世界はまつげの先にある《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:こしばのりこ(プロフェッショナル・ゼミ)
「今日は赤いの見かけたよ! あんな色もあるんだね」
「そういえばネイビーみたいなのも見かけたことあるな」
「この間、スーパーの駐車場で三台並んじゃって、写真撮ろうかと思った」
「えー! 珍しい!」
家族で話しているのは、少し前に中古で買った、母親の車のことだ。
田舎に住んでいるため、車は生活に欠かせない。家族一人に一台の家も多いが、うちは父親用と母親用の二台。母親用の車を私も運転している。
「やっぱりハイブリッドにする?」
「今ならそうだよねえ」
それまで乗っていた車の走行距離が、10万キロを越えてしまったので、そろそろ買い換えようとすると、時代の流れ的に、うちもハイブリッド車にするか、ということになった。
ハイブリッド車といえば、トヨタの「プリウス」だ。も少しカジュアルに「アクア」という手もある。
しかし、うちが選んだのはホンダのハイブリッド車「インサイト」である。
ホンダには悪いが、ブランド力もネームバリューもある「プリウス」とは比べ物にならないほどのマイナー車だ。
それでも選んだのは、うちがホンダ派だからだ。けれどここで、こしば家のホンダ愛について語るつもりはない。それでも「インサイト」は、これまで普通に生活していて、見かけることがなかった車だった。
それなのに、どうだろう。
「インサイト」に乗り換えてからというもの、見かける見かける。もちろん「プリウス」の数に比べたらうんと少ないけれど、一日に一台は必ず見かけるようになった。家族の間でも、色違いだとか、毎日この時間にすれ違う決まった車があるだとか、何かと話題にのぼるようになった。
今まで知らなかった。こんなに「インサイト」に乗っている人がいるなんて。こんなマイナーなハイブリッド車を選ぶ人がいるなんて。
そして同時に、乗り換える前の車だったホンダの大衆車、「フィット」を見かける機会が、ぐっと減ってしまったのだ。それまで「フィット」が条例か何かで指定されているのではないかと思うくらい、近所で何台も見かけていたというのに。
これはどういうことだろう。
こしば家が買い換えるのと同時に、「フィット」の販売台数が減り、代わりに「インサイト」の販売が増えたのだろうか。同時期にたくさんの人が「フィット」から別の車に乗り換えていたのだろうか。
いやいや、そんなことはないだろう。
うちが中古で買ったように、「インサイト」は現在、新車での販売はないはずだ。さらに「フィット」は、ハイブリッド車も展開していて、販売台数が増えることはあっても、減ることはあるだろうか。
ならばこちらの問題だ。
毎日乗ることで、私の「目」が、「インサイト」を捉えるようになったのではないだろうか。私が意識して「インサイト」を探すようになったのではないだろうか。
「大学のときの〝ヤマちゃん〟って友達だっけ?」
「えー? Bクラスだった子?」
「そうそう、映像コースに行った子」
「話したことないけど知ってる」
「私今でも仲いいんだけど、ヤマちゃんもね、うつになってしばらく実家にいたんだよ」
「えっ! そうなんだ」
「今はもう良くなってね、結婚して横浜に住んでる」
嫌われるかなあ、変な人だって思われるかなあ……。ひかれたらどうしよう、距離を置かれたら悲しい……。ぐずぐず考えながら、ものすごい勇気を振り絞って打ち明けた友達のマイコは、思わぬ話をしてくれた。
私は三年前、うつ病になった。うつ病は、私の人生を「うつ前」と「うつ後」にわけるほどのインパクトをもたらした。
一番の衝撃は「自分がうつ病になった」という事実だった。
怖かった。
自分が社会から落ちこぼれた気持ちになって、恥ずかしくて、誰にも知られたくなくて、これからの人生どうしたらいいのか、どう隠していけばいいのか、わからなかった。しかし、マイコから聞かされたのは、結構近しい友人もうつ病になってた、という事実だった。
「あー、うちの部署にも一人いるなあ」
「そんなに身近に?」
マイコに打ち明けたのをはずみにして、私は近所に住むミホにも打ち明けてみた。
「その人は、外回りの仕事がきつくなって、うつになったみたい」
「そうなんだ……」
「三ヶ月くらい休んでたかな。今は内勤にしてもらって、普通に働いてるよ」
やっぱりだった。
「実はね……私、二年前、うつっぽかったんだ」
「え! 全然知らなかった!」
「うん、言ってなかったからね」
さらには、身近にいるよ情報だけでなく、自分がそうだった話まで聞くことになった。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
私と同じ時期に、社会的にも、うつ病が流行りだしたのだろうか。
きっと違う。
私がうつ病になって、私がうつ病を見つめたからだ。
うつ病は私に、いろんなことを気づかせてくれた。
自分の限界や弱さ、逆に強さ。それから考え方の癖、曲がったところとまっすぐなところ……。いろんな気づきがあったけれど、一番の気づきはこれだった。
「うつ病の人って、結構、いるんだ」
私は身近にうつ病の人がいなかった。今になって打ち明けてくれた友人のように、単に、知らなかっただけかもしれないが。
そして、誰もがそう思うように、私には無関係な病気だと思っていた。けれど、自分自身がなることで、私はいやでも、うつと向き合うことになった。
起き上がれない布団の中で探していたのは、うつ病の経験者だった。経験者のその人の原因や症状、治療方法、回復までの過程、やったほうがいいこと、やらないほうがいいこと、振り返ってどう思うか、再発はどうか……。たくさんの声を集めていた。さらに勇気を出してみたら、ネット上だけではなく、自分の身近なところにも、たくさんの経験者が見つかった。
うつ病には、共通するものはあるものの、見た目にもわかりにくく、数値で測れないため、症状は人それぞれともいえる。だからいくら経験者の声を集めたところで、私に効くとは限らない。それでもかかった人が「結構、いる」という事実が、私にはとても心強く、大きな力になった。
決して楽しいものではなかったし、体も張った。自ら望んで選んだ世界ではなかったけれど、私は身をもって、ここ数年、「うつ」という世界を広げてきたのだ。
それもこれも、私がうつを見つめ続けたからにほかならない。
うつ病となんとか折り合いがついた私は、今ではフルタイムの仕事をするまでに回復した。今日も職場へと車を走らせていると、対向車線の「インサイト」とすれ違う。
世界は私が目を向けた方向へと広がっていく。
それならこれから、何を見つめよう。
見つけられるのを待っている「インサイト」が、まだまだたくさん、あるはずだから。
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