プロフェッショナル・ゼミ

お盆と聞いて何をイメージしますか?《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:高林忠正(プロフェッショナル・ゼミ)
 
 東京のお盆は7月である。
もちろん、地方出身の方がそのご両親の影響で8月にお盆の飾りをする場合がある。また、東京都足立区の東武日光線の五反野駅から埼玉県寄りのエリアでは8月にお盆が行われている。
ただ、東京都内では、お盆は新暦の7月に行われることが一般化しているようだ。
 
 還暦を過ぎた私にとってお盆に対する感情は年齢とともに著しく変化してきた。
 
 幼少のときのお盆は私にとって興味津々のものがあった。
4〜5歳頃の私にとって、7月ともなると仏壇の装いが一変することがとても興味深く感じた。
叔父叔母や、親戚の人たちがお菓子を持って家に来ては仏壇に線香を上げるのだ。
夕方になると、祖父母の脇にちょこんと座って、一緒になって木魚の小型版のようなカネをたたくのである。
祖母が面白がってはやし立てることで、2歳違いの妹とともに、まるでマリンバのような打楽器を叩くようにエネルギーを発散していた。
 
 すべて祖父母が取り仕切っていた。
お盆のセレモニーのなかでも一番は読経だった。
不思議なリズムだった。
毎日、祖父が神棚で挙げているのりとや、仏壇で挙げているお経とは全く異なったものだった。
目立ちたがりやの妹と私は、昼と言わず夜と言わず、鼻歌を歌うような感覚でそのお経のリズムを口ずさんでいた。
 
 サラリーマンだった父が加わるときもあれば、いないときのほうが多かった。
祖父母が唱える読経のなか、母は黙って合掌しているだけだった。
何か得体の知らない世界に入る3日間(7月13日〜15日まで)だった。
同じく人が集まるお正月とはまったく別の空気感があった。
「お盆って、何なの?」と祖母に質問しても、父に質問しても、その回答は子どもには理解できなかった。
そもそも死んだ人が戻ってくるなんて信じられなかった。
ミステリアスさ満点だけど、カネを叩けるという興味だけがあった。
 
 昭和30年代も半ばになろうとしていた。
決して生活は楽ではなかったものの、街全体に笑顔があった。
まさに『三丁目の夕日』の世界だった。
 
 小学校に入ると、7月にはさまざまな行事が待っていた。
盆踊り、林間学校の準備など、課外活動が目白押しだった。
同居していた祖父母は、それでも私と妹の帰宅を待って、門の前でお盆の迎え火を行なった。
祖父は80歳、祖母は75歳を越えていた。
お盆は我が家にとって、正月と並んで大事な習慣だったが、生活に染み付いているせいか、ただ淡々と行なっていた。
 
 小学校高学年になったとき、祖母が大腿骨を骨折した。
お盆の際の席次が変わったのもそれがきっかけだった。
祖父の隣には父が座るようになった。
それとともに、祖父の読経のリズムが若干スローになってきたように感じた。
木魚のテンポもかつては8ビートくらいだったのが、いつの間にか4ビートより少し早いくらいに変わってきた。
お盆の変化を通じて、「人は必ず老いるもの」であることを無意識に感じ始めていた。
 
 中学に進学すると、部活で帰宅は遅くなりがちとなった。
それでも祖父母は私を待っていた。
思春期特有の抵抗からだったのだろうか。家の前で迎え火をしていると、道行く人の目が気になった。
こんな風習をいまだにしている自分たちって、何か奇異な目で見られているのじゃないかと勝手に思い始めていた。
エアコンもなく、アルミサッシなどがない時代だった。家は網戸のため蚊は入ってこないが、私たちの読経は丸聞こえとなってしまう。
カネは音を立てないように叩き、読経はただ口を動かしているだけだった。
お盆の行事をしている我が家がなにが恥ずかしくてたまらなかった。
次第に鬱陶しい感じになってきた。
お盆の3日間が終わると、ホッとする自分がいた。
 
 高校に入学した私は新たに陸上競技部に入部した。
中学時代に比べ、帰宅はさらに遅くなった。
お盆の間、家に帰ると読経はすでに終わっていて、祖父母は就寝していた。
線香を上げることもなく、自分としては無関心となりつつあった。
そんな私を祖父母も両親も仕方がないと思っていた。
 
 大学時代、体育会の陸上競技部に所属した私にとって、もはや家の行事は面倒なことの一つとなっていた。
もはや、お盆は完全に意識の外のものとなっていた。
 練習休みで、たまたま早めに帰宅したら、その日が7月13日だった。
そのため、お盆の迎え火に立ち会わなくてならなかった。仏壇の前に座ることすら嫌悪感が満載となった。
 
 幼い頃、あんなに楽しんでカネを打っていたのに、変われば変わるものだった。
読経の発声をすることすら恥ずかしく、以前にも増してさらにお経のテンポが遅くなった祖父に対して「早く終われよ」とばかり思っていた。
 
 大学1年の夏に祖母が亡くなり、大学3年の冬に祖父が亡くなった。
お盆の習慣は両親に受け継がれることになった。
同時に私の家の風習に対するネガティブな感情はますます増幅されていった。
 
