プロフェッショナル・ゼミ

レモンを手に入れたら、レモネードをつくれ。酸っぱいからといって捨ててしまうな《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:山田あゆみ(プロフェッショナル・ゼミ)
 
「ぶちっ」
倒れかけたその瞬間に、何かが切れるような、嫌な音が聞こえた。
体の中から。
 
やばい。これはいつもと違うやつだ。
 
世界から一瞬色が消えた。
音も消えた。
 
地面に倒れ行く自分を、外から見ているような不思議な感覚だった。
時間がとってもゆっくりと流れた。
倒れるとわかっていながら、どうすることも出来ない。
手で身体を庇いながら地面に倒れこんだ。
 
汗がわーっと吹き出てきた。
冷や汗だった。
 
それはサッカーの練習中だった。
私は、大学2年生でサッカー部に所属していた。
 
結果的に、私はその瞬間に足の小さな骨を折ってしまった。
絶対に怪我をしてはいけないタイミングで。
なぜなら約1か月半後に試合を控えていたからだった。
しかもそれは、ずっと目標にしていた大きな大会だった。
1年以上も前から、その大会だけを目指して、日々頑張ってきた。
それなのに、完全なる自分の不注意で足を壊してしまった。
単なるドリブルの練習中だった。
なんてことはない、簡単な練習である。
本当ならこんなことで、骨なんて折りようもないような。
 
怪我の原因は明らかだった。
冬の寒い日だった。
いつもなら、練習を始める前に、念入りに行うはずのストレッチに手を抜いていた。
昨日も練習をしていたし、一昨日もしていたし、気を抜いてしまっていたのだ。
 
その1年間、生活の中心はサッカーだと断言できるほど、私はサッカーにかけていた。
キラキラな女子大生とは程遠い身なりだった。
肌は日焼けして真っ黒で、私がサッカーをしていることを知らない友達からは、同じ人間だと思えないと引かれる始末だった。
夏休み明けに会った、大学の先生には、「何事ですか?」といつもより高いトーンの声の本気モードでびっくりされた。
練習を理由に飲み会の誘いも断りまくっていたし、長期休みに遠くに旅行さえ行かなかった。
全ては、サッカーのためだった。
 
こんなに頑張ってきたのに、全てを捧げてきたのに、些細な怠け心でチャンスを棒に振ってしまうなんて。
なんて馬鹿で、詰めが甘くて、まぬけなんだろう。
圧倒的な自己嫌悪が襲ってくる。
壁に頭を打ち付け続けたくなるほどの嫌気。
 
病院に行った。
先生は厳しい顔をした。
 
「うーん、難しいでしょうね。試合までに完治はしないかな。様子をみるしかないでしょう。うまく行けば試合には出られるかもしれません。ただ、とにかくこれからしばらく、まず1ヶ月は練習出来ません。安静にしておくように」
 
思った通りの答えだった。
 
1週間くらいぼーっと過ごした。
練習は、もちろん全部休んだ。
だって、動けないのだ。
 
学校には行ったけれど、授業をただ眺めていただけだった。
何も頭に入ってこなかった。
練習ばかりしていたので、当然スケジュールには、ぽっかり穴が開いた。
心にもぼっかり穴が開いてしまった感じだった。
 
もう試合に出られないかもしれない。
憧れの舞台に立つチケットをやっと手にしたのに。
怪我は治るだろうか。
試合に出られるだろうか。
出られなかったらどうしよう。
 
試合に向けてスパートをかけて行くつもりだったのに。
ここでまた、ぐっと成長してやるつもりだったのに!
全部台無しだった。
 
これまでの時間は、努力は、何だったんだろう。
馬鹿みたいだ。
いや、馬鹿だ。
あほすぎる。
 
自分をひとしきり責め続けた後は、一気に全てがどうでも良くなった。
何もしたくない。
やる気もない。
感情がなくなった感じだった。
自分が自分じゃないみたい。
自分の目で目の前の光景を見ているはずなのに、自分の生活を、全てガラス越しに見ているかのようだった。
何をしていても何も感じない。
痛くも、痒くも、嬉しくも、何ともない。
 
「練習出来なくて、ストレスたまっているよね? 大丈夫?」
 
自分が自分じゃないかのようなガラスの世界にはまり込んでいた頃、栄子からメール届いた。
栄子は、部活の同期でこれまで一緒に苦楽を共にしてきた、仲間だった。
 
大学の学部の友達も、家族も、みんな私を心配してそんな言葉をかけてくれていた。
そして栄子もまた、心配してメールをくれたのだった。
 
これまでみたいに「大丈夫」って送らないと、と思った。
みんなすごく心配してくれるから、何だか申し訳なくて、全部に前向きな返事ばかりしていた。
いつも、笑顔で、大丈夫だよと言った。
まぁいい休憩だと思って、ちょっとゆっくりしようかなって思っているよ。
心配しなくても、大丈夫だよ。ありがとうね。
 
