「最初の一口の至福」みたいに、「自分史上最高の経験」も更新したい《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:松尾英理子(プロフェッショナル・ゼミ)
梅雨明けだ。ビール、シャンパン、ハイボール。泡モノが美味しい季節がやってきた。
カラカラに乾いたのどを、黄金色に輝く液体がするすると流れていく。そして、最初の一口がのどを通過して思う。「ああ、至福。生きててよかった……」
これといって何にもなかった日でも、泡モノがあれば、ささやかだけど幸せな気持ちになれる。だから私は、泡モノがとりわけ美味しく感じる夏が大好きだ。夏を3ヶ月とすると、休肝日2日を除いて週に5日、月に20回。年に60回、それを20年以上。人生で1200回近く、夏の日の「最初の一口の至福」を愉しんでいることになる。毎夏この経験を重ね、更新することで、その至福度は確実に上がっている気がしている。
特に今年、私が住んでいる関東地方では異例の6月の梅雨明け。今年は例年以上に、「最初の一口の至福」をたくさん味わうことができそうで、早くも得した気分だ。それにしても、泡モノの最初の一口は、どうしてこんなに美味しいのだろう。こうやって書いているだけで、喉が鳴り、笑顔になってしまう。私が酒飲みだからそう思うのではなく、人が泡モノを美味しく感じるには、ちゃんとワケがある。
のどが渇いていると、「ああ、水分欲しい……」と、のどにある神経や筋肉が敏感な状態になるらしい。そんな、スタンバイOKな状態で液体が流れ込んでくると、待ってました! とばかりにのどが反応し、渇きが癒される。そして、水よりも炭酸水、ビールやシャンパンなど、炭酸を含むアルコールには、さらに敏感に反応し、のどごしの快感を与えてくれる。
のどごしの快感に加え、見た目や香りも、最初の一口の至福度を上げてくれる。まずは、キラキラときらめく泡が立ち上るグラスを眺めて気分を上げていく。次は香り。グラスを手にとって、口に入れる直前に感じる香りは、至福への入口だ。
ビールの原料であるホップの香りは、ラベンダーにも似たリラックス効果があるし、シャンパンには、バターをたくさん使って焼き上げたブリオッシュのような、焼き立てパンの香りを感じる。パン屋さんの前を通ると、なんだか幸せな気分になる、あの感覚。最近、炭酸水にレモンやグレープフルーツ、ジンジャーなど香りがついているものが増えているけど、あれも同じくリフレッシュやリラックス効果がある。
でも、泡モノは最初の一口が美味しい分、2口目以降の感動が続かないのも事実だ。実際、のどの神経と筋肉は、一度刺激を受けると満足してしまい、感度が弱まってしまう。だから、メカニズム的には、最初の一口が一番美味しいと思うのは当然のことらしい。そんな現実を突きつけられ、昔はビールの2口目以降を飲むのが苦痛に感じたことも多かった。
30代前半頃だったと思う。ある本に出会い、「最初の一口の至福」はその後の時間のためにある、と思えるようになった。
その本は、フランス人フィリップ・ドレルムの『ビールの最初の一口 とその他のささやかな楽しみ』
発売された1997年当時、フランスで大ベストセラーになった、身の回りにある日々のささやかな楽しみを綴ったエッセイ集で、タイトルにもなっている作品「ビールの最初の一口」の冒頭と最後だけ紹介すると、こんな感じだ。
「とにかく最初の一口だ。一口だって? 口の前からもう始まっているじゃないか。まずは唇の上をあの金色の泡と、その泡で増幅された爽快感が通り過ぎ、やがて苦味でろ過された幸福がゆっくりと口の中に広がる。 (中略) と同時に、すでにわかっているのだ。一番おいしいところはもう終わった。それは苦い至福、最初の一口を忘れるために飲むもの」
私なりの解釈だと、フィリップさんは、こんなことを言いたかったのだと思う。
「最初の一口があまりに美味しくて、それ以降に幻滅してしまう。その気持ちはとてもよくわかるよ。でも、幻滅するなんてもったいない。だってそれは、最初の一口が良過ぎただけ。だから、あとは最初の一口の素晴らしさを忘れるために飲み続けよう。そうすれば、グラスが空になる頃には最初の一口の至福の余韻だけが心地よく残るはずだ」
いい経験を生かすも殺すも、気の持ちよう。これは、恋愛も仕事も同じだ。
