プロフェッショナル・ゼミ

祖父が遺した日記《プロフェッショナル・ゼミ》


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記事:伊藤千織(プロフェッショナル・ゼミ)
 
「じいちゃんは本当におっかなくて、俺なんかよくぶったたかれていたんだ」
 
父は祖父のことを話すとき、いつも決まってこう言うのだった。父にとって祖父はとても怖い存在だったようで、いかに祖父が狂暴だったか脅して来るのだった。私はこの言葉を物心ついたころからよく聞かされていた。そのせいで、祖父に会うときは少し身構えるようになってしまった。
 
祖父は北海道で長年酪農や農業を営んで暮らす開拓民だった。自然の厳しい環境の中で祖父は5人の子供を育て上げた。子供たちも仕事を手伝い、その際に徹底して厳しい教育をしてきたようだ。父は長男だったため特に厳しくされていたそうで、その記憶がこびりついているのだろう。
 
しかし父からの前評判は全くあてにならず、祖父は私や他の孫には優しかった。だが今思えば祖父とはしっかり会話をしたことがなかった。祖父は食事を終えるとすぐに自分の部屋に戻り、親戚一同でにぎわう場には入ってこなかった。祖父は食事と風呂トイレ以外、基本的に部屋にこもりっぱなしだった。
 
祖父は車いすで生活をしていた。第二次世界大戦中、パプアニューギニアの最前線にいた際に右足を負傷し、途中で日本に戻ってきた。治療を続けていたが感染症により足の組織壊死してしまったようで、私が生まれた後に右足のひざから下を切断したそうだ。
よって、祖父は基本的にいつも部屋のベッドの上で過ごし、私たちと積極的にかかわることはなかった。
 
そんな祖父は私が12歳の頃に亡くなった。
私は泣けなかった。祖父との思い出がなかったからだ。
私たち家族が住んでいる東京に祖母や叔母は遊びに来てくれたことがあったが、車いす生活だった祖父は東京には来られなかった。そのため、祖父には私たち家族が長期連休中に北海道に帰省するときしか会えなかった。
 
また、祖父が亡くなった日は、私にとって小学校生活最後の運動会の日だった。
前日から祖父の具合が悪いことは知っていた。もしかしたら最悪の事態になるかもしれないということも聞かされていた。しかし私は選抜リレーの選手に選ばれていたため、どうしても運動会に出たかった。どうにか明日だけでいいから元気でいてほしいと願っていた。
しかし、それは叶わなかった。早朝母に起こされると「じいちゃんが亡くなったから、すぐ支度して行くよ」と言われた。
私は「嫌だ、運動会に行く!」とごねた。許されるわけがないが、それでも当時の私は運動会への熱量の方が高かった。泣きじゃくりながら、無理やり飛行機に乗せられた。
 
葬儀で印象に残っていたことは、祖母が祖父の棺の前で「じいちゃん、じいちゃん、」と泣きながら名前を呼んでいた姿だった。祖母は普段人前で涙を見せない強い人だった。そんな祖母でさえも、身近な人が亡くなる経験はこんなにも悲しみと衝動を与えてしまうのだと、私は子供ながらに命の儚さを知ったのだった。
 
祖父が火葬されると、そこにはカラカラになった祖父の骨だけがわずかに残っていた。箸で隣の人に渡していき、骨つぼに入れた。ほぼ灰になってしまった祖父の骨はとても軽く、本当に本人のものなのか疑いたくなった。
 
火葬場の外に出ると、建物の煙突から煙が出ていた。
「ほら、じいちゃんが空へ向かっていくよ」
母にそう声をかけられた。祖父は現世に何も残さずに空へ飛び立ったのだと感じ、母と一緒に手を合わせた。
 
 
祖父の死から1年が経ち、1周忌のために私たち家族は再び東京から祖父母の元を訪れた。法事が終わり、親戚全員で夕食を囲んでいた時だった。
母や叔母がとあるノートを読んで盛り上がっている様子を目にした。私は何を読んでいるのかと覗き込んだ。すると、そこには誰かの日常が細かく綴られていた。
 
それは祖父の日記だった。祖父は何年もの間、1冊のA4ノートに日記をつけていたようだ。1か月の出来事を2.3行にまとめており、その年数は40年以上に及んだ。毎年欠かさずつけていたのか、あるいは直近の何年かで思い出して書いていたのかわからない。しかし、そこに記載されていた出来事は数行であったが非常にわかりやすく、祖父の考え方が手に取るように反映されていた。
 
私は母からノートを奪い、祖父の文章を食い入るように読んだ。父の中学校への入学から子供たちの結婚、出産、離婚、病気のことなど、全ての出来事が記されていた。
その中で気になる一文を見つけた。
 
「19○○年○月 6人目授かるも体調不良のため中絶供養」
 
はじめて、祖父母の間に6人目の子供がいたことを知った。このことは母も、父や叔母でさえも知らなかった事実だった。口に不用意に出さないほど、祖父母にとってはつらい出来事だったのだろうか。祖母にこの件に関して聞いても「ああ、そうだね」としか答えてくれなかった。
 
また、10年以内の出来事の中に、新車を購入し早速祖母とドライブに行ったというような情報も入っていた。
この一文に母や叔母は「じいちゃん、よっぽど車が気に入っていたんだろうね」と、懐かしさで声が震えていた。その場にいた全員で、祖父の人生を共有した。
 
日記は祖父が亡くなる3年前までで止まっていた。
私はこの日記を読み、人の人生の面白さに触れた気がした。決して波乱万丈な人生ではなく、普通の父親として時代に流されながらも生きた祖父の軌跡が、とても愛おしく感じた。
私はこの日記を手放したくなかった。遺言よりももっと価値のあるものだと思った。
 
それ以降、新聞で人の価値観をインタビューしたりこれまでの人生のきっかけについてインタビューしたりしているような記事ばかり読むようになった。そして内容に引き込まれ、私もその人の人生を共有しているような感覚になった。
人の人生なのに、なぜこんなにドラマチックに書けるのだろう。私は文章を真似したくなり、新聞記事を書き写したこともあった。
 
人が生きただけで、こんなにも感動を与えるのだ。それなら、私もこの仕事がしたい。そう思い、しばらくの間、将来の夢は新聞記者や編集者だった。
 
 
実際、祖父の葬儀から10年以上が経ち、すっかりそんな自分の決意を忘れてしまっていた。夢も薄れてしまった。しかし、今年に入って編集者になりたかったあの頃の自分を思い出しライティング・ゼミに通い出した。課題は様々なテーマで書き、何度か掲載してもらったこともあったが、母について書いた記事は編集部セレクトに選ばれた。
 
私は家族や他人の人生に感動したものを書くと気持ちが入るのだろう。人にインタビューしてその人の記事を書く仕事をしようと、この時に決意した。
 
祖父の遺してくれた日記が、今日の私の始まりだった。
祖父は私のことを見守ってくれていると信じ、決意をそのまま実行できるよう、文章を書くことをあきらめずに続けていきたい。
 
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