プロフェッショナル・ゼミ

ある少年に起こった悲劇《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:島田弘(プロフェッショナル・ゼミ)
 
 
 
「おばあちゃん、たすけて~」
 
それは、こうちゃんの叫び声だった。
 
こうちゃん、小学2年の8月のこと。
 
 
夏休みを利用して、大好きなおばあちゃんと一緒に
おばあちゃんの田舎に来ていた。
 
 
肥満児のこうちゃん。
 
喘息があり虚弱体質なこうちゃん。
 
虫が嫌いなこうちゃん。
 
特にセミが嫌いなこうちゃん。
 
 
そんなこうちゃんが、1週間ほど田舎に滞在することになった。
 
その家の周りには、大きな畑があり、牛や豚、ニワトリを飼っていて、
京浜工場地帯で生まれ育ち、公害病認定を受けているこうちゃんにとって
何もかもが初めての世界であった。
 
いつもは、町工場ばかりの地域で、
学校が終わると姉、姉の友達、近所の女の子たちと
遊ぶことが多かった。
 
近所に同世代の男の子と言えば、ジョーくんだけ。
そのジョーくんは心臓病を患っていて、外で遊ぶことを禁じられていた。
 
なので、女の子たちの仲間に入れてもらって遊ぶことが多かったのだ。
 
ゴム跳び、縄跳び、おはじき。
 
この3種目が定番だった。
 
あとは自転車。
 
肥満児のこうちゃん、ゴム跳びも縄跳びも苦手だった。
自転車は補助輪付きじゃないと乗れない。
 
おはじきはというと、天才的に上手かった。
こうちゃんの右手親指の爪で弾かれたおはじきは、
狙ったおはじきを百発百中で捉える。
 
今でいうならアウトドアが苦手で嫌いな、超インドア派のこうちゃん。
 
そんなこうちゃんが、その田舎の同年代の子たちと1週間を過ごし、遊ぶことになったのだ。
 
だが、こうちゃんの記憶から、あること以外誰と何をして遊んだのかはすっかり忘れ去られてしまった。
 
ある1つの強烈なインパクトのある事件によって。
 
田舎に行って3日目。
 
前日からの雨が上がり、強い日差しと蒸し暑さの中を、こうちゃんは必死になって逃げていた。
 
同じ年の女の子からである。
 
畑の中を逃げ回り、そして家の庭の方へと逃げると目の前になんとか飛び越えられそうな水溜りを発見した。
 
運動が苦手なこうちゃんでも、走り幅跳びの要領でジャンプすれば、どうにか超えられそうな大きさの水たまり。失敗したとしても、泥水がかかるくらいで済むはず。
 
そう判断して、こうちゃんなりに全力で走った。
 
「よしっ、今だ!」
 
と全ての力を出して右足で踏み切ったその瞬間、
「ヌルっ」という感触が伝わってきた。
 
そして、走り幅跳びの選手が踏切に失敗した時のように失速し、
もう片方の足で着地をした。
 
ジャンプ失敗である。
 
昨日の雨のせいか、この水溜りのせいなのか、乾いているように見えた地面は、湿っていたらしい。
 
水溜りに左足から着地をして、その跳ね返りで足がドロドロになると思ったいたのだが、こうちゃんの左足はどういうわけか、そのまま水溜りに飲み込まれていった。
 
水溜りだと思っていたのだが、実は水溜りではなかったのだ。足首くらいまでの深さだと思っていたのに、膝まで沈んでもまだ終わる気配がない。
 
こうちゃんは、どこで聞いたのか、誰から聞いたのかも覚えていなかったが、「底なし沼」の話を思い出していた。
 
「底なし沼だったらどうしよう」と思うと怖くて怖くてたまらなかった。
 
腰まで沈んでもまだ足がつかない。やっと足がついたのは、脇の下まで沈んだ時だった。
足がついて、ホッとしたこうちゃんはいろいろなことを感じ始めた。浸かっている場所が熱いのだ。お風呂より熱い。そして、猛烈に臭い、臭い、臭い。
 
こうちゃんが落ちた場所は、庭で飼っている牛や豚のウンチとオシッコが貯められていた穴だった。
 
工業地帯で育ったこうちゃんには、どうしてそんなものが庭にあるのかも、それが「肥溜め」と呼ばれるものだとも知らない。肥溜めに沈んでいるこうちゃんを見て、仲間たちは大笑いをしている。恥ずかしさはなかった。とにかく熱いのと臭いのが勝っていた。
 
早く出たい。
 
とにかく早く出たい。
 
そう思って動こうとしたが、肥溜めの物体の密度は高く、全く身動きが取れないのだ。1ミリも動くことができない。
例えるなら、田んぼに胸まで浸かってしまった感じである。
 
「おばあちゃん、たすけて~」と何度叫んだことだろう。
 
やっと、おばあちゃんが来てくれた。
 
「なにしてんだ?」と言いながら
手を引っ張ってくれたが、脱出できない。
 
誰だか覚えていないが、一人のおじちゃんが助けに来てくれた。
 
二人掛かりで、巨大なレンコンを引っこ抜くように引き上げてくれた。
 
何回目かでなんとか脱出できた。
 
「助かったぁ」
 
ウンコまみれのこうちゃんを、おばあちゃんがホースの水とタワシでウンコを洗い流してくれた。ウンコは流れたが、臭いが全く取れない。この臭さは、東京へ帰る日も消えていなかった。
 
こうちゃんはなぜ逃げていたのだろう?
 
追いかけていた女の子の手には
こうちゃんが大嫌いなアレが握られていた。
 
セミから必死に逃げていたのだ。
 
そして、肥溜めに落ちてしまった。
 
「肥溜めに落ちた」なんて、東京の友達には恥ずかしくて話せない。
 
私の人生の汚点として、この事実は語ることなく20年以上が経過した。
 
 
ところがある日を境に、「肥溜めに落ちた自分」を誇らしく思えるようになった。
 
尊敬する超有名タレントさんも子供の頃に肥溜めに落ちていると聞いたからだ。
同じ経験をしていることが嬉しい、という妙な感覚。
 
 
その後、「肥溜めに落ちると出世する」「肥だめに落ちた人は健康になる」というような話も聞いた。
 
ひょっとすると、今の「私」があるのは肥溜めに落ちたからなのかな。
 
***

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