変わらない日々のために、変わりたい日々のために《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:近藤頌(プロフェッショナル・ゼミ)
※この記事はフィクションです
[1週間で性的指向が変えられます。詳しくはこちらまで]
電車での帰り道。いつもの習慣で流し見ていたSNSのニュースフィールドに、この文言が飛び込んできた。
真樹(まさき)は一瞬、自分が何を読んでいるのかわからなくなった。わからなくなったついでに、さっき頼まれた飼い三毛猫ミャー子のエサを帰りに買い足さなければならないことも、遠く吹き飛んでいってしまった。
今日は4月1日ではない。たとえ4月1日だったとしてもタチの悪い嘘である。
今はもうひと昔前とは違う。
ひと昔前はまだ、中学高校の保健の教科書にもセクシャルマイノリティーの記載はされておらず、相も変わらず「思春期になると異性に関心を抱くようになる」という同性愛者や無性愛者のことを蔑ろにする言葉が頑なに使われ続けた。しかし10年ほど前から再び義務教育の正式科目となった道徳の授業で使われる教科書の中には、性の多様性を記載したものがちらほらと出てきてくれるようになり、最近やっと保健の教科書にも記載されるようになった。
その道のりの歩みはなかなかゆっくりだった。最終的には段階を踏んで、人権としての括りの一部として語られるようになった。小学校低学年では人はいろいろな人がいる。話す言葉や肌の色が違うのと同じように怪我や病気によりある事ができない人もいる、という事をまず伝えていき、高学年、中学になって、人それぞれ違うというのは、性についてもいえて、男、女がはっきりしていなくても問題ないんだよ、という姿勢を徹底していく指導へと変わっていった。もちろん体の構造や病気については今までのものを引き継いで、精神的な性の部分に対する認識にも重きを置くような教育方針になったのである。
真樹はちょうど10年前から、自身の仕事は仕事としてやりつつ、セクシャルマイノリティーの認知理解のための活動の手伝いをし始めた当事者だった。
アクティビストと呼ばれる、法的整備を目標に行動している人達のサポート、イベントのスタッフが主な活動内容だったが、その手伝いのひとつに、教科書記載実現を目指していた団体があったために、動向には詳しかった。
真樹は元々、そういった活動には批判の眼差しを向けていた、当事者内でも珍しくない考えを持つ人のひとりで、セクシャルマイノリティーの権利だ、差別だ、傷ついただどうのこうの言う人達とは距離を置いていた。
当事者でない人達の、「嫌悪するのも自由では?」「過敏すぎてめんどくさい」という意見も妙に共感してしまっていたし、何やら守ってやっている、救わなきゃいけないみたいな切迫感がどうにも窮屈で、正直なところほっといてくれという心境が根深く構築されていた。よって真樹は成人してからも、隠し続ける人生を選ぼうとしていたのだった。
ところが段々世の中が、“そういうこと”に寛容になってきているような気配を真樹は肌で感じ始めていた。だからという訳でもないのだが、自分自身のこの謎というべき欲望について、もうちょっと詳しく知っても損はないんじゃなかろうか、と思い始めた。カミングアウトする気など爪の先ほどもなかったが、自分について知りたいという欲求は知らぬうちに高まっていった。
そんな無意識が功を奏したのか、茨城大学で「エンジン・ゼロ・ワン 文化戦略会議オープンカレッジ」が開催され、その中に、「セクシャルマイノリティーについて」という授業があることをたまたま知るに至った。
地元からも今住んでいる都内からも程よく離れた土地で行われるそれが魅力に映らない筈はなく、すぐに参加を決めていた。
そこで知った性の考え方。
体の性。
心で自認する性。
好きになる性。
言葉遣いや仕草、服装といった表現する性。
これらの性はそれぞれ別物として考えられ、かつ自身が意図して選ぶことはできないものであるということを改めて提示していた。
確かに、当たり前すぎて気づかなかったが、真樹は好きで同性に欲を感じている訳ではなかった。そこに選択の余地はなかった。