 心のなかに偏見があるとき、ちょっとした変化に対しても敏感になるものである。
その一つが父の声に対してだった。
富士講の講元でもあった祖父のトーンはよく通るだけでなく、韻律ともいうような独特なリズム感があった。
残念なことに父のそれは練習不足のカラオケのそのものだった。
父の読経が始まると、父の後ろでカネをたたいていながら、正座をしていた足のしびればかりが気になった。
毎年のお盆はイライラの対象となっていた。
 
 大学を卒業した私は百貨店に入社した。
百貨店にとって7月とは、1年のなかで12月とならぶ書き入れ時である。
実家から通っていた私にとって、お盆に合わせて早く帰宅することなどできるはずはなかった。
両親ともそれは百も承知のことだった。何も言わなかった。
妹も社会人になっていたこともあり、お盆は、相変わらず両親2人だけの迎え火、読経、そして送り火となった。
 父は還暦になったとき、お盆の風習について後世に伝えたい、伝えなければならないという強い使命感を持ち始めていた。
いままで口から口へという伝承の世界でしかなかったものを、わかりやすく伝えるには?という視点から書面に残した。
合掌だけだった母も、いつの間にかお経を諳んじるようになっていた。
 
 お盆の定番だったお経は、天台宗の十三仏和讃(じゅうさんぶつわさん)と呼ばれるものだった。
 
内容は極めてシンプルなものだ。
13の仏様の名前を一定のリズムに沿って、唱えていくのである。
 
ふどう(不動明王)
しゃか(釈迦)
もんじゅ(文殊菩薩)
ふげん(普賢菩薩)
じぞう(地蔵)
みろく(弥勒菩薩)
やくし(薬師如来)
かんのん(観音)
せいし(勢至菩薩)
あみだ(阿弥陀如来)
あっしゅく(阿閦如来)
だいにち(大日如来)
こくぞう(虚空蔵菩薩)
なむじゅうさんぶつなむあみだ(南無十三仏南無阿弥陀)
 
「ふーどーしゃか、もんじゅふーげん、じーぞうみいろく、やーくしかんのん、せいしーあーみだ、あっしゅくだいにち、こーくーぞうーぅ、なむじゅうさんぶつなむあみだ」
 
 これを13回繰り返すというものだった。
父がお経の文言とともに、それぞれの仏様をイラスト化してくれたことで、このお経の内容が肚落ちする状態となった。
同時に、大正15年生まれの父の幼少時代の記憶が書かれていた。
現在の東京都品川区大崎の近辺では各家ごとにお盆だけでなく、仏事(通夜、葬式)などに盛んに唱和されていたという。
 
これだったら、老若男女問わず楽な気持ちで唱えられるものだ。
 
記録によると、江戸時代の初期、度重なる目黒川の氾濫を逃れるために、神社、お寺を含めて集落ごといまの高台に上がってきたきたとのことだった。
先人たちにとって、お盆は心の拠り所の一つとなっていたことが推察されている。
 
明治維新となって、いつから旧暦から新暦の7月となったかについては不明である。
 
関東大震災で被災は免れたものの、昭和20年5月25日の京浜地区の大空襲でこの地域一帯は丸焼けとなった。
 
祖父母は丸焼けとなったなかでも、お盆の迎え火とこの十三仏、そして送り火を行なっていたそうである。
 
 29歳で結婚した私にとって、両親とは別に住んでいたこともあり、お盆に顔を出すことはなかった。
「お盆どろこじゃない」といつも思っていた。
そのかわり、家内と子ども2人はいつも実家を訪れて、両親と一緒にお経を唱えていた。私抜きのお盆が数年以上続いた。
 
 人生とはわからないものである。
37歳のとき、ほぼ同時期に両親がガンを発症した。
7月になって家内に促された私は、両親がいつも行なっていたお墓の花生けを行なった。
あれほど嫌で嫌でたまらなくなっていたお盆の迎え火も、家内と一緒に行なった。
いつもは両親が行う仏壇の準備は、昼間、家内が1人で行なった。私と家内、2人だけのお盆だった。
父が記録した十三仏和讃の存在を知ったのもそのときだった。
お経の文言の意味について、肚落ちすることになった。
子どものときから、祖父母とともに唱えていた日々が蘇ってくることになった。
お盆を遠ざけていたときもあったが、あえて否定する気にはならなかった。
なぜか、あれはあれでよかったのだと思えるようになった。
 
 2人の息子たちは社会人となって、お盆が週末に当たらない限り、家内と2人だけで迎え火から送り火まで行なっている。
定番の十三仏和讃は、父が残した書面を見ながら唱えている。
 
 現在私たちが住んでいる家屋は、東京都の道路計画が事業認可されたこともあって、近い将来収用を余儀なくされている。門、住居、池面が完全に消滅する運命にある。
それに伴って、家も移転することから生活や習慣も変化せざるを得ない。
このお盆の迎え火、送り火という風習も自ら所有する地面があるからこそできることである。
これらとて、環境とともに変容せざるを得ない状況にある。
 
 ただ、父の残してくれた十三仏和讃のお経の書面は、息子たちに手渡していく予定だ。
彼らがこの風習を続けるかどうかはわからない。
ただ、神仏を畏れる気持ちだけは持ち続けてもらいたいと思っている。
お盆の風習については、時代と環境に合わせながら、家内も私も体が動く限り続けていくつもりだ。
 
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