例えば、「過去に好きになった人が忘れられない」と思うこと。これはつまり、「今はもうそんなに人を好きになれない」という気持ちが裏にある。「若い頃に無我夢中で取り組んだ仕事の手ごたえが忘れられない」と思うこと。これはつまり、「それに比べて今の仕事はやりがいがない」という気持ちが裏にある。過去のいい思い出や経験を引きずり、今を悲観してしまうことって結構多い。
ビールやシャンパンは必ずと言っていいほど、最初の一口が最高! と感じるけど、人生で起こることは「最初の経験」ばかりがいいわけじゃない。だから、人生でこんな風に思えてしまう経験を、天狼院風に「自分史上最高の経験」と置き換えてみる。
「自分史上最高の経験」を振り返り、今はそうじゃないことを悲観するより、ほどよく忘れながら前を見て進み続けるほうが、結局はそれ以上の経験ができることにつながるんじゃないか。そう思い、前だけを見て進んできたつもりだった。
でもここ数年、なんだか前が見えにくくなってきた自分がいた。4回目の年女もあっという間に過ぎ去り、老眼が進んできて、気持ちだけじゃなく実際の視界もすぐ前方がかすみ始めた。だから昨年、夏が終わりかける頃「人生を変える」という言葉に背中を押され、ライティング・ゼミの門戸を叩いたのだ。
人生100年時代を生きることができたら、折り返し地点まであと1年ちょっと。年齢のせいにして「昔よりできない」と嘆くのではなく、まだまだ「自分史上最高の経験」を更新したい。仕事人として、書き手として。そして、母として、女として。この4つでの「自分史上最高の経験」の更新が、これからの人生の「夢」につながっていく気がしている。
私の場合、ほとんどの経験のベースにあるのが、食べることと飲むこと。自分でも、どうしてこんなに執着してしまうのかと思うけど、その欲望は止められない。それなのに、今まで何を食べて飲んできたのか、その時どう感じたのか。記憶が大事だと思いこんで、記録は全くと言っていいほど取ってこなかった。
私の味覚はこの20年で大きく変わった。たとえば、いつの間に苦みのある物を美味しいと感じるようになったんだろう。初めてビールを飲んだ時、初めて秋刀魚の肝を食べた時、きっと「苦くてまずい」と感じたはずなのに。そんな記憶はもうどこにも、頭の片隅にすら残っていない。本当は何か、きっかけがあったかもしれないのに。
だから記録、つまりレコーディングが必要なんだ。
やっと、三浦店主の言っていることがわかった。
自分の「狂」を強みにして、価値あるものにしていくために、経験をレコーディングしていこう。
私はこれまで、記録することがそんなに得意じゃなくて、どちらかというと、苦手だった。それは、記録=備忘録だと思っていたから。でも、レコーディングは、備忘録ではなく、今を「更新」していくためのものだったんだ。
この前、三浦さんがゼミの中で、こんなことを言っていた。「味覚って老化するんですよね。舌で味覚を感じる部分、確か味蕾、だったかな。その味蕾はどんどん消滅していくらしいですよ。老人になるとほとんどなくなっちゃうって。だから、年取ってからの味覚の感じ方は、それまでの学習経験を引っ張り出して来るほうが大きいらしいですよ」
ちょっとちょっと、そりゃ困る。私の生きがいは、食べること飲むことなんだから。味覚は鍛えられると信じていた。現に、それを体感してきた。だから、そのもとになる味蕾がどんどんなくなっていくなんて、間違いであってくれ。そう願いながら検索してみたら、三浦さんの言っていたことは真実だった。
味蕾に寿命はあった。ただ、味蕾は新陳代謝がとても活発で、7-10日間で新しい細胞と入れ替わる。だから、数が少なくなっても、日々味覚を鍛えて味蕾をエリート集団にしておけば、ある程度は維持していけるらしい。でも、味覚はこれ以上進化することはない。それだけは真実のようだ。
これはまずい。せっかくの学習経験を忘れてしまったら大変だ。だから私は、その経験をつなぎ、いつでも引っ張り出せるよう、レコーディングしていくことを心に決めた。だらだらとでもいいから、毎日、食べること飲むことの経験を通じたレコーディングを重ねていきたいと思う。仕事人として、書き手として。母として、女として。それはきっと、この4つの「自分史上最高の経験」の更新につながっていくはずだから。
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