栄子にもそう返事しよう。
 
でも、そのメールには続きがあった。
 
「きっと、怪我が治るか不安だと思う。辛いと思う」
「自分を責めているかと思うけど、あんまり思い詰めずにね」
 
長いこと、そんな調子の気遣う言葉が並んだ。
これまでにないくらい長い文章だった。
 
何も言っていないのに、私がどんな風に辛いか、きついか、苦しいか、わかってくれていた。
 
そうなの、私は自分で自分を責めて辛かったの。
これまでの努力が無駄になった気がして辛かったの。
 
言葉にしなくても、適確に自分の思いを汲んでくれる人がいることの心強さといったらなかった。
 
気がつくと泣いていた。
 
そうなんだよ、辛くて、怖くて不安で、自分のことが嫌になって、もう耐えきれなかったの!
栄子の言う通りなの。
私、全然大丈夫じゃないの。
 
胸に渦巻いていた暗くて黒い感情が外にドバッと流れ出した。
苦しい、辛い、きつい、悲しい。
久しぶりに感情が戻ってきた。
 
一しきり泣くと、スッキリした。
嫌な気持ちが涙と一緒に流れていくような感じがした。
 
メールにはまだまだ続きがあった。
 
「私はね、あゆみは、怪我しててもサッカー、うまくなれると思うんだよね」
 
その文章を思わず二度見した。
え? は? 怪我していて、ボールを蹴ることはおろか、走ることも出来ないんだけど。
骨折れてるんだけど。
それでどうやって上達するんだよ。
私は、一変、イラっとしていた。
 
そりゃ、あんたは出来るよ。
あんたは、これから試合までの間にきっとまた爆発的に伸びるんだろうよ。
 
栄子は、既に私なんかよりボールコントロールも上手ければ、持久力もあった。
もともと私なんかより全然上手なのだ。
それだけじゃない。栄子には、例えば負けている試合で交代選手としてピッチに立てば何かが起きるかもしれないと思わせられる「芯の強さ」があったし、「華」があった。
強い気持ちをちゃんとパフォーマンスとして表に出せる。
多分それは、その気持ちに嘘がなく、自分に対する揺らぎない自信を持っているからこそ成せることだった。
そして、彼女は、試合に出れば出るほど、またコツを掴んでどんどん上手くなっていくのだった。
吸収力が高いのだ。
 
そして、またきっと私が怪我をしている間に、みるみる差をつけられるに違いない。
悔しい。
ものすごく悔しい。
 
「上手になる方法って単に自分が動くことだけじゃないと思うよ。練習出来なくても、上達する方法っていっぱいあると思う。例えば他の人のプレーをじっくり見るとか、それを見てイメージを膨らませるとか」
 
あー、そうか。
そんなこと考えたこともなかった。
確かに、普段は他の人の動きをゆっくり観る暇もない。
トラップの時の足の使い方や、ボールの置き場所、ロングキックをする時の軸足の位置。
ボールを持っていない時にどう動くか。ボールを引き出すための動き方。
観るべき事は、いくらでもあった。
そんな事にも気が付かなかったなんて。
 
自分が情けなくなった。
それと同時に、また悔しくもなった。
栄子はいつも、機会を伺って先輩の動きも良く見ているに違いなかった。
パスの仕方や、身体の使い方や、動きを、全部見ているのだ。例えば、休憩中にも。
そうやって、ちゃんと工夫して、頭を使って、どんどん吸収してがんがん出来るようになっていっているんだ。
それなのに、私は、自分のミスで怪我をして、それでやさぐれて、自分を見失っている始末だ。
ダサい。
とことんダサい。
この差が、きっと私と栄子の上達率に差を生んでいるんだろう。
 
悔しい。
悔しくて悔しくて、たまらない。
でも、何だか無性に嬉しくなってきた。
私、怪我していても練習出来なくても、サッカーうまくなれるんだ。
 
いつか、憧れの先輩みたいに、栄子みたいに、試合で活躍できるようになりたいんだ。
この大事な試合に間に合うように、間に合った時の為に、備える。
プレーをいっぱい見て、イメージトレーニングもして、この時間にしか出来ない事を全部しよう。
無感覚に陥っている場合じゃない。
時間を無駄にしている段じゃない。
 
いてもたってもいられない気持ちになった。
 
ガラスの世界は、跡形もなく砕け散った。
気がつくと、泣きながら笑っていた。
久しぶりに、心から笑った。
 
久しぶりに行ったグラウンドには、冷たい風が吹いていた。
それなのに、周りに漂う空気は暖かくて、私にはこの場所が必要なのだと改めて実感する。
栄子は、私を見つけてニヤっと笑った。
それからすぐに練習に戻って行った。
 
ふと、本を読んでいて出会った言葉を思い出した。
「レモンを手に入れたら、レモネードをつくれ。酸っぱいからと言って捨ててしまうな」
 
そっか、怪我はレモンだったんだ。
これから、どんどん美味しいレモネードにしていくから、待ってろよ、栄子。
 
機敏に動く栄子の姿を、私はいつまでも、いつまでも追い続けた。
 
***

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