日常はネタの宝庫だ、と言うけれど。《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:櫻井由美子(プロフェッショナル・ゼミ)
1年ぶりに健康診断を受けることになった。
忘れっぽい自分を自覚しているわたしは、前の日の夜、トイレに採尿のための紙コップと容器を置いておくことにした。
当日、ぶじ採尿し、朝起きてから水以外の飲み物食べ物は口にしてはいけないと注意書きに書いてあったので、コップ一杯分の水だけ飲んで病院へ向かった。2歳の娘は一時保育を利用して預かってもらうことにして、保育園への送りも夫にまかせた。
8時から8時半までの間に受付を済ませるようにとのことだった。8時15分ころ病院に着くと、すでにその日の健康診断を申し込んだひとたちで待合ロビーがほぼ埋まっていた。
自宅で書きこんだ問診票と採尿容器を受付のお姉さんに渡し、18番という番号札を受け取る。
8時半になり、おそらくは番号順に名前が呼ばれた。何人かのまとまりごとに別々の部屋に案内されていく。わたしは心電図からのスタートだった。
心電図が終わり、レントゲンを撮られ、その次が採血だった。
そうか。採血か。
採血があることをすっかり忘れていたわたしは、少し身構えた。
注射はあまり好きではない。大っ嫌いというほどではないけれど、やっぱり痛いから好きにはなれない。
でも仕方ないよね、健康診断だもんね。ちょっとガマンしてたらすぐ終わるよね。
そう思いながら名前が呼ばれるのを待った。
採血を担当していたのは、わたしよりもだいぶ若い男性の看護師2人だった。それぞれのお兄さんの後ろには束になったカルテが置かれていた。
わたしから見て右側のお兄さんがわたしの名前を呼んだ。
行くか。
少し気合いを入れて立ち上がり、かばんを近くのカゴに入れ、お兄さんの正面の椅子に腰かけた。
「どちらの腕にしますか?」
と聞かれたけれど、どちらの腕がふさわしいのかの判断基準を持たないわたしは
「どっちでも良いです」
と答えた。
ゴムのチューブでまずは右の二の腕を縛られる。親指を中にして握ってグーッと力を入れてくださいと言われたのでその通りにする。
右腕のひじの内側のあたりを、さすったり、ぺちぺちと叩いたりして血管が浮き出るのを待つ。
いつまで経っても血管は見えてこない。
ちょっとこっちも見てみましょうか、と言ってゴムのチューブを外し、今度は左腕を試す。親指を中にして握り、グーッと力を入れる。しばらく待ってみるものの、左腕のひじの内側にも適当な血管は浮き上がってこない。
「んーーー」
と言いながら首をかしげるお兄さんの表情をチラッと見て、すぐに左側に目線をうつす。
左側の採血の列は順調に進んでいる。
(血管出にくいなー、ハズレくじひいたなー、って思われてるかな)とか思いながら、さぁここからどうするんだろうとお兄さんの出方を待った。
「もう一度右で試してみて良いですか」
そう言ってまたゴムのチューブを外し、右の二の腕がギュッと縛られる。親指を中にしてぎゅーっと力を入れる。相変わらずわたしの血管からはほとんど反応がない。にもかかわらず
「んーーー。こっちでやってみましょう」
とお兄さんは言った。
(あ、もうイチかバチかでとりあえずやってみることにしたなこの人)
そう思った。でもそれを口にするわけにも行かず、わたしも運を天に任せることにした。
「やりづらいっていつも言われるんです」
という言葉を、お兄さんにかけるべきか否か迷った。
やる前からこの人はいつも血管が出にくい人なんだ、と聞かされたら「やっぱりこの人に注射するのはやりにくいな。うまくいかなさそうだな」とやる前から諦めてしまうかもしれない。だったら言わない方が良いかな。
でも、採血しづらいっていつも言われているひとなんだから、たとえうまくいかなかったとしても仕方ないよな、と思えば、お兄さんへのプレッシャーは弱まるかもしれない。プレッシャーが弱まれば、お兄さんもそれほど緊張することなく力を発揮してくれて結果的にうまくいくかもしれない。
わたしだったら。
わたしがお兄さんの立場だったらどうだろう?