そこがはっきりしたことで、どうしてアクティビスト達が声を上げているのか、法整備をすることで何を目指そうとしているのかが、なんとなく掴めてきたような気が真樹にはした。つまり、選べないからこそ選べるところは選べるようにしてほしいというその一点に尽きるのだ。どうしても同性しか好きになれないので、同性でも同居できる賃貸を増やしてほしい、異性婚と同じような扶養手当や保険の手続きができるようになってほしい、子どもを育てて暮らしと未来を共にしたい。
これらは法がなければ一般に実現されない。
もちろん法があっても、嫌悪を持つ人はいなくならないだろう。しかし、異性愛者の持っている待遇を受けられている上での蔑視と、未来も何も望めない中での蔑視では、どちらが酷かは考えるまでもない。
真樹は、徐々に徐々に、時間をかけて、自分の中にある偏見を取り除いていった。
アクティビスト達は“弱者”という刃物を振り回している訳ではないのだ。ただ単に後ろ盾を築いてもらえるように、ケナされても誰もが気にしないでいられるようにしたいとの、その一心であると信じるようにしていった。
そうした、いろいろな人の小さな小さな活動が積み重なって、今や47都道府県全ての、どこかの区市町では、同性パートナーシップ証明書を発行できるようにまでなっていた。それに伴って自然と企業も対応することが当たり前になっていった。
あと少し。あともう少しで、ついに日本でも同性婚が合法化される。
そんな時にまさかだったのである。
[1週間で性的指向が変えられます]
だなんて、実現して欲しくなかった恐ろしい現実が目の前にどーんと立ち現れた。
性的指向とはつまり、好きになる性のこと。ふんわりといえば、どのような人を好きになるかの方向性。
選べないからこそ、いってしまえば言い訳が立っていたのに、その根底が覆されてしまう。
その記事を読めば、都内のある病院でのみ受け付けていて既に結果は出ているとのこと。脳の内側前脳快楽回路と呼ばれる領域を電気的に刺激することで、きっかけを作れるとのこと。刺激しただけでは完全には変われないので、変わりたいという意志が必要とのこと。1日1時間の1週間(時間帯は自由)を継続できるようにする必要があること。保険は効かないとのこと。
そのあたりまで読んで、真樹は怒りよりも前に空恐ろしくなってしまった。
鈴を鳴らしたらよだれが出るようになったあの実験、“パブロフの犬”が連想された。
急いで誰かに共有したかった。
もうすでにその記事のコメント欄は賛否両論の大騒ぎ。道徳的。倫理的。選択権。自由。ごちゃごちゃとした文字が真樹の頭の中を回り出して、すぐ読む気には到底なれなかった。
真樹はとりあえず、青田さんに連絡をした。
青田さんは、とあるイベントで出会った年配の当事者で、その時からよく相談事をするようになった。初めてイベントの手伝いをしたのも、青田さんからの紹介だった。
青田さんももうこの件は知っているようで送られてきた文面から怒りがにじみ出ている。そしてその病院への具体的な抗議の声明文まで考えているという。
青田さんらしい、とちょっと安堵したものの根本的な不安は拭いきることができなかった。
幾日かが過ぎてもこの件は収まる気配がない。
今やネットがテレビにとって変わりきった時代。
ネットの影響力は強大なものになっていた。
会社でも、仲のいい同僚は話題に挙げてきた。
でもそれは、真樹にとっては救いだった。
こうして話せることこそが、特に当事者でない人と気軽に話せることこそが、踏み固められた土壌を耕すことにつながっていたのだ。
だから尚更、真樹は自身の性的指向を変えたいとは思えなかった。
ここまで築き上げてきたものをどうして壊すことができるだろう。ここで変えてしまったら裏切り以外の何でもない。
真樹の決心とは裏腹に、日が経つにつれ、またもぶり返す嫌悪と蔑視。
青田さんらの声明も虚しく、大きな流れは「選べる自由」へと傾きつつあった。
ミャーン。
台風が近づいているからか、8月なのに涼しい夜の日だった。
珍しくすり寄ってくるミャー子に足が触れながら、真樹は相対している人の顔を直視できずにいる。
「別れよう」
利雄(としお)はとうとう切り出した。
真樹は、やっぱり、と思った。思ったと同時にもう先が決まってしまったように感じた。展開の読めたあらすじをわざわざ辿らなければならない倦怠感を必死に抑えつつ、意味もなく左下に目を向けながらとりあえず理由を聞いた。
聞けば、性的指向を変えたいという。
