが好き、とイギリスへの恋はますます深まっていったのだった。
そして数年後、わたしはイギリスに住むことになった。偶然のことだったが、恋が実ってイギリスと結婚したような気分になった。もちろん実際に暮らしてみると、やはり感覚の違いから不便なことや愉快でないこともいろいろ出てくる。外国人の多いロンドンでは、バスに乗る順番さえ、実は今ではかなりいい加減になっている。それでもあの日の衝撃がいつもわたしの中にあって、イギリスが教えてくれた大切なことや、恋に落ちた瞬間を思い出させてくれる。だからどんなことがあっても、この国を本気で嫌いになることがいまだにできない。わたしとイギリスの関係は、愚痴を言いながらも続く結婚生活のような時代に突入したのかもしれない。
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