そう考えたら、いつもやりづらいって言われますと相手が言ってくれた方が、気持ちがラクになるような気がした。失敗しても仕方ないよね、だってこのひと血管出にくいんだから。そう思えた方が肩の力を抜いてやれるような気がした。
その方がうまくいく可能性が高いような気がした。
「やりづらいっていつも言われます」
わたしはお兄さんに向かってそう言った。
その言葉がお兄さんをプレッシャーから解放してくれることを期待した。
お兄さんはわたしの言うことはあまり耳に入っていない様子で「そうなんですね」とだけ小さな声でつぶやき、「チクッとしますよ」と言ってわたしの右腕のひじの内側に針を刺した。
1、2、3……おそらく10秒ほどだったと思う。
「……だめですね。すみません。やめましょう」
針を抜いたお兄さんは後ろのほうにあるデスクに向かい、内線で電話をかけた。
「あ、すいません、今から外来で採血ひとりお願い出来ないでしょうか? あ、はい、はい、ありがとうございます」
受話器を置いて戻ってくる。
その病院は、健康診断のひとたちのための受付が、外来患者の受付とは別に設けられていた。採血も外来患者とは別の場所で行われていた。
「こちらです」
と言いながらお兄さんはわたしを外来の部屋に案内した。そこにはお兄さんよりだいぶ年齢も経験もありそうな女性の看護師がわたしを待ち受けていた。
右腕がダメだったので、今度は左腕に注射することになった。
「何度も痛い思いさせてごめんなさいね~」
そう言いながら、左の二の腕がゴムのチューブでぎゅーっと縛られる。きっと大丈夫。今度こそ。そう願いながら左のひじの内側をじっと見つめ血管が浮き出てくるのを待った。
けれど、わたしの血管はしぶとかった。
全然出てこない。
「あらー。出て来ないねー」
そう言いながら、粘り強く左腕をさすったり、ぺしぺしと叩いたりしている。
いつの間にかもうひとり女性の看護師も現れ、「出ないの?」と声をかける。
「難しそうだったら院長にやってもらったらいいわ」と言う。この病院で一番採血がうまいのは院長なのだ、と。
「何度も痛い思いさせるくらいなら院長にお願いした方がいいわよ」
その言葉を聞いて、それなら今すぐ院長を呼んでくださいと言いたかったけれど、口には出せなかった。
わたしの腕をさすったり叩いたりしていた女性看護師から
「いつもどこから血取ってたか覚えてる?」
と聞かれた。全然覚えていない。っていうかいつも針を刺されるところはあんまり見ないようにしていたから、そもそもよく知らないのだ。
だいたいいつも血管が出て来なくてやりづらいって言われます。取りやすいところは特にないみたいです。わたしはそう言った。
「わからないかぁ……」
頼むからもうわたしのことはあきらめて院長にSOSを出してくれと心の中で願った。でもそれを口にすることは
「あなたのことは信用出来ません」
と言っているのと等しい気がして、それはあまりにも失礼なことのような気がして、言えなかった。
「とりあえず1回やってみる。それでだめなら院長呼ぶわ」
彼女はそう言った。
とりあえず?
上手くいくかわからないけれどとりあえずやってみる。そういう考え方があることはもちろん知っている。やってみなければ分からない。だからとりあえずやってみよう。ダメならそのときにまた考えれば良い。
トライ&エラーのその考え方自体は、わたしも嫌いじゃない。チャレンジ精神、大事だよね。そう思ったりもする。
でも。
とりあえずでやるくらいならもう院長を呼んでくれと思った。
でも小心者のわたしはそれを言えなかった。
左のひじの内側を何度も何度もさすって、それらしきところを消毒し、彼女は針を刺した。
わたしは針が刺されるところを見たくなくて、左の方に目線を移した。そこにはわたしを外来まで連れてきたあのお兄さんがいた。外来の患者さんに付き添っていた。おそらくわたしの採血を依頼するかわりにその間外来の手伝いをしているんだろうなと思った。
「だめだねー。ごめんね、抜くね」
左もだめだった。
いよいよ院長だ。きっと一発でなんとかしてくれる。そう思ったわたしに
「末梢でやるか」
と女性看護師が言った。
……ん?
左腕を縛っていたゴムのチューブで右の二の腕を縛りながら、右手の甲をさすり始める。
彼女はあきらめが悪かった。ハードルが高ければ高いほど燃えるタイプの人間だった。院長を呼ぶどころか、このままでは何度でも挑戦しそうな勢いだ。
正直ここまでは、わたしはすこし浮かれていた。
年に一度の健康診断で、採血が上手くいかなくて別室に連れて行かれる。
ベテランと思われる女性看護師がトライするも上手くいかない。
そこで院長が登場する。
なんてドラマチックなんだろう!
これはきっと今週のライティングのネタになる。これで一本記事が書ける。そう考えたら思わずにやけてしまった瞬間すらあった。
しかし、意気消沈することなくむしろ目をギラギラさせながらわたしの右手の甲に針を刺そうとする女性看護師を目の当たりにしていたら、このまま針を刺され続けたらどうしようと不安になってきた。
その不安は徐々にふくらんで、血の気がひいていった。
「横になりたいです」
そう伝えて、ベッドに横になった。これでもし採血の途中で気分が悪くなっても大丈夫だ。
女性看護師は、わたしの右手の甲をさすっている。
親指を中にしてグーにして力を入れようとするけれど、もうあまり力が入らない。
針が入ってくる。
目をつぶる。
「うわー。ちょろちょろだわー。ちょっと時間かかるけどがんばろうね」
そう言いながら女性看護師はわたしの右手の甲をぐっぐっと押している。押したら血の流れが速くなるんだろうか。
「何ccあれば足りるのー?」
わたしを連れて来てくれたお兄さんにどれだけあれば検査が出来るのか確認している。その間もわたしの右手の甲はぐっぐっと押されている。血の気はどんどん引いていく。
「これだけあれば足りると思います!」
お兄さんの声が聞こえた。
よかった……。
これでもう針を刺されなくて済む。そう思ったら血の気が少し戻ってきた気がした。
「少し休んでいく?」
女性看護師にそう言ってもらって、わたしは「はい」と答えた。10分後に様子を見に来ますねとお兄さんは言って、すたすたと遠ざかっていった。
外来のベッドで横になって天井をながめながら、これはどうやったら記事に出来るだろうかと考えた。この状況でそんなことを考えている自分が面白くて、またちょっとにやけた。
10分後、迎えに来てくれたのは別の若いお兄さんだった。
日常はネタの宝庫だ。
先週の天狼院書店のプロフェッショナル・ゼミの講義でそう教わったばかりだった。そうは言ってもなぁ、なんて思っていたけれど、本当だった。
ネタの宝庫だと思って日常を過ごす。そうすることで日常を面白がることが出来るようになる。その結果、これは面白い。これは誰かに聞いて欲しい、と思えるようになる。そういうことなのかもしれないと思った。
その日の夜、夫にこの話をした。
「そんなに血管出にくかったっけ? 太ったんじゃないの」
夫はひと言そう言った。
図星だけど腹が立った。
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