なんとホットな話題だろう。心の中では金髪のカツラに高鼻をつけて両手の平を大げさに空に向けている。
しかしここは至って真剣さを貫きにかかる。
ここでバカにしてしまっては自分も蔑視する人と同じ。そう思ってはみたものの、どうしても目に軽蔑の色がこもってしまう。
まったく、利雄は優しい。つまらないほどに優しい。ちゃんと考えた上でのこの場。真樹の入る隙間のない場。子ども。前妻。実家の両親。そこまで考えているんだったら、そこまで考えているのにも関わらず真樹の入るところがないなら、それはもう、しょうがないような気がしてきてしまった。真樹はこれからを心地よく過ごすための選択として、その事実を受け入れるしかないように思った。
ミャー子はわかっているのかいないのか、机の下のふたりの足先の間を取り持ってくれている。
一応、言いたいことは言っておいた。不思議と感情的にはなれず、淡々と言えることに誇らしささえ芽生えていた。こういう時はなぜか回想したりする事がないことを真樹は知った。元々、こうなる予定だったのかもしれない。あの件はただのきっかけに過ぎなくて、遅かれ早かれこうなる予定だった、と。
「最後の思い出に、その……」
真樹は胸ぐらを掴んでいた。
ミャー子は変な声を上げて物陰に隠れた。
ついカッとなって掴んだものの、すぐに血液は体内に降りていき気まずい空気だけが横たわった。
ぶっきらぼうに手を離してトイレの中に逃げ込む真樹。
左手の親指と小指でこめかみをがっちりと掴み、自分が泣きたいのか泣きたくないのかわからないのでしばらくそのままじっとしていた。
聞き覚えのある足音が、扉の前を通り過ぎ、別の扉を開けていった。
真樹は初めて終わりを体験した。終わりが体験できたことに、しばしほうけることになった。もうずっとこのまま、何も感じない、何も思わない、何も変わらない日々の中を漂うことになるのかもしれない。
トイレの便座の上で体育座りをして、丸くなってみる。丸く丸く、自分の心も丸くなるように、ぎゅっと体を縮こませ続ける。
不発弾を抱えてしまった。
誰かに爆発させてほしいと思った。
この身がバラバラの肉塊と化しても、目を背けずにいてくれる人。
遠くでミャー子が鳴いている。エサが欲しいと鳴いている。
飲み込んだ風船が萎まないようにゆっくりゆっくりエサをやりに行く。
そのまま電気を消してやった。
ミャー子は構わず食べているようだ。
月明かりよりも、地上からの灯りが視力の支えとなった。
布団の上に座り込み電話をかける。
「……もしもし、どうしたの? こんな時間に」
さすが母。一声で火を灯してくれる。
「ああ、ごめん。寝てた?」
「まあ、寝ようとはしてたけど。どうしたの? 何かあった?」
「まあ、いろいろと……。ね」
ねえ、と声をかけようとして、息が詰まってしまった。
灯された火が少しずつ、不発弾のそばに近づいていく。
「ねえ……」
そこまで言って、絶句してしまった。息をしようとして不連続的に吸い吐きを繰り返してしまう。しまいには鼻水をすする音まで響かせてしまった。
みっともない。30をとうに過ぎたのに。
母は黙ってその音に耳を傾けてくれていた。
ひとしきり呼吸を整え終わったあと、
「あのさ……」
「なあに?」
「俺がゲイだって言った時、どう思った?」
車が通ったのか、天井を素早い光が照らしては消えた。
「……どうって、そりゃびっくりしたかな。だってあなた、そんな風に見えなかったから」
「……それで?」
「……それで? う〜ん。あの時のあなた、本当に苦しそうに見えた。苦しかったんだなって。でもそれを、苦しくても、伝えてくれてるんだなって思って、なんだか嬉しかったかな」
「……そっか……そっか」
「どうしたの? 紹介してくれた人に振られでもしたの? 大丈夫よ、見つけたいって思ってたら案外見つかるものなんだから。さっさと切り替えなさい」
この母はまったく。恐るべしというかなんというか。
不発弾は爆発したのか自覚のないまま、もうあたりにはいなくなっていた。
朝だ。
なかなか寝覚めはいい。
これからまたひとりの、ひとりと一匹の生活が始まる。
面倒なことも山積みだけれど、気分的にはもう済んだようだ。
真樹もまだまだ変わっていける。
変わらない日々を送るためにも。
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