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インクと汗にまみれた苦学生がプリンセスになったとき


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記事:たけしま まりは(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
それは10年前のこと。
とある夏の日の午前4時頃。深夜なのか明け方なのか、微妙な時間帯。
わたしはひとり世田谷を走り回っていた。
別に酔っぱらっている訳じゃない。変な趣味があるわけでもない。
わたしは自転車のカゴいっぱいに新聞を積み、家のポストに新聞を次から次へと押し込んでいた。
 
田中さん、佐々木さん、中村さん、有田さん。
鈴木さん、勝田さん、吉田さん、内野さん。
 
世田谷は高級住宅街だ。一軒家がひしめきあっていて、家それぞれがタテに伸びている。どこもだいたい1階部分は駐車場になっていて、2階から住居となり、3階・4階と建てられているのだ。
東京の地価の高さが建物をタテに伸ばした大きな要因だろうが、車庫と自宅が分かれているのが当たり前な北海道出身のわたしにとってはひしめきあう住宅街はかなりのカルチャーショックだった。
 
東京の大学に進学するために、わたしは新聞配達をしなければならなかった。
なぜなら家にお金がなかったからだ。
一度も足を踏み入れたことのなかった憧れの地・東京は、生活費がおそろしくかかり、大学の学費もおそろしくかかる魔窟だった。
わたしは新聞販売店に住み込み、毎朝深夜2時に起きて新聞を配り、学校へ通っていた。たまに寝過ごして学校をサボることもあったが、せっかく東京に来て、しかも自分の稼ぎで学校に行っているのだから授業に行かないともったいない! という気持ちになり、まじめに学校に通っていた。
 
新聞配達をしていると、いわゆる「キャンパスライフ」を送れるのはそれなりに裕福な家庭に育った「選ばれし者」たちなのだということを痛感する。
同級生たちはみんなまじめで優しいけれど、どこかのんびりとしていて、気楽そうだ。
なかにはバイトに明け暮れている苦学生もいるが、たいていの同級生はわたしほどギスギスした生活は送っていないようだった。
 
いまごろ彼らは、ぐっすり寝ているんだろうなぁ。
新聞配達は孤独な仕事だ。とりとめのないことを考えながら新聞を配っていると、ふいに彼らへのうらやましさが湧きあがってきた。
うらやましいなぁ。昨日は遅くまで課題やってたからあんまり寝れてないんだよなぁ。
あ~。しんどい。
うらやましい気持ちから、つい愚痴が出る。
坂道、キツッ……。
汗で身体がべたつく。東京ってなんでこんなに坂道と湿気が多いんだろう。
 
雨の日は特にみじめな気持ちになる。
どしゃぶりや台風の時は「やってやるわー!」と逆にテンションが上がるのだが、しとしと、じめじめ、みたいな梅雨時期は最悪だ。
大汗をかいて身体中がべたつくし、そんなに降っていないと思って油断したら新聞を濡らしてしまったり、タイルの上で滑って転んだりする。このときは床がタイル張りの高級住宅を恨んだ。いや、でも彼らも転ぶ危険性があるから、かわいそうにとも思った。
 
今日は幸いにも晴れの日だけれど、梅雨があけて間もないからか湿気が多い。
汗だくになりながら自転車をこぎ続ける。
あー。
だるーい。ねむーい。
しんどいー。足があがらないー。
すごいねー。偉いねー。とかもういいからだれか代わってくれー。
配達なんてくそだー。
くそー。
くそー。
くそー!
頭の中が愚痴でいっぱいになる。
爆発しそうになったとき、あたりの景色が急に変わった。
 
青。
青い。
あたり一面が、青色に染まっている。
 
突然のことに、わたしは一瞬、頭がどうにかなってしまったのかと思った。
きれいな青だ。
地元の観光名所「青い池」みたいな透き通った青が、あたり一面に広がっていた。
 
どこからか青い光線が飛んでいるわけではない。
青の原因は、空だった。
夏の晴れた日に、日の出が近づくと、あたり一面が真っ青に染まる時が一瞬だけある。
地学的なことはよくわからないが、とにかくわたしは、“青の世界”に突然入り込んだのだ。
 
“青の世界”は、とてもきれいだった。
映画のワンシーンみたいに、時間が止まったような気がした。
鳥肌が止まらなかった。
まわりを見る。もちろん、誰もいない。
こんなきれいな景色をひとりじめしていることに、さらにぶるると震えた。
 
“青の世界”は、わたしの心を強く揺さぶり、いままで溜まっていた黒い感情を浄化させた。
身体はべたついて、手はインクで汚れていて、疲れは溜まって身体中がしんどいのに、青の景色に癒され、身体の底から力が湧いてくるのを感じていた。
 
インクと汗にまみれた苦学生は、このときだけは贅沢な空間に浸る貴族になった。
ひとりじめというのがまた良かった。
“青の世界”は「選ばれし者」しか入れない。
「選ばれし者」は、現実世界を必死に生きている、心の清らかな人間だ。
わたしは、それに選ばれたのだ。
日々がむしゃらに生きているから、神さまがご褒美を与えてくれたのだ。
わたしは、“青の世界”のプリンセスなのだ!!
 
“青の世界”に浸っている間は、どんなクサいことでも言えそうだった。
 
しかし残念ながら、“青の世界”は20分足らずでなくなってしまった。
次第に朝日がはっきり顔を出し、始発電車に乗ろうと早々と家を出る人がちらほら出てくる。わたしは急いで残りの新聞を配り、自分の現実世界へ戻った。
黒い感情は、いつのまにかどこかへ飛んでいった。
 
あれから10年。社会人になり国内外いろんなところを旅するようになったが、いまだに“青の世界”に勝る景色を目にしていない。
むしろ“青の世界”が自分の中で別格のものになり、あれ以上のものはもう見られないのではないかとすら思っている。
 
しかし、プリンセスって。ロマンチックで、若いなぁ。10代の小娘らしい発想だ。
そう過去の自分にツッコミながらも、あのときのわたしはたしかに「選ばれし者」だったよ、と自分を褒めてあげたくなった。

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2018-05-